男声合唱曲「U Boj!」の謎
ズリンスキー総督によるトルコに対するシゲット防衛(部分)
1970年代の半ば,大学のグリークラブに入部すると,年度の練習曲以外に愛唱曲を練習する時間があった。「遥かな友に」とかウェルナーの「野ばら」とかマルシュネルの「Ständchen」とか,男声合唱界でスタンダードな曲を新入部員が覚え歌えるようにするためだ。その中に,謎の呪文をとなえる曲があった。
「ウボイ,ウボイ,マッキス トオーカー ブラッチョ,ナキュンチヤ
カッコ ムレ モ ニ」
「なんですか,この歌は?」と先輩に尋ねると「チェコスロバキアの突撃の歌らしいで」と教えてくれた。「突撃のわりには明るい感じですね」「せやな。まあ意味はわからんけど,そう言われてるからな」と会話したことを覚えている。
このウ・ボイ,大正時代からの関西学院グリークラブの秘蔵曲で,同団の十八番(オハコ)曲としてアンコール等で披露される,演奏会の締めくくりにふさわしい名曲である。この曲を関学グリーが入手した経緯や,原曲が判明するまでの感動的な物語は関西学院グリークラブのホームページに詳しい(注1)ので再掲しないが,必要最小限の事柄はここにまとめておいた方が良いだろう。その上で,私が思うウ・ボイに残された2つの謎について検討していく。
1)http://www.kg-glee.gr.jp/uboj/ubojindex.html
1919年(大正8年)に神戸に来たチェコ軍から,親身な交流の中で関西学院グリークラブが楽譜を譲り受け,以後同グリー秘蔵の愛唱歌となった。1935年(昭和10年)の第9回競演合唱祭(合唱コンクール)で選択曲として取り上げ優勝し,ラジオで放送された事からこの曲の事が全国的に知られるようになった。戦後,大学合唱団同士の交流が盛んになり,関学グリーから楽譜のコピーが渡り,次第に歌われるようになった。1959年(昭和34年), 福永陽一郎・北村協一共編のグリークラブアルバムに収録されたことで一気に広がった。福永は収録の理由を「『ウ・ボイ』のように関西学院グリークラブの独 特な十八番でも,他の大学で,その楽譜を苦心して手に入れても唄いたがっていた,というような曲を少しでも多くのせたい」と述べており,人気のほどが伺える(注2)。
当初は関学グリー内でセルビア民謡とされていたが,次第にチェコ民謡ということになり,グリークラブアルバムではスロバキア民謡と扱われるに至った。当時,チェコとスロバキアは同じ国だったが,なぜそう書かれたのかは不明。この頃に部員がチェコの学生と文通を始めたことで,チェコの歌ではないことが分かった。1965年,世界大学合唱フェスティバルのレセプションで関西学院グリークラブが歌うウ・ボイに,ユーゴスラビアの合唱団が唱和したことから手がかかりが得られ,結局,クロアチアの作曲家ザイツ(Ivan Zajc)が1876年に作曲した歌劇「ニコラ・シュービッチ・ズリーンスキー」の終幕の一節と分かった。この歌劇は,1566年頃にハプスブルク帝国に攻め入るトルコ軍と,攻略の鍵であるシゲット要塞を守るクロアチア太守 ニコラ・シュービッチ・ズリーンスキーをめぐるもので,最後に彼と兵士たちがトルコ軍めがけて突撃する場面で歌われる。
以上が関西学院グリークラブがウ・ボイを入手し原曲が判明するまでのダイジェストである。
2) 例えば,早稲田大学グリークラブは1949年(昭和24年)の関西学院グリークラブとの交流会で楽譜を入手し,「これが関東でも歌われるきっかけとなった」としている(「輝く太陽 早稲田大学グリークラブ100年史」)。
一方,「関西学院グリークラブ八十年史」では,1940年(昭和15年)の交換会で慶応ワグネルが秘蔵曲ウ・ボイを歌った事が驚きをもって記されている。「『U Boj』は学院グリークラブの愛唱歌であり,秘曲である。楽譜は厳重に保管され,外部に流れるはずがない。それを他校の合唱団がうたっている。一体どうして手に入れたのであろうか。」当然,交換会で問いただしたであろうが,記述がない。ワグネルが明確には答えなかったか,または,文書で残せない内容(コンクール審査員からの「横流し」など)だったのだろう
1949年(昭和24年)の関東合唱コンクールでコール・フロイデという男声合唱団が選択曲として「ウヴォイ曲チェッコ行進曲」なる曲を歌っており,関学グリーから正規入手したのではない楽譜が,既に広がっていたようだ。
(2016/10/2追記)
