合唱という言葉はいつ頃から使われたのか?

 合唱が好きな人は,その理由は様々だろうけど,特に人の声が醸し出すハーモニーに惹かれている人が多いのではないか。私もその一人で,何かの集会での歌声を新聞やテレビが「二百人の大合唱」などと報道するたびに,むず痒い気持ちになる。ほとんどの場合はハーモニーのかけらもない,良く言って斉唱,ひどい場合は単なる音の渦である。「合唱て言うなよ」といたたまれなくなる。

   もちろん,音楽的には斉唱も合唱に含まれるし,「万歳の合唱」という用例においては「大ぜいの人が声を合わせて歌ったり、同じ文句を唱えたりすること (デジタル大辞泉)」と,ハーモニーを欠くことを認めた辞書の定義さえある。しかし,やはり合唱という言葉は「二つ以上の声部がある」ことを前提としてもらいたいし,当然そこには何らかのハーモニーが存在していてほしい。この合唱と斉唱に区別がつかない混乱の理由は,ハーモニーを伴う合唱が日本の伝統音楽にはなく明治になって西洋音楽を取り入れるようになって初めてそのような音楽を知り,そこに名前をつけたことに由来するのではないか。そこで,日本ではいつ頃から合唱という言葉が使われ,それにはどんな意味が与えられていたのかを調べてみようと思う。

 とは言うものの,これはとても深いテーマで,一介の男声合唱愛好家が取り組むようなものではない。しかし,ある日突然に合唱という言葉が生まれ使われるようになるのではなく,次第に使われるようになったというのが実態だろう。それなら,今までに読んだことや集めた資料を元に,大雑把に取り組んでみるのもそれなりに価値がありそうだ。

 そこでまず,斉唱と合唱は社会においてどんな位置づけにあるのか,西洋の音楽に「汚染」される前の状況を日本以外の地域の例を中心に羅列して探ってみる。つぎに,明治期の楽譜に載っている二声以上の音楽(唱歌)について調べて,技術として多声音楽はどう広がっていったのかをみてみる。最後に,地元の図書館にあった日本近代音楽史研究会編「明治期 日本人と音楽」という,東京日日新聞から明治期の音楽関係の記事を集めた本から「合唱」という言葉を含む記事を抜き出し,世の中への浸透具合について検討してみる。以下,断りがない限り「合唱」とは二声以上の多声音楽のことで,なんらかのハーモニーを伴うものとする。

I.斉唱と合唱

 斉唱であれ合唱であれ,一緒に歌う場合にはリズムが揃わなければならない。小泉文夫氏は著書「音楽の根源にあるもの」で面白い事例を紹介されているので,それを中心にみてみよう。


 注意:以下,エスキモーとか酋長とか,現在では使用が不適切とされる言葉が出てくるが,小泉氏にも私にもいかなる差別意識もないため,そのまま使用する。もし差別と感じるなら,それはあなたの心のなかにある。


 小泉氏(以下,敬称略)は,カナダでカリブーを狩っているカリブー・エスキモーに歌を歌ってもらったところ,自分で叩く伴奏と自分の歌のリズムが合っていなかった。又,二人の人に歌ってもらっても,お互い合わせることができない*。一方,クジラを狩っているクジラ・エスキモーは,リズムに合わせて大勢がピッタリと歌うことができる。小泉はこの理由を,生活のために二人以上で働くことのない文化圏では,リズムを合わせることが存在しないのではないかと考えた。後にセイロン(今のスリランカ)のジャングルに住むヴェッダ族の三人の大人に歌ってもらったところ,一緒にうたうことも踊ることもあるのに,声を合わせ拍子を合わせることができなかった。三人が三人とも,声を張り上げて別の歌を同時に歌うことを知った。つまり,斉唱や合唱ができることは人間が生まれながらに持っているのではなく,集団で働くという文化のもとで育まれたものだ,ということになる。

 * このことは別の言い方をすれば,一人で狩りをするエスキモーも自分で歌を作り歌っていることを示す。このことについて本多勝一氏のルポ「極限の民族」三部作の一つ「カナダ・エスキモー」に面白い話が出てくる(氏は合唱の経験者らしく,「極限の民族」では取材する民族に歌を歌ってもらい,採譜している。合唱視点からは最も面白い「ニューギニア高地人」には「『月光とピエロ』などという男声合唱曲」という文もある)。彼がマイクを向けて歌をせがみ,何曲か歌ってもらった。後に歌詞の英訳を受け取ってみると,それはおもいもかけないものだった。Ahなど掛け声は省略して,以下に示す。

第2曲

I don't know what to say,

The visiting man has asked me for a song,

But I have forgotten all the old Eskimo songs,

What can I do?

