男声合唱組曲「草野心平の詩から」を巡って

 男声合唱組曲「草野心平の詩から」は,多田武彦氏(以下敬称略)が作曲した百を超える無伴奏男声合唱組曲の一つである。このようなタイトルの記事を読もうという読者には,説明不要のことでしょう。

 私は多田武彦の組曲の中で,「草野心平の詩から」が一番好きだった。初めて聴いたときに,その世界の大きさと美しさに打たれ,自身で歌ったときも演奏しながら深い感動を覚えた。それから30年近くたち,全ての多田武彦の組曲を知っているわけではないが,今でも最高傑作ではないかと思っていた。

 残念なことに,92年頃に多田自らがこの組曲を「改悪」し,高い完成度の作品のあちこちを綻びさせた。久しぶりにこの組曲を聴いた私は,かってのアイドルが皺だらけになって登場したときのような衝撃を受けた。歳をとってから「昔の方がよかった」と言うのは良くあること。私自身も,これを「改悪」と感じるのは,単なる郷愁ではないかと思った。しかし,あれこれ考えた上で,これはやはり「改悪」であると考えるようになった。

 最近になって,慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団が定演で男声合唱組曲「草野心平の詩から」を演奏し,それは「改悪」前の楽譜,恐らく初演時の楽譜であることを知った。言うまでもなく,ワグネルは1961年に多田氏にこの組曲を委託し,初演した団体である。

 また,仙台市の合唱団Palinkaも昨年度の演奏会で,この組曲を初演時の楽譜で演奏したことを知った(フェースブック「男声合唱組曲『草野心平の詩から』をうたう会」)。

 これらの団体がどう考えて,初演時の楽譜を用いたのかは分からないが,以前の版を好む私には嬉しい話だった。そこで,この組曲について調べたことや考えたことを記していこうと思う。


「慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団」

 多田武彦(敬称略)の傑作である男声合唱組曲「草野心平の詩から」は,1961年12月の慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団(以後,ワグネル)の第86回定期演奏会で初演された。多田武彦,ワグネル,指揮者の畑中良輔は各各に,この組曲にかける特別な思いがあった。まずはワグネルについてみていく。

 ワグネルは,ホームページ(注1)によれば1902年(明治35年)に創設された歴史ある団体で,1903年に早くも第1回の演奏会を開き,合唱を披露している。大正時代の初めにはOBでもある大塚淳が指導し,活発に活動していた。大塚は,1928年(昭和3年)に「男声四重唱曲集」を出すなど当時の合唱界をリードした一人。合唱コンクールには反対の立場を取ったようで,戦前にも開かれていた合唱コンクールにワグネルは出ておらず,3連覇を達成した関西学院グリークラブと異なり,実力を客観的に評価することは難しい。

       1)http://www.wagner-society.org/library/library_adsl.htm

 戦後は,同じくOBである梅原文雄が指揮をし合唱コンクールにも出ていたが,必ずしも良い成績ではなかった(1948年(昭和23年)の第3回関東合唱コンクール学生の部では,1位東大コールアカデミー,2位早大音楽協会合唱団(現在のグリークラブ),3位がワグネル)。磯部俶が指揮する早大グリーや山根一夫の横浜国大グリーの後塵を拝していた。コンクールの成績が全てではないものの,その後の実力からすれば低迷期と言わざるをえないだろう。当時,全国大会で無敵だった関西学院グリークラブがハーモニーを最優先させていたのに対し,梅原は一人一人の声楽的訓練の上にハーモニーを作るという方針だったが,上手く機能しなかったようだ。

 この状況は,梅原が退いた後,戦前にも一時指導をしていた木下保を1955年(昭和30年)に招聘した後も大きくは変わらず,木下から「ワグネルは関学から10年遅れている」と言われていた。音楽的にはともかく,発声がワグネルの弱点であったようで,1957年(昭和32年)の第6回東西四大学合唱演奏会を聴いた合唱指揮者の福永陽一郎は,「それにしてもあれだけ多くの人数で,ワグネルはどうしてあれだけの声しか出ないのだろう。発声そのものは悪くはないのだが,中途半端な発声法が,素人声を悪く殺したところで止まってしまった様子」と述べている。