慶應ワグネルの「定演ライブラリー(http://www.wagner-society.org/library/library_adsl.htm)」を眺めていて,昭和6年に関学と慶應の交換演奏会が開催され,関学がウボイを歌っている事に気づいた。もしかすると楽譜はこのときに渡されたのかもしれない。昭和20年に全慶應音楽祭が開催され,「ワグネル男声合唱団も「ウボイ」「婆やのお家」等,戦前よりの懐かしい曲目をもって出演した 」とされており,慶應ワグネルにとってもウボイは戦前からの愛唱歌だとされている。
(2016/10/11追記)
法政大学アリオンコールの70年史に,昭和10年の合唱競演会(コンクール)でアリオンが歌った選択曲(自由曲)は「『進めや同胞』(津川主一編曲)」について,「奇しくもこの時、三連覇を果たした関西学院グリークラブの選択曲「ウポイ」(チェッコ・スロヴァキヤ民謡)の日本語版である。」「関学OBの津川圭一は秘曲ではあるものの名曲であるこの曲を、日本語訳でこの世に紹介したのではないかと想像される。」としている。つまり,創作とはいえ日本語版の楽譜は,昭和10年には市販されていたことになる。昭和12年には早稲田大学グリークラブもこの曲を合唱競演会で歌っている。昭和15年のワグネルについても,関学がうたう「原語版」か,津川による日本語版を歌ったのかは分からない。
(2016/10/17追記)
2016/10/11に法政大学アリオンコール70年史を参照し「津川主一訳の『進めや同胞』はウボイの日本語訳」と注を入れたが,調べてみたところ別の曲であり,ポーランド民謡Dalej bracia とされている(下図参照)。もし,同じ会で関学がU Boj を歌い,法政が日本語で歌ったら,関学の80年史等に「驚きをもって」記されていただろう。
ところで,昭和15年発行の「関西学院グリークラブ部史(「関西学院グリークラブ八十年史」にならい,以後,40年部史とする)」にはチェコ軍が神戸市内や関西学院で開いた音楽会の曲目が掲載されている。この中に「来れ,我が戦よ! ザイツ曲」があり,これは明らかにウ・ボイのことである。作曲者が分かってみると,答えは最初から関学グリーの手元にあった事になる。
さて,原曲が判明したことで,グリークラブアルバムでは1974-6年ころに楽譜が差し替えられ(注3),その頃に発売されたグリークラブアルバムのLPでは,原曲の楽譜に基づき同志社グリークラブが演奏している。解説ではその理由を「この原典版を日本で初演した同志社グリー」とされている。
本来は,関西学院グリークラブが吹き込むべきものであろう。が,歌詞の綴りや音符に相当異なる部分があり(注4),関学グリーとしては,原曲が判明したからと言って60年近く歌いこんだウボイを廃し,直ちに原典版で演奏することはできなかったのだろう。現在でも,関学グリーは関学版と呼ぶべき以前の楽譜で演奏しているようだ。ここで,楽譜が差し替えられて40年が経ち,旧版を知らない人も多いと思うので,旧版歌詞を転記する。単語や大文字の扱いは,楽譜記載のとおりにした。
3) グリークラブアルバムの「新版」は1974年に出されている。しかし,楽譜の前書きには1976年にグリークラブアルバムのLPが出た際に,改めて校正し「『ウ・ボイ』の正確な歌詞による新版とともに」とあり,おそらく1976年から差し替えられたものと思われる。が,現物確認ができていないので,ここでは幅を持たせておく。
4)福永陽一郎は同LPの解説で「コピー・プリントを重ねるうちに生じたであろう歌詞の字綴りや音符のミスの重複から,楽譜は,相当変貌変容していた」「従来のグリークラブアルバム(カワイ版)では,考えられるかぎりの楽譜ミスを訂正し,歌詩は表音綴りにして記載されてあった」としている。
なお,グリークラブアルバムの古い版ではU Boj と正しく綴られ,恐らく昭和40年頃にはU Boi と発音間違いのない表記(表音綴り)に変えられている。ここでは,私が慣れ親しんだU Boiとさせて頂く。
関係者の努力で,ウ・ボイ最大の謎であった原曲は判明したが,まだ不可解なことがある。
まず疑問に思うのは,なぜチェコの軍隊がクロアチアの合唱曲を歌っていたのだろうか,ということだ。当時は同じ国だったという訳でもなく,チェコ語とクロアチア語(正確にはセルボ・クロアチア語らしい)は異なる言語で,意味が通じない。ザイツの作曲から45年で他国の愛唱歌になるということがあるのだろうか? 実際,その後の探索でも,チェコではよく知られていた曲ということもない。最も愛国的な集団とも言える軍隊で,なぜ他国の歌が歌われていたのだろうか?