I must go away, I'm not singing correctly,

Laugh at me,

Laugh at me, again, again.

第3曲

Sorry, I'm very poor with Eskimo songs,

I know only two.

(以下略)

第4曲

He still wants to have more songs,

I think he never gets tired,

Even though he can not understand them, I think

(以下略)

 マイクを向けられて困っている状況を即興で歌にしていたわけだ(例え私たちには単調に同じように聞こえるとしても)。言葉がわからず聴いていた本多が記述する録音の様子は,それなりに楽しげなもので,途中からは踊りだしている。歌詞からイメージするような,苦しんで歌っている様子は伺えない。彼らなりにこの状況を楽しんでいようだ。


 以上はリズムの話だけど,音についても同じことが言える。小泉の同じ本の中で,台湾の首狩り族だったブヌン族の興味深い話がでてくる*。彼らは首狩りに行く際,成功するかどうかを合唱で占う。ハーモニーが合えば行く,合わなければ行かない。最初の音を出す長老が,ハモらないとみるやちょっと音を上げたり下げたりして調整する。いわば生活がかかっているので,ハモるのも真剣そのもの。首狩りにも戦略があり,複数名が分担して望まないと,失敗して逆に狩られてしまう。その息の合い方を,リズムという次元を超えてハーモニーに見いだしている,ということらしい。念のため,ここでいうハーモニーとは西洋的なものではない。

* 台湾の原住民は総人口の3%程度を占めるに過ぎないが,民族ごとに異なる高度な合唱を持っており,キングレコードやINEDITなどの民族音楽のシリーズにはアミ族やブヌン族の「コーラス」が収録されている。ソロ,ホモフォニー,ポリフォニー,クラスタートーンなどありとおらゆるコーラスのパターンがある。アミ族の歌を研究された姫野翠さんによれば,台湾原住民はあまり楽器を持っていないため,音楽といえばほとんど歌と言うことになるらしい。

 日本人の研究者では黒沢隆朝氏や,昭和6年から調査研究し戦前に「台湾蕃族の歌」を出した竹中重雄氏がおられる。竹中は自らも合唱編曲したが,清水脩も竹中の著作を元に「台湾ツゥオ族の歌(当初は「台湾土民の歌」)」を作曲した。これは出来たばかりの東京混声合唱団に清水が「プレゼント」した曲で,プロ合唱団への清水の期待が込められているように思う。

 ちなみに「蕃族」とは,清朝時代に漢化していない原住民を生蕃(せいばん)と呼んだことに由来する。漢化した原住民は熟蕃(じゅくばん)と呼ばれた。


 ではハーモニーがある(合唱がある)社会のほうが進化しているのかと言えば,そうではない。戦国時代に日本に来た宣教師たちは,「日本のうたには音(声部)が一つしかない(ハーモニーがない)」と見下した報告を上げている。天正遣欧使節に選ばれた少年たちも「我らの(日本の)歌には一つしか音(声部)がない」と自分たちを卑下するように記しているが,宣教師たちに「洗脳」されているのであろう*。

* この時期の日本に多声音楽があったことは,海老澤有道氏が先鞭をつけた研究の結果,ほぼ確実だけど,それが当時の日本人に好まれたのか嫌われたのかははっきりしない。

 ルイス・フロイスは岩波文庫「ヨーロッパ文化と日本文化」の中で「われわれはオルガンに合わせて歌うときの協和音と調和を重んじる。日本人はそれを姦しいと考え,一向に楽しまない」とある。ここで原文のcanto d'orgaoを「オルガンに合わせて」とするのは誤訳で,現在では「複数の歌手によるハーモニーを伴う歌唱」であるとされている(「音楽の宇宙 皆川達夫先生古希記念論文集」所収の美山良夫「フロイス『日本史』におけるcanto d'orgaoをめぐって」による)。

 一方で,巡察師ヴァリニャーノが,日本の神学校におけるポリフォニー(多声)音楽教育が全く実を結ばないためその教育を禁止したところ,各地の宣教師から一斉に反対された。宣教師たちは,日本人に多声音楽によるハーモニーを味合わせることが布教の上で重要と考えていたようだ。日本人がハーモニーを好んでいたことを示唆する話で,フロイスの記述と合わないように思う。ハーモニーは好まれたけど,自分たちだけで正しくハモらすことができなかったので,ジレンマがあったのだろうか。