 もちろん,ワグネル自身がその問題を最も認識していた。木下保と相談し,畑中良輔の指導を仰ぐよう助言を受けた。畑中は一流声楽家にして,かつ日本初のプロ男声合唱団である東京コラリアーズを福永や北村協一と共に指揮しており,合唱に関する造詣も深かった(注2)。畑中の招聘に苦労したようだが,1960年(昭和35年)から指導をうけるようになった。その頃のワグネルについて,後に畑中は「驚くほど何も知らなかった」と述懐している(注3)。畑中の指導は目覚ましい効果を上げ,発声が劇的に改善された。畑中自らが「ぼくも驚いたが,彼らも驚いた」と記すほどに。

 ワグネルは畑中の指揮で,1960年5月の東京六大学合唱演奏会にて清水脩編曲の日本民謡を,福永をして「今年はワグネルの年」と言わしめるほどのレベルで演奏した。「学生の合唱が,『声楽』の一部門になりとげた,私にとっては最初の経験」「学生に限らず,日本の合唱でこれほど高い次元の音楽が,表現としての力を持ったことは,絶無ではないか」と,辛口の福永にしては手放しと言って良い絶賛ぶりだ。これ以後,ワグネルは木下・畑中の指導の下,黄金期を迎え,関学グリーと共に日本の男声合唱をリードしていく。

 福永は「今年はワグネルの年」を,関西で開かれた東西四大学合唱演奏会の観客席で,林雄一郎,松浦周吉らと共に多田武彦に話した(原文では仮名だが,誰を意味しているかは明白)。多田はこのことを頭に入れ,また東西四大学合唱演奏会での実演を聞いた上で,翌年の委嘱作品を作曲することとなる。

2)東京コラリアーズについては,別の機会に書いてみたい。資料が少なく詳しいことは分かっていないが,畑中・福永・北村の3人が指揮した男声合唱団とあれば,後の大学男声合唱に与えた影響がイメージできるだろう。

3)ストレートに読むと,自らも声楽家である木下が,何も教えていなかったことになる。

 一つは,忙しすぎて発声訓練まで手が回らなかったのだろうが,それだけなのだろうか?


男声合唱組曲「草野心平の詩から」について

 ワグネルが畑中良輔を迎えて実力を上げた1960年,多田武彦(敬称略)も全日本合唱連盟のコンクール向けの男声課題曲に応募6回目で初入選した。それは「雨の来る前」,のちに男声合唱組曲「雨」の第一曲となった。多田は磯部俶のインタビューの中で,今後の方向性を尋ねられ「十二音的なものには興味がありません。それでも私には三つの方向があると思っています」と語っている。その

三つの方向が書いてあれば参考になるのだが,紙数が尽きたせいか「抱負と信念は別の機会に譲る」となっているのはきわめて残念。

 それでも,組曲「草野心平の詩から」初演時のパンフレットに寄せた多田の文章から類推してみると,こんな所ではないかと思う。

 1.委嘱団体の個性や技術水準にとらわれずに書く

 2.日本民謡を自らの技術で編曲する

 3.組曲「雪明かりの路」のような,口語自由詩に作曲する

こうして,1961年に芸術祭参加作品「信濃の民話による三つのバラード」は東京混声合唱団に,「海浜の日本民謡」が上智大グリーに,「小学生の詩による組曲」が文化放送からの委嘱で品川区立第三日野小学校のために作曲された。