もう一つの謎は,どのような経緯でグリークラブアルバム旧版のような形に楽譜が「変形」したのだろうか(注5)。いつ誰がこの形にしたのだろうか,ということだ。
5)関西学院グリークラブ伝承されている楽譜がグリークラブアルバム旧版のとおりかは分からないが,北村協一氏もグリークラブアルバムの編集者であるから,大き く違うことはないだろう。また,演奏を聞いても違和感はない。よって,これが関学に伝承されていた形と仮定して以後の話をすすめる。
U Boj の楽譜について
まず,手がつきやすい「変形」の過程について手がかりを探ってみる。今までにU Boj! を研究された方によると,日本で入手できる楽譜は少なくとも6種類ある(注6)。
1.ザイツの手稿譜
2.オペラのスコア
3.グリークラブアルバムの旧版 (1975年頃まで掲載)
4.グリークラブアルバムの新板
5.イバン・ザイツ生誕150周年記念合唱曲集
6.関西学院グリークラブOB会である新月会が編纂した楽譜
私の手元には1と5以外の4種類,2 (関西学院グリークラブ80周年記念演奏会のパンフに掲載された縮刷版),3,4,6(関西学院グリークラブのホームベージで入手)があるが,いずれもお互いに違うところがある。そこで,関西学院グリークラブが編集に関わった3と6を比較してみる。以後,6を「新月会版」とする。なお,1の手稿譜はweb上に写真があるが,歌詞を読むことはできない。Dr Bozidar Sirola が編集した楽譜が掲載されており,こちらは判読できる(注7)。
6) ちなみに,日本語歌詞の楽譜も出ていた。グリークラブアルバムの旧版に福永陽一郎は「邦語訳(正確に云えば作詞)で二種類出版されております」と記している。一つは1954年(昭和29年)に津川主一編の合唱名曲選集16に収められた「チェッコ民謡ウ・ボィ『進め我が同胞』」。もう一つは1953年(昭和28年)に磯部俶が出版したらしいが,こちらは未確認(「合唱アルバム」か?)。
(2016/12/22追記)
磯部俶が出版したのは,「合唱アルバム」9巻で,「進め若人」(チェコスロヴッキア民謡 磯部俶作詞)として収録されている。
7) http://www.croatianhistory.net/etf/uboj.html
まず,U Boj の旧版の楽譜はいつ頃成立したのだろうか。すなわち,ザイツの原曲歌詞がいつ頃,旧版の形に「変形」したのだろうか,という疑問である。
八十年史には1935年のコンクールで使用された楽譜の写真がある。冒頭部分だけの写真で,また,U Boj 以降の歌詞がカナで書かれている違いはあるが,全体に旧版と変わらない様子。また,1935年の演奏とされる音源がネットにあり(注7),それを聴いても現代の演奏と大きな違いは感じられない。このことを踏まえて考えると,旧版設立時期の可能性は次の3通りが考えられる。
・楽譜をコンクール向けに歌いやすく編集し歌詞が変形した
・チェコ軍の楽譜を移す際に転写ミスがあり,歌詞が変形した
・チェコ軍の楽譜が,もともと変形していた
7)この音源は,本当に1935年のものだとすると,40年部史が記述する「クリスタル・レコードに吹き込んだが,是は都合により発売を見合わせたのである」であろう。八十年史にはこの録音について記述がない。
最初の可能性である「コンクール向けに歌詞を編集した」は,八十年史や40年部史にそのような記述がなく,また,林雄一郎先生もそのように言及されていないことから,違うとして良いだろう。カナ書きにはなっているが,英語やドイツ語ではない歌詞の発音なので審査員が誤解しないよう,関学グリーで歌われていた形でカタカナにしたのであろう。
従い,2番目か3番目が可能性として残る。3番目の「もともと異なっていた」は,当時はまだ校正を経た出版譜ではなく,ザイツ手書きの譜面を筆写したものであろうから,そのような違いはありうるだろうとして可能性の一つに上げた。