 小泉が紹介するナイジェリアのヨルバ族の例では,酋長が人を集めて自分が作った歌を歌わせるときには,人々はユニゾンで作られたとおりに間違わないように歌う。ところが,彼らが普通に集まって歌うときは複雑なポリフォニーを自然に歌う。小泉は「ユニゾンのほうが単純でハーモニーのある音楽のほうが発達した音楽だと考えている人がたくさんいるようですが,実際は人類の歴史から言いますと,ハーモニーや対位法がある音楽は比較的プリミティブな社会の中にある。しかし発達した社会,高級な社会の中ではユニゾンが発達している。いまのこの数百年の話をしているのじゃなくて,千年とか万年とかという単位でお話をしますと,そういうことになるのです」と記している。ユニゾンがある社会は発達して高級な社会であるらしい。もしそうなら,音楽面では戦国時代の日本はヨーロッパより高級で発達した社会であったということになる。

 ヨーロッパにしても,もしパレストリーナの音楽が教王マルチェルスを説得できなかったら,多声音楽は禁止され,日本と同じ単旋律社会になっていたかもしれない。どうも,権力が絡むと自然な方(ハーモニーのある方)から単旋律(統制が効く)へと流れる傾向がありそうだ。以前,東大寺のお坊さんから,東大寺では声明のピッチを合わせることを厳しく仕込まれる,という話を伺った。私にとって声明の魅力は,音やピッチが異なることで醸し出される微妙なハーモニー,いわばヘテロフォニーの世界なのだけれど,東大寺ではそれは許されないらしい。権力は,時として人間の自然な活動を奇妙な方向に持っていく*。

 * 古代エジプトの壁画と言えば,人は顔は横向きだが体は正面向きなど,奇妙な描き方が特長。一見,人間のパーツを描きやすい方向から描いているだけの原始的な壁画と思えるが,そうではない。古代エジプトにも透視法を使って立体的に絵を描く技法があったことが確認されている。しかし,透視法とは一種の錯覚をもちいるもので,神に捧げる壁画には相応しく無いと考えられ,あのような独特の描き方が考案されたらしい。教王マルチェルス達がポリフォニーは歌詞(典礼文)がわかりにくく神に捧げるには不適切ではないかと考えたのと発想が似ている。


 確かに,人が自然に歌うと各自の声の高さが違うので,ハーモニーがある方が自然である。斉唱が権力の統制のもと,揃える圧力として生まれたかもしれないとすると,強制されるのが嫌いな私が,合唱という表現で斉唱を現してほしくないという気持ちが整理できる。

 一方で,上手な合唱も統制が効いているように感じるけど*,これは団員の自発的な活動であり,関西学院グリークラブ伝統の秀逸なフレーズ「メンタル・ハーモニー」がそのことを表現している。

  * Nコンなどで多い,女の子が全員髪の毛を後ろで束ねているのは,好きになれない。自発的かもしれないけど,やり過ぎ。安積黎明は偉い,そういう意味でも。


II.明治期の多声音楽 唱歌教科書における多声音楽

 次に明治期の唱歌教科書,その中に合唱がどのように現れているかをみてみる。知られているように,明治期になって導入された西洋の歌は唱歌とよばれた。教科としての音楽も唱歌と呼ばれ,これはアメリカの小学校のカリキュラムにあった「Vocal Music」の訳語だったらしい(安田寛「唱歌と十字架」音楽之友社)。唱歌は「しょうか」と読まれるが,元々は日本音楽の記譜法であった唱歌(しょうが)譜に使われていた言葉。音高や音長が西洋音楽のように理論的ではない日本音楽で,チ・トン・テン・シャンのような「口三味線」,つまり楽器の擬音で旋律やリズム型をあらわす奏法譜だが(田中健次「図解 日本音楽史」東京堂出版),なぜ訳語に選ばれたのかは分からないようだ。

 ちなみに,同書によれば,元々の日本語では「うた」にも様々な種類があり、下表のようにかなり細かく分類されている。

 西洋のうたは「歌」とまとめたわけだけど,もしこの分類にしたがって西洋の歌を分けていたら,例えば斉唱歌を斉謳,合唱曲を合謡としていたら,のちの混乱は生じなかったかもしれない。が,かえってややこしくなったのも事実。普及の原則はシンプルにシンプルに,である。

 以下,明治期に出版された「唱歌集」から二声以上の曲が含まれているものを抜き出し,明治期の合唱事情を推察してみる。参考にしたのは小西潤子さんがまとめられた,大阪音楽大学で所蔵されている明治期の歌資料目録*である。これを元に,滝廉太郎の「四季」や,自分が所有している明治期の唱歌集から二声以上の唱歌を抜き出したデータを作成した。なお,小西さんの資料にある讃美歌集は除外した。1901年(明治34年)に早くも四部合唱の讃美歌が多く載せられているが,ここでは世俗的な広がりについてみてみたいと思うからだ。