 1の「委嘱団体の個性や技術水準にとらわれずに書く」について詳しくみてみよう。パンフによれば,多田は前年(1960年)に4つの組曲を作曲したが,「組曲そのものの価値は私の処女作『柳河風俗詩』よりずっと秀れたものであると自負出来るのだが(中略),団体にとってもいくらか物足りなかったり、初演の批評も『柳河風俗詩』や『雪と花火』や『中勘助の詩から』や『雪明りの路』の時の様な好評を得ることが出来なかった」としている。多田の作品を網羅している「多田武彦データベース(注4)」を参照すると,それらは組曲「人間の歌」「北国」「木下杢太郎の詩から」「航海詩集」と考えられる。いずれも,後年に多田が改訂版を作曲した組曲である。特に「木下杢太郎の詩から」は,出版した楽譜に「『柳河風俗詩』以来の日本的叙情組曲の集大成」とするほどの自信があったので,評価がよくない事に忸怩たる思いがあったのだろう。
 以前から福永陽一郎は多田に「もし作曲家気質というものがあるなら、そうした個性や技術的水準を無視しても書きたいものを書くべきだった」と忠告していたそうで,多田もそれが初演が好評でなかった理由の一つと考えたらしい。

4)http://seesaawiki.jp/w/chorus_mania/d/%ba%ee%c9%ca%a5%ea%a5%b9%a5%c8

 このタイミングで,ワグネルから依頼があったのか,または多田の方から話を持ち込んだのかは定かではないが,ワグネルの定演に向けて組曲を作ることになった。急速に力をつけたワグネル向けであるから,「腰を据えて作曲した」。技術水準に制約をかけることなく,作曲の腕をふるうことができたわけだ。だからこの組曲は,多田の作品の中では難曲の部類に入る。特に「金魚」のハーモニーや,「さくら散る」を美しく演奏することは難しい。
 「さくら散る」について多田は「この詩は本来なら終始ピアニッシモで歌われる曲にしなければならない内容のものなのだが,詩の精神に反して終曲としての『はり』を持たせて了った。この点の失敗は私の作曲技術の未熟さによるものと深く反省している。散る桜は,これも私の好きなもの。しかし技術的にもっと練れていれば終曲であってもピアニッシモで続けても感銘深いものが出来たであろうと思うと,好きなだけに全く惜しい。」としている。が,多田の組曲の終曲として,充分印象的な曲になっている。「草野心平の詩から」と言えば「さくら散る」をイメージする方も多いのではないか。

 組曲の成立については,多田の言葉を引用していこう。「この組曲は最初、詩集『天』から数篇をとって、スケールのばかでかいものにしようと思った。ところが、組曲としての起承転結がどうしてもまとまらない。 そうこうするうちに『天』以外の詩集にまで目を通して行くに従ってこの観念的抒情詩人といわれる草野心平の詩の中の非常に幻想的絵画的な一連の詩を拾うことが出来た。そこでこれをI、III、Vに配し、II、IVは強く明るくスケールの大きいものにして組

曲を組むことが出来た。」

 つまり,もともとは男声合唱組曲「天」が構想されていた。詩集「天」を参照すると,1曲目の「石家荘にて」以外はこの詩集にある(「石家荘にて」は詩集「絶景」に所収)。

 組曲は,まず3曲目の金魚,2曲目の「天」と配置が決まり,「『金魚』が凝縮された小宇宙なら『天』は大宇宙。この前に,何かスケールの広いものをと思っているうちに,数年前合唱コンクールに応募するために混声合唱で書いた「石家荘にて」を男声化することにした」と1曲目が決まった。

 続いて「この『石家荘にて・天・金魚』は心平さんの詩の中でも殊のほか,読者に凄まじい緊張感を与える詩群だ,ということに気付いた。このことが四曲目の湯治場の『雨』を生んだ。ほっとする詩と曲が欲しかった。」と4曲目が決まった。そして終曲については,「この延長線上の終曲には,気を抜くことが出来なくなってしまった。私の今までの作品にはなかった曲想を求めているうちに『さくら散る』に到達した。」「幼い頃から『桜という木の真髄は、落花の舞にある』と思いつめて来た私は,『さくら、さくら』と競り合いたくなった。『光と影がいりまじり』『雪よりも死よりもしずかに』『東洋の時間のなかで』『ガスライト色の』……,背筋の震える言葉が並んでいた。」とある。