次に,新月会版と旧版を比較し変形箇所を明確にした結果を次表に示す。旧版では単語の切れ目がわからないため,新月会版を参照して単語単位にまとめた(私は,もちろんクロアチア語は全くわからないので機械的に作業した)。また,新月会版(原曲)では冒頭の繰り返し部で1番と2番で歌詞が変わるが,旧版では同じ歌詞が歌われるため,2番の歌詞は省略した(なぜそうなっているかが問題だが,ない歌詞は比較できないので,このまま進める)。
その上で,新月会版と旧版で異なっているところを,旧版に赤で表記し,旧版に余分な文字が入っているところは線で消し,抜けているところは( )に入れて追加した。なお,本来は鍵印が必要な,例えばmačも,旧版に合わせてmacと通常のアルファベット表記とした。
全く知らない言葉を,しかも元の楽譜が手書き譜で「すり切れてぼろぼろだった」ことを考慮すれば,かなり精度良く写されていると言えると思う。が,それでもちょっと意地悪く,どのようなミスがどれぐらいの回数出てくるかを数えてみた。
一般に,手書き文字ではjとi,mとn,そしてaとoとuの母音は読み間違いしやすい。大抵のミスは,このような似た文字同士の誤読と類推できる。回数の多いものは,元々の書き文字の癖で誤読しやすいか,または,何らかの意味があるものと考えられる。
なお,グリークラブアルバムのつづりも,初期の版(昭和30年代頃の版)と,それ以降ではかなり違いがある。例えば,表2で,jがiとされている箇所が10ヶ所ある。これは,後期のグリークラブアルバムでは発音を間違わないよう,「あえて」jをiに修正してあるため。実際,曲名のU Bojは1935年のコンクール譜では正しくU Boj とされており,初期の版でもU Boj とされている。途中からU Boi に変更された(校正漏れで,後期の版に1ヶ所u boj が残っている)。この点の詳細は最後にまとめる。ちなみにクロアチア語ではiはイ,jは短くィの発音らしいので,jのiへの書き換えは正確な発音の上では不適切。
以上のように,元の楽譜がどのように変更されたかは概ね読み解けるが,冒頭の5行にそれが困難な単語が3つ登場する。
[旧版] [新月会版] [意味]
Yunchi dusman dusman (敵に)
tarski njihov njihov (彼らの)
Uyogoi njihov njihov (彼らの)
新月会版から旧版を類推する事はどう頭をひねっても無理で,これは写し間違いのレベルではなさそうだ。チェコ軍の楽譜は手書きであっただろうから,これは現在の楽譜ではなく,手稿譜にあった歌詞が元ではないかと考えられる。ザイツの手稿版楽譜のコピーを持つ方は,「手稿版楽譜歌詞には両者(注.オペラ版と合唱版)にすらないTurčin、Turskiの語さえあります(注8)」とあり,また,前述のDr Bozidar Sirola の編集版の歌詞もそうなっている。これを参照すると,上の2つの単語は
[手稿譜] [旧版] [意味] [相違箇所]
Turčin Yunchi トルコ人 T→Y,r→n,č→ch
Turski Tarski トルコの u→a
の対応があり,トルコ人を意味する単語の写し間違いと考えら れる。手稿譜では「トルコ人」と明記されていた歌詞を,後に出版された楽譜では政治的な配慮か,一般的な表現である「敵」「彼ら」に置き換えたようだ。結果として,関学グリーには変形した形で,元々の歌詞が残って歌われていたことになる。
意味からすれば,我々が「Riktar ski o ri (リークター スキ オー リー)」と歌っていた部分は,「Rik Tarski o ri (リーク タースキ オー リー)」と歌うべきだったのだ。
あと一つの,Uyogoi は残念ながら不明。Dr Bozidar Sirola の編集版でもnjihovとなっており,そのコピーミスだろうが,変形の過程を推測できない。
改めて,当然のこととはいえ,関学グリーが入手した楽譜はザイツの手稿譜から写されたものであることが確認できた。
8)http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1476784339
