塚田健一 「アフリカ音楽の正体」
2016-09-17
合唱が好きな人は二通りに別れる。いわゆる西洋音楽の技法でつくられた,発声がベルカント的な,いわば正統派の合唱しか認めない人。もうひとつは,民族音楽の合唱,いわゆる民族発声の合唱も好む人。論理的にはあと一通り,民族発声の合唱しか認めない人(芸能山城組に,もし原理主義者がいたら,そうなるのだろうけど)。
私は二番目の,民族合唱も大好きな人間。CDの棚にはINEDITの民族音楽CDや,極めつけにはキングの「世界民族音楽大集成」なるCD100枚の全集まで所有している。この全集で,アフリカ・インド洋の解説を書かれているのが,この本の著者である塚田先生だ。本屋で見かけて,お名前に記憶があり購入したところ,CD付属の概説と異なり,また,全集から20年の研究の積み重ねもあり,アフリカ音楽の理論について詳細に述べられており,本当に面白かった。著者が採取した音源がホームページで聴ける(ダウンロードできる)のも理解を助ける。
アフリカ音楽といえば,誰もがまず黒人霊歌やジャズの母体となった,「豊かなリズム」を思い浮かべるだろう。この本でもポリリズム1), 拍や表示が異なる複数のリズムが同時に進行していくことや,「水平的ヘミオラ」,例えば6/8拍子と3/4拍子のような,二拍子と三拍子系のリズムが交互に現れる構造,を用いてアフリカ音楽の構造を説明していく。西洋音楽の言葉で説明できるのだけど,その根本が違うというのが面白い。例えば,西洋音楽ではヘミオラは曲のクライマックスに使われるのだけど,アフリカではヘミオラは基本要素である。また,強拍・弱拍の概念は共有するが,西洋の合唱指揮者なら強拍を下拍(下に向けて振り下ろす)のに,アフリカでは上拍で振られるらしい。これが,彼らの感覚にあっているらしい。
もうひとつ,アフリカ音楽の奥義として「演奏しないリズムが聞こえる」がある。複数の演奏者が異なるリズムを打つと,そこから誰も打っていないリズムが聞こえる。これはゲシュタルト(形態)心理学による現象で,リズムやメロディーは各構成要素の単なる集合ではなく,それらの全体的な性質によってまとまりのあるリズムやメロディーとして認識するらしい。著者は書いていないけど,おそらく,インドネシアはバリ島のケチャも同じだろう。芸能山城組のライブCDで「各パート」ごとに演奏して聞かせているけど,確か5つぐらいのパートが集まってあの「チャッチャッ」というリズムが現れてくるのと。
1) Perfumeの2007年の曲「ポリリズム」の間奏部分がポリリズムらしい。
和音についてもどのようなルールで和音が付けられているか,短調と長調は聞き分けているけど同じものとして扱う,など面白いけど,ここでは省略。珍妙で面白い,「アフリカ音楽で音律は旋律を規定するか」を紹介する,アフリカの言葉は「音調言語」,つまり同じ音の単語でもイントネーションを変えると別の単語になる。日本語の「ハシ」が,「橋」「箸」「端」であるようなものだ(関西と関東で割り振り方が違うらしいけど)。
ナイジェリアのヨルバ王国の言葉ヨルバ語も同じである。19世紀にイギリスがキリスト教を広める際,自国の賛美歌の旋律にヨルバ語の翻訳歌詞をのせたため,音調が変わり,意味が全く伝わらなくなった。「哀れな犯罪者よ」が「睾丸結核に苦しむ哀れなものよ」になってしまったとか。。
研究の結果は,音律に沿わない場合もルールがあるようで,旋律は音律でになるべく合うように作られている,ということらしい。日本語の「ハシ」でイントネーション間違えても意味は通じるし,同じことか。
日本では山田耕筰は標準語と標準語アクセントに全て揃えよという主義だったらしい(團伊玖磨が「夕鶴」でそう言われて,困ったとか)。関西出身の多田武彦はそこで悩んだらしいけど,中田喜直に自作の例を示されて,必ずしもあわなくて良いと教えられたとか2)。
2) 余談だが,だったら男声合唱組曲「富士山」第1曲「作品第壹 」の終盤,「花をくわえて」が関東の人に「鼻をくわえて」と聞こえる,との理由で「改悪」されたのを戻してもらいたい。そこだけメロディーが壊れてるよ。
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