 こうして,力をつけたワグネルと,多田が技術水準に制約をつけず作曲した組曲「草野心平の詩から」が出会った。次は,畑中良輔の思いと初演についてまとめようと思う。30年前には,LPの福永陽一郎の解説で大抵のグリーメンが知っていた話だけど,今では知らない人がいるかもしれないので。


(謝辞)今回の稿では,以前ワグネルOB会がアップしていた定期演奏会パンフレットの「抜粋」を,印字して保管していた資料から多くの引用をさせていただきました。


男声合唱組曲「草野心平の詩から」の初演について

 こうして,実力を急速に上げたワグネル,技術的な制約にとらわれずに作曲した多田武彦(敬称略)と役者が揃った。ここで最後に登場するのが,ワグネルの発生を改善した立役者にして,男声合唱組曲「草野心平の詩から」の初演を指揮した畑中良輔である。

  合唱名曲コレクションの楽譜には,畑中の「すぎしものへ」という文章が載っている(写真参照)。これは多田が,「作曲者とってこれほど嬉しい言葉はない」として,初演 時のパンフレットから転載したものである。畑中は兵隊として中国大陸に出征したらしく,文章は北支から南支へ列車で移送される中で見た風景を回想するこ とから始まる。「この平野の中に取り残された小さな町は,死んだもののようであった土で造られたどの家もが、歌を忘れてしまったもののように冷えきって 私達を迎えた。(中略) 死の町は深く沈んでゆくもののようだった。」

 この,十数年前に過ぎ去り自身も忘れていた風景が,第一曲「石家 荘にて」を音にした時に突然,畑中によみがえる。「『十文字愛憎の底にして 石家荘 沈みゆくなり』パセティックなハ短調でこの部分がひびいた時、ぼくは 心の中にしずかないたみと激動が交錯するのを覚えた」とし,「ぼくの心の中にあるパトスの世界が,今晩この曲の中に満ち溢れるに違いない。それはぼくの失 われた日のための挽歌であるかもしれない」と失われた日々を感動的に呼び起こしてくれた多田への感謝を述べ,締めくくっている。

 詩集「天」以外から採択した「石家荘にて」は,奇しくも畑中の経験と共鳴し,深い感動と共感を呼び起こすこととなった。多田の全力投球作を,深い共感を持った畑中が指揮し,最高水準の実力を備えたワグネルが演奏する。この3者が出会い,初演は大変な名演となった(注5)。

  雑誌に掲載された福永陽一郎の評を引用する。「畑中氏が,多田氏の楽譜から注意深くつかみだしたものは,正しく,すぐれた音楽だった。第一曲『石家荘に て』の『茫茫の平野下りて・・』という詩が,フガードとなってうたいだされた時,私たちは,ああ音楽が始まったと,感銘を受けとめていた。第五曲「さくら散る」は,新鮮な合唱技法で,見事に書かれている。しかし,演奏はそれを上回り,詩情と音響との実に見事な融合が,私たちの前に,はっきりと目に動く風景をえがきだしてくれた。このような豊かな演奏が,大学のコーラスによって行われたことは,ほとんど信じ難いことである。」

 この名演が決定打となり,「草野心平の詩から」は多田の作品中でも第一級の名作との評価が確立した。それは一方で,合唱団に恐れを抱かせ,この組曲に挑戦する合唱団が 少ないという逆効果ももたらした。1964年になって関西学院グリークラブが第32回リサイタルの曲目としたのが,二度目の演奏ではないかと思う。福永は 第三曲「金魚」について「完全に狂いのない音程によるハーモニーの美しさをつくりだすことが,いささかむつかしく,その点では関西学院グリークラブの演奏 が(中略)ワグネルより一日の長があったようだ。」と評している。

 5)この名演は,Youtubeの「慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団」チャネルから聴くことができる。歴史的名演の公開に感謝します。