さて,先述のようにijは,新月会版でij表記がある単語が6つ,計7ヶ所にあるが,旧版ではその全てでijが抜けている。これはどういうことだろう。グリークラブアルバムの新版とも比較して下表に示す。単語の意味は新月会版記載のものを用いた。 さて,先述のようにijは,新月会版でij表記がある単語が6つ,計7ヶ所にあるが,旧版ではその全てでijが抜けている。これはどういうことだろう。グリークラブアルバムの新版とも比較して下表に示す。単語の意味は新月会版記載のものを用いた。
クロアチア語では地方により発音や綴りに異同があるらしく,例えばボスニア・ヘルツェゴビナでは「ベオグラードならverujem(信じてる)となるところが,vjerujemとイェ(j)となる」らしい(注9)。新版では新月会版と比べると,jまたはiだけが書かれているが,この差は表記の差として重要ではないだろう。少なくとも新版のように,iかjの一文字が残らなければならない。しかし,旧版ではiもjもコピーされていない。可能性としては
① ij がクセのある続け字(合字)で書かれていて判読できなかった
② もともと,ij が書かれてなかった
が考えられる。
9) 「ニューエクスプレス セルビア語・クロアチア語」
ここで旧版にある単語zuyauvek に注目する。新月会版ではzauvijek とされている,「永遠に」を意味するこの単語をこのように写し間違うためには,z(uy)auvijek ,つまりzの次に余分のuyを挿入し,vの後ろのijを抜かすというかなり複雑にミスを続ける必要がある。
この単語をGoogle翻訳で意味検索すると,zuyauvek の一字違いであるzujauvek が「永遠に」の意味で表示される。このことから,zuyauvek はzauvijek の写し間違いではなく,原文のzujauvek から,jをyと写し間違えたものと推測される。つまり,この部分の単語がもともとザイツがzujauvekと書いていたか,又は,ザイツの手稿譜から筆写した者がzauvijekを同意のzuyauvekと写し変えたか(筆者した人はzuyauvekを使う人であった)のどちらかである。いずれにせよ,この単語については関学グリーが写した楽譜に始めからijはなかったというのが,当てはまる。
つまり,「変形」のパターンとして,「元々の楽譜が異なっていた (zauvijek はzuyauvekと書かれていた)」と「関学グリー(恐らく)写し間違えた (zujauvek のjをyと間違えてzuyauvekとミスした)」の両方があることが分かった。
他の単語についてもGoogle検索すると,bezan はbesan とするとbjesan(荒れ狂う)と同意の「猛烈な」,seku はそのままでsjieku と同意の「切る」が出てくる。したがって,この2つについても,関学グリーが筆写したときから,こう記載されていた可能性がある。
あとの単語,prijek は旧版ではpriとされているが,旧い版では正しく書かれており,プリーと伸ばすためにjekを省略した模様。また,nekom はvjekom のvj(VJ)をn(N)と読み誤ったと思われる。
興味深いのはtrijeseで,「稲妻を」と訳されている。Googleではtriješeに「発火」「導火線」の意味を与えており,武器のイメージがある。「関西学院グリークラブ80周年記念演奏会」のパンフレットでは,「triese は古語で意味が不明であるが武器の一種と想像される」としている。当時のユーゴスラビア大使館の協力を得ていてもはっきりしなかったらしい。
最後に,冒頭のリピート部も旧版ではU boj以下が繰り返されるが,その他の版では2番は歌詞が変わり「Ko pozar taj・・」と歌われる。これは確証がないのだけど,関学が写した楽譜でもリピート部の歌詞は繰り返しになっていたのではないか。非常に正確に写されているので,もし異なる歌詞があったら無視するとは考えられないからだ。
以上,結論として,関学グリーはザイツの手稿譜から写された手書き譜を入手した。 旧版は悪条件の元で精度良く写されており,現行版との相違の一部は手書き譜の時点で存在していたと思われる。
なぜチェコ軍がクロアチアの歌を愛唱していたか?
