男声合唱組曲「月光とピエロ」と本多勝一
本多勝一氏はこのところ朝日新聞に引きずられる形で批判され,なかなか大変な状況だけれど,初期の探検ルポ3部作「ニューギニア高地人」「カナダ・エスキモー」「アラビア遊牧民」は大変面白く,高校生だった40年前に読んだときは刺激されてしばらく探検物ばかり読んでいた。世界はまだまだ隔離されていてフラット化していなかった頃の話である。
高校に入った私は合唱を始めたのだけど,本田勝一(以下敬称略)のルポが面白かった理由の一つに,現地人の歌や合唱に関する記述がある。「カナダエスキモー」など,彼が現地の人に歌をうたうようにせがみ,しぶしぶと何曲か歌ってくれるのだけど,「こんなに歌ったのに,この人はまだ私に歌えという」と困っている様子が歌詞になっていて,抱腹絶倒ものだ。合唱に関しては,「ニューギニア高地人」がよみごたえあり,彼らとハモるさまが詳細に描かれている。相手の音に合わせるのが合唱の基本であり,ニューギニア高地人は日本人よりよほど良く出来ているという記述があったと思う。
合唱に素養がある人なのか・・と思っていると,ニューギニア高地の夜に一人物思いにふけっていると「突然『月光とピエロ』などと言う合唱曲がうかんでくる」と書かれている。男声合唱組曲「月光とピエロ」は,男声合唱の経験者なら知らないものはない古典的名曲である。本田勝一は,男声合唱の経験者なのだ。では,彼はどこで男声合唱に親しんだのか?
Wikipediaによると,本田氏は1950年に千葉大学,1954年に京都大学に入学している。このどちらか,または両方で男声合唱に取り組んだのだろう。1954年,つまり昭和29年は多田武彦(敬称略)が男声合唱組曲「柳河風俗詩」を発表した年でもある(多田武彦も「柳河風俗詩」も,同じく男声合唱経験者で知らぬものはいない著名な作曲家と作品である)。多田武彦が「柳河風俗詩」が作曲したのは,「月光とピエロ」の作曲者である清水脩に「多田君,まず書いてみなければダメだ」と言われたことが大きい。では,多田と清水がなぜ知り合ったかというと,多田が京大合唱団を指揮して「月光とピエロ」を演奏したからで,一節には清水脩が指揮する東京男声合唱団が大阪で「月光とピエロ」を演奏した時,多田と京大合唱団が「乱入した」と言う。
以下は妄想だけど,もしかしたら本多勝一は多田武彦の指揮で「月光とピエロ」を歌ったのかもしれない。本田が1回生の時に時に多田は京大合唱団の指揮者だったので,可能性はある。当時は邦人作品が少なかったので,繰り返し「月光とピエロ」を歌っていた可能性はある。
仮にそうだったとして,だから何なんだと言われればそれまでで,別に日本合唱史上の事件というわけではないけれど,ま,なんとなく面白いかなということです。
(2017.3.5追記)
本多勝一「旅立ちの記」には,「1954年3月にデポーア黒人合唱団の演奏を聴きに行った。合唱が好きだから行った」と記されている。そして同年,京大の農林生物学科に入学し,「山岳部の他に合唱団にも入った」「京大合唱団のリーダーには多田武彦氏がいて,『柳川(ママ)』のような名合唱曲を作曲したので練習も楽しかった」とある。どうやら,京大で「月光とピエロ」や「柳河風俗詩」に触れていたようだ。ただ,山岳部に入れ込んでいったので,合唱活動は半年程度だったらしい。
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