 楽譜は1966年に合唱名曲コレクションの一冊として発売され(記事冒頭の写真),次第 に演奏されるようになった。私が男声合唱に浸かっていた1970年代半ばには,各団の技術レベルも上がり,この組曲はあちこちで演奏されるようになった。 草野心平の詩は,視点がマクロとミクロの間を自由自在に行き来する。大琉金(だいりゅうきん)から支那火事へ,何千メートルの天の奥から地上すれすれの番 傘へ。東洋の時空間を自由自在に描き出した詩に,多田の感性が美しく音楽を付ける。「さくら散る」を知った後では,桜の季節にこの曲が頭の中で「まいおちる」。男声合唱の神髄とも言える喜びであった。

 長々と書いてきた。次はいよいよ,多田武彦による「改訂(改悪)」と私の思いだ。これを書きたいために,こんな長々と組曲誕生の歴史を書いてきたのである。


男声合唱組曲「草野心平の詩から」の改訂について

 大学男声合唱団は,1970年前後の大学紛争の際には,人数を減らしたり学内での練習場所確保に苦労するなど,苦難の時期を過ごした。しかし,その後に再び人数は増やし,また東西四大学が構築したシステム(専門家の指導やボイストレーニングなど)が広まり,実力を向上させた。それに伴い,難曲とされた男声合唱組曲「草野心平の詩から」も,かなり一般的な演奏曲目となった。人気を反映してか,レコードも,私が知るかぎり,4種類が発売された。東芝EMIの2枚は,どちらも現代合唱曲シリーズの一環として発売された。監修者の福永は,畑中良輔とワグネルによる演奏をシリーズに入れたかったからとしており,結果として「柳河風俗詩」「中勘助の詩から」「草野心平の詩から」は2種類の録音が発売されることになった。

   日本ビクター 畑中良輔指揮 慶應義塾ワグネル・ソサイエティ男声合唱団
   東芝EMI   福永陽一郎指揮 同志社グリークラブ
   東芝EMI   畑中良輔指揮 慶應義塾ワグネル・ソサイエティ男声合唱団
   CBSソニー  北村協一指揮 創価合唱団

 この組曲が,多田武彦により改定,私的には「改悪」されるきっかけとなったのは,メンネルコール広友会が1990年にこの組曲を取り上げたことであるらしい。日本古典文学の研究者である団員の深沢眞二氏(以下敬称略)が,組曲中の詩について解説レポートを作成した。そのレポートを同合唱団と交流のあった多田武彦が眼にし,レポート内で深沢が疑義を呈した箇所を改訂することになったらしい(注6)。深沢の疑義は,2曲目「天」と5曲目「さくら散る」についてである。

「天」

     ・微塵(みじん)を「びじん」,樹木(じゅもく)を「きぎ」と読んでいること

  ・「大日輪をめがけて」が「大日輪めがけて」と「を」が抜けていること

「さくら散る」

  ・曲想の流れが,原詩の四段構成と完全にずれている

  ・「ちるちるおちるまひおちるおちるもひおちる」が

   「ちるちるまひおちるまひおちる」に変更されている


6)深沢眞二 「なまずの孫 1ぴきめ 邦人合唱曲への文芸的アプローチ」


 深沢の疑義を調べるために,まず合唱名曲コレクション(昭和41年出版)の巻末にある詩(多田武彦は,楽譜に自筆で詩を書いて添える),これは恐らく多田が作曲に用いるために書き抜いた詩が収録されているので(下の写真を参照),これを用いていく。

 まず「天」については,深沢が指摘した「変更」が行われている。言い換えれば,多田が読んだ(発音した)形が記録されている。正確な読み方ではないが多田は詩をこう読み,また「を」がどこかの時点で抜け落ちて,作曲されたのだ。


 指摘に対する多田の対応は,機械的とも言えるシンプルな物で,抜け落ちた「を」を補い,読み方を変更した(注7)。しかし,歯切れ良く歌われていた「寒波の縞は大日輪めがけて迫り」は,「を」を加えることで,どたどたした鈍重なメロディーに変貌した,また,「鳥も樹木も」も,静かな曲調と相容れない動きのある動的な物に変化した。多田ほど,詩の中に隠れた音楽を美しく表現できる才能ある人はいない。どうしてこのような変更が許容できるのだろうか?元の曲と比べて,音楽的に問題ないと感じているのだろうか?