次にもうひとつの謎,つまり「なぜチェコ軍がクロアチアの歌を愛唱していたのか?」 を考えてみる。この曲(オペラ)が作曲された19世紀後半から20世紀にかけて,クロアチアはハンガリー王国に属しており(限定的な自治はあったようだ),チェコとは別の国である。既に楽譜が出版され,広まっていたのなら他国の歌をうたうこともあるかもしれない。しかし,今までの考察によりチェコ軍は ザイツの自筆譜を筆写した楽譜を使っていた。「折りたたまれてボロボロになった」と表現されているが,それだけ大切な思いを込めて歌っていたことがしのば れる。しかし,他国の愛国的な歌を軍隊が歌うのは不思議に思える。例えが適切ではないかもしれないが,中国や韓国の軍隊が日本の軍歌を歌っているようなものだ(注10)。
10) 実際には,そういう事例はある。軍歌を研究されている辻田真佐憲氏によれば,北朝鮮の歌「朝鮮人民解放軍」は日本の軍歌「日本海軍」の替え歌だそうで,韓国や中国にも同じような替え歌が少なくないらしい。しかし,歌詞はもちろん日本語ではなく中国語や朝鮮語になっている。
実は,楽譜のコピーミスを調べたのは,もしかすると旧版にはチェコ語の単語が混じっているとか,あるいは,同じ単語がチェコ風綴りに変わっているとか, チェコで筆写された痕跡がないかを調べられないかと考えたからだ。クロアチア語もチェコ語も全く解さないが,ネット翻訳の力を借りれば兆しぐらいは捕まる のではないか,と。
しかし,少し調べればそんなことは全く可能性がなく,ザイツの手書き譜を写したのはクロアチア語の話者としか考えられない。前述したように,同意の似た単語に置き換えて筆写されていることからも,明らかである。
行き詰まっていた時に,クロアチア語とチェコ語の関係についてネットで調べていて,興味深い文献を見つけた。東京外国語大学准教授である金指久美子氏の論文「チェコ共和国の言語状況,言語政策および外国語教育」に,当時のチェコにおけるクロアチア語の位置づけが書かれている(注11)。
11) http://www.tufs.ac.jp/common/fs/ilr/EU/EU_houkokusho/kanazashi.pdf
該当箇所を引用する。「1934年に出版されたチェコスロバキア誌研究第3巻『言語』には,クロアチア語もマイノリティの言語として取り上げられている。それによると,16世紀に戦乱を逃れてクロアチアからやってきた人々の子孫が住む集落がチェコ領内(南モラヴィア)とスロヴァキア領内(西スロヴァキア)に点在していた。(中略)1930年代前半の段階で,クロアチア語からドイツ語への切り替えが進み(中略) 1948年にはクロアチア系の人々も強制的に退去させられ,集落が崩壊した」
つまり,U Boj!が日本に伝えられた1920年ごろには,チェコ領内にクロアチア語を話す人々がおり,彼らは16世紀に,恐らくは歌劇の題材となったオスマントルコ軍の侵攻時に,クロアチアからチェコに避難してきた人々の子孫であるいうことだ。
ここからは全くの推測だけ ど,このクロアチア語を話す集落から,日本に来たチェコ軍の部隊にに参加していた人が,おそらく複数人いたのではないか。自分たちがチェコに移住するきっかけとなった,トルコ軍の侵攻に雄々しく立ち上がったクロアチアの人々を歌い上げる,祖国の歌の事をこの人達も知っており,ザイツの楽譜を筆写したものを クロアチアから入手した。
そして,その楽譜を持ち歩き,軍隊の中でも歌い,その話をしたのだろう。1918年はちょうどチェコスロバキアがオーストリア・ハンガリー帝国から独立したところであり,歌の内容と勇ましいメロディーが他のチェコ軍の人々の共感を呼び,部隊の愛唱歌となったのではないか。
証拠はなにもないけど,疑問に対する答えとして可能性があると思う。つまり,日本に来たチェコ軍に16世紀に戦乱を逃れてクロアチアからやってきた人々の子孫がおり,祖国の歌U Boj! を歌い継ぎ,それが日本の関学グリーにも伝わったのだ,と。
数奇な結びつきが,素晴らしいレパートリーを伝えたことに,また,それを歌い継ぐ関西学院グリークラブに改めて感動を覚える。
(補足)
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