 * https://www.daion.ac.jp/about/museum/a5a6tu00000190s8-att/doc004_2.pdf


 まず,各唱歌集が二声以上の唱歌をどれぐらいカバーしているかを概念的に示そう。この図は年とその年に出た唱歌集をプロットしたもので,その唱歌集に何声の唱歌が載っているかを示している。例えば,明治17年の「小学唱歌集 第三集」は,一声・ニ声・三声の唱歌が含まれている。レイアウトの都合上,年のプロット位置は正確ではない。また,各唱歌集の声部での面積には意味はない。その声部での曲数に比例しているわけではない。

 明治15年から小学唱歌集が刊行され,教科として制定されながら「当分これを欠く」とその立ち上げに苦慮していた唱歌教育がようやっと始まった。当時の日本人にとって西洋の音階を習得することは大変で(今でも譜読みを苦手とする人は多い),音楽教育を立ち上げた伊澤修二にしても米国で音楽を学んだ際に「12(ヒーフー)だけは可いが3(ミィ)となり4(ヨオ)となれば皆上がり過ぎて,先生にも叱られ自分は尚ほ苦労したけれ共,それでも殆ど唱歌にならなかった」と述べている。ドレはできるが,ミやファの音は取れませんと言っているわけで,伊澤が音痴なのではなく,当時の日本人は大体こんな感じだったのだろう(伊澤は少年時代に鼓手であり音楽的に一般の人より優れているぐらいだった)。それでも明治17年の第三集では果敢に三声(三部合唱)の曲を掲載し,意欲満々である*。


 * それにしても,なぜ唱歌の授業にこんなに力を入れたのだろう。歴史の時間にならった,明治政府の「富国強兵」政策から考えると,のんびり歌など歌っている場合ではない,という反論が出そうな気もする。このあたりには多くの研究があるが,まず基本となるのは,現代では歌は芸術という認識だけど(歌う人によって単なる騒音になったりするけれど,歌が本質的に持つ価値において),そういう認識ではなかったということ。
 奥中康人「国歌と音楽」によれば,伊澤は「完全なる人物」,つまり知性・徳性・体の健康をあわせもつ人を育てるための手段として唱歌を捉えていた。大きな声を出して歌うことは肺臓を健康にし,当時の国民病であった肺病にかかりにくくなる,という主張もあったらしい。

 また,渡辺裕「歌う国民」のように国民意識を確立し標準語や道徳の普及にするために唱歌を用いたとする説や,安田寛「唱歌と十字架」では,伊澤の陰には日本で基督教を広めるために人々が讃美歌を歌う必要がある,と考えた米国基督教関係者がいたとする説がある(小学唱歌集の原曲は多くが讃美歌である)。

 どれが正しいというのではなく,どれも複層的にからみあっているのだろうけど,こと合唱という点をからすると安田の説は説得力がある。他の説では,斉唱でよく多声化を急ぐ必然がない。しかし,日本でのキリスト教布教に意欲的だったプロテスタントではカトリックと違って信者が讃美歌を歌うのだから,伝統に則り四声で歌えないといけない。早くから日本語の讃美歌集が作られ,また後述するが,明治10年頃には外国人が聴いて「声が実によく揃っている」日本人による四声部の聖歌隊まで組織されていた。東京音楽学校の前身である音楽取調掛でさえまだ設置されていなかった時代に。


 小学唱歌集の次に,明治22年に出た中等唱歌集では,四声の曲も含まれる。うちの一曲「火砲の雷(ほづつのらい)」の原曲は,ドイツの曲「ラインの守り」。「人々をドイツ国民として統合する役割を果たした歌(辻田真佐憲「日本の軍歌」幻冬舎)」で,映画「カサブランカ」でドイツ将校たちが酒場で歌う歌であり,また,同志社大学学歌の原曲でもある。

 その後10年ほど目立った動きがないが,この間に唱歌教育をうけた子どもたちが大きくなったためか,明治32年に滝廉太郎の「四季」がでると,合唱曲を含む多数の唱歌集や曲集が出始めた。「四季」の合唱的価値は別にまとめる必要があるが,誰でも知っているニ部合唱の「花」だけでなく,無伴奏四声の「月」,伴奏付き四声の「雪」と全体の半分が四部合唱曲であるばかりか,構成は後に日本の合唱界を席巻する「組曲」となっている。