 恐らく,多田は大変プライドの高い人で,自分が過ちを犯すことを認められないのだろう(注8)。「誤った」漢字の読み方をしていたと思われる(あるいは後世に残る)事が嫌なのだ。正しい読み方に戻す方を,音楽的整合性を保つことより優先させているように思える。

7)多田が読み方を「修正」することは時に行われる。組曲「雨」の「雨の来る前」では,当初「室(しつ)」を「へや」と読ませた。室は「シツ」または「むろ」としか読めない。しかし,「へや」の方が自然に響く。関西学院グリークラブは,1981年や2015年のリサイタルで「へや」と演奏した。昭和43年(1968年)に出版され「しつ」とされている楽譜を使用していないことになる。

8)「十一月にふる雨」「年の別れ」など,多田が「封印」した曲の理由を推察するとき,同様の理由に思い当たる。

 もちろん人間は過ちを犯す物なので,もし多田がそう感じ修正したいと思うなら,そう対応することに問題はない。しかし,全く無責任な第三者として言うなら,音楽の完成度は下げないで欲しい。詩の言葉や読み方をかってに設定することは誉められたことではないけれど(注9),音楽的にそうせざるをえない場合もある。この事例では,詩人の了解を得てそのままにするか,新たに想を練って同じ詩に作曲するか,無理な場合は別の曲に差し替える(最後の案は,できたら避けて欲しいけど)。作曲家としての矜持は,そのように発揮するものではないだろうか。

9)原詩と多田の用いた詩との相違は,「多田武彦データベース」を参照すると他にもある。詩集そのものにも異同があり,過ちとは言い切れない物もあるが,多田は違いのある物全てを修正していくつもりであろうか? たぶんそんなことはないであろう。

 「さくら散る」では,楽譜の詩と原詩は,文言において違いはない。ただ,段の区切り方が異なっている。原詩では,「光と影がいりまじり」の前で段が切れ,「生まれては消え」と次の「はながちる」はつながって一つの段になっている。「天」とは異なり,多田は原詩との違いを自覚した上で,いわば確信犯的に「ちるちる・・」のリズムを変え,構成を組み替えたのだ。深沢は指摘していないが,原詩の「夢をおこし/夢をちらし」も「夢をちらし」が先に歌われるのも,その一環である。

 その意味では,他者から指摘されたから直すというのは,改訂のモチベーションとして弱い気がする。多田自身に,この曲を改変したいという思いがその前からあったのだろうか。初運パンフの言葉で紹介したように,「この詩は本来なら終始ピアニッシモで歌われる曲にしなければならない内容のものなのだが,詩の精神に反して終曲としての『はり』を持たせて了った。この点の失敗は私の作曲技術の未熟さによるものと深く反省している。」の思いも関係するのだろう。


 改定後,歌詩は随所で「ちるちるまいおちる」から「ちるちるおちる」になり,それに伴いリズムが五連符から三連符になり,また音の変更がある。印象として,改訂前では桜の花びらがひらひらと一様に落ちていくのに対し,改訂後では三連符で「間延び」した部分で花びらが落ちるのを小休止している感じになる。これはこれでありうるようにも思うが,わざわざ改訂する意味があるとも思えず,「間延び」しただけ全体の完成度が落ちた感は否めない。ppで歌われる曲という思いについては,全く手が入っていない。

 多田はこの後も,4曲目「雨」でもソロに対し合唱が入るタイミングを変更するなど,改訂を続けた。どうやら,若い頃の作品に現在の(改訂時点での)目から見て良いと思われる方向に変えているようだ。若い頃の作品をそのままにしておくか,後年に手を加えるか,議論があるところである。


作曲家自身による後年の改訂

 最後に,多田武彦が精力的に行っている旧作の改訂について見解を述べる。この他の組曲に対しても,多田は多くの改訂版を作っている。「航海詩集」や「みどりの水母」のように曲数を増やした物(注10),「雨」「人間の歌」のように組曲中の曲を差し替えた物,音や歌詩の読み方を変えた物,あるいはその両方を行った物まで多岐にわたる。「草野心平の詩から」のように漢字の読み誤りを指摘され「機械的に」修正した物もあるが,基本的には老境にある多田の目から見て,若い頃の作品に対して不十分に思われる部分を修正しているのであろう。多田本人はよりよい物にしているつもりであるし,歌い手や聴き手である我々も一般にそう受けとめている。従って,演奏に際しては作曲者による推敲が行われた最新版又は最終版の楽譜を用いるのが常識である。

10)恐らく,曲数の少ない短い組曲では一つのステージを構成するのが物足りなくなり,歌われなくなる危険性を少しでも防止するための策と思われる。

 しかし,このような受け止め方は正しくないことを,渡辺裕は「聴衆の誕生」で指摘している。渡辺によれば,作曲者とは作品をより高級な物とするため不断の努力を続けている,というのはたぶんに19世紀的なイメージであり,最終稿ほど充実した物であるというのは明らかではない。その例として,ブルックナーの第一交響曲では第一稿「リンツ稿」で演奏されることが多く,後年に書き直した「ウィーン稿」があまり使われないことを上げている。その理由を「後期のブルックナーの華やかなオーケストラの使い方が『リンツ稿』の素朴な統一感を損なう結果になり,完成度においてはむしろ劣っているとみなされているからにほかならない」としている。

 そして「現代の音楽学者にとって作曲家の『改訂』のイメージは,(中略)作品を『唯一の理想的な形態』に凝縮させていくことによって完成という終局点に導こうとするような,垂直的な方位をもったものではない。言ってみれば,それは水平的に『差異』を生み出してゆく営みなのであり,そのようにして無限の「差異」を生み出してゆく戯れにも似た行為なのである。」としている。
 多田の改訂作業は,まさにこの「水平的に『差異』を生み出してゆく営み」であり,少なくとも「草野心平の詩から」に対しては完成度を高めることにならなかった,いや,むしろ完成度を下げる結果になったと思う。


 改訂に対する渡辺の基本見解は以上であるが,作曲家の改訂が無意味だと言っているのではない。改訂が目指す唯一の理想的な形態が存在しないとするならば,聴衆は「差異そのものの愉しみに身をゆだねるしかない」としている。こちらが渡辺が本当に言いたいことで,多田作品に対しても同様のスタンスに立つことが大人の楽しみ方なのだろう。

 つまり,「改訂は改悪」だなどとカリカリきてこんな長い文章をしたためていくのではなく,改定前の方が良かったと思う私のような人間は改訂前版での演奏を愉しみ,特にこだわりがなければ最新版で演奏すればよい。その意味で,冒頭に述べたように改訂前版での演奏が行われるようになったことは,歓迎すべき事だ。このような「演奏の(楽譜の)自由さ」が今後も継続されることを祈って,この稿を終わる。


(終わりに) なお,このシリーズを書くにあたり,多くの資料を参照した。論文ではないし,入手が困難な物もあるので,いちいちの典拠は記さなかった。出典に興味がある方はコンタクトください。

日本男声合唱史研究室

日本における男声合唱史の研究 Study on male chorus history in Japan 主として明治期から1980年頃までの,日本の男声合唱について資料調査したことを中心にアップしていく予定です。いわば,私家版の「日本男声合唱史」を作る試みです。 タイトルは思い切り気張ってみました(笑)。 2024年4月15日から「無料プラン」の仕様が変わるため,構成を組み替えました。

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