 この頃になると,一声の曲も二声以上でハーモニーを持つ曲も全てを「唱歌」とすることに疑問の声も出てきたようで,「重音唱歌」や「復(複)音唱歌」という唱歌集が出てくる。一般に,複音は二声,重音は三声以上とされているが厳密なものではなく,例えば「重音唱歌集 壱」の曲は全て二声である*。

 * 重音唱歌という言葉は,明治17年に使用例がある。


 重音唱歌集の編者である小山作之助は,曲集を出した理由を以下のように述べている。

「近時音楽の普及上進に伴ないて重音式歌曲の需要益々多きを加うるの傾向あるは必然の結果とは言え其道の慶事たらずんばあらず。然れどももし供給の之に副わざらんか進歩の時機を空うし発達の盛運を遅からしむるの憾み(うらみ)あるべし。これ本書を発行する所以なり。」(仮名は現代風にし,句点を入れた)

つまり,合唱の機運が上がっているのに適当な楽譜がなかったら発達が遅れるから本書を出した,と言うのだ。小山は伊澤の弟子で,東京音楽学校を首席で卒業,そのまま教鞭をとり,教育や作曲に熱心で「日本音楽教育の母」と言われた人である。

 続いて曲集のレベルに関する編集方針を述べている。

「本書題して重音唱歌集と言う應に二部乃至四部或いはそれ以上のものを収むべきなり。然れども実用上の便宜と程度とに鑑みて二部乃至三部の重音唱歌に止め,之を第一第二の二冊に分載す。」

本来はもっと多声部の曲を含むべきだが, 当時のレベルとしては残念ながら,三声程度と考えていたことが分かる。教育を知るものとしての判断なので,信用できる理解であろう。

 小山が言うように,この頃から合唱曲(重音唱歌)の需要が高まり,楽譜の数も増えてくる。近藤朔風が作詞した有名な「菩提樹」「野薔薇」「ローレライ」などが収録された「女声唱歌」が刊行されたのもこの頃である。これらの曲はドイツのリーダーシャッツにに収録されたジルヒャーが作曲または編曲したもので,後に男声合唱曲としてよく歌われるようになるが,まず女声三部合唱曲として世に出た。日本最古の男声合唱団である関西学院グリークラブが発足した頃の話である。

 「女声唱歌」はドイツに元になった女声合唱版があったのか,または著者の一人である天谷秀が男声合唱曲から編曲したのかは,分からない。天谷は東京音楽学校の教授でオルガンの大家だった人である。いずれにせよ,この頃の多声曲のほとんどの原曲は海外の曲である。「四季」のような例は珍しい。


 ここで,年代ごとに二声・三声・四声の曲数がどう推移したかをグラフ化してみる。明治も後半になると多声の曲数が増え,また三声・四声の曲の割合が増えていることが分かる。これを円グラフに整理すると,二声の曲が40%,三声の曲が37%とほぼ同等で,四声の曲は23%と少ないが,年を追うごとに増えている。

 以上をまとめると,明治も後半になると女声合唱を中心に三声(三部)合唱が出来るレベルになりつつある,と言える。と終われたらなかなか美しいのだが,以上の話からすっぽり抜けていることがあるので,それについて記しておく。

 まず,幾つかの唱歌集を題材としてるが,明治期の唱歌集はこれだけなのか,という疑問があるだろう。二声以上を扱っている唱歌集を抜き出しているからこんな話になるのではないか,という疑問。最もなことである。

 同様に,一声の曲はどれぐらいあって,二声以上の曲数はそれに対してどうなのか,という疑問もあるだろう。ごもっともである。分かる範囲で,述べていく。

 まず,今回取り上げた唱歌集はわずかに20冊程度である。一方,「日本教科書体系」という大部な資料集に「唱歌教科書総目録」があり,それを引用している文献によると明治期には225冊の唱歌教科書があった*。全てが曲集というわけではなく,一曲のみの「補助教科書」のようにみえるものもあるが,それでも 今回取り上げたものはその1/10程度であることになる。手元に資料がない他の教科書での「重音唱歌」のあつかいは,今のところまったく分からない。

 * 明治期に出版された唱歌集・軍歌集は1400冊強という論文がある。教科書以外に多くの唱歌集が出版されていた。

 次に,元にした小西の「明治期歌資料楽譜目録」には3,937曲がリストされている。自分が付加したものを加えても,二声以上の曲数は427曲(うち100曲程度は取り上げなかった讃美歌)なので,これも約1/10程度である(この中には異名同曲も含む)。

  更に,長谷川由美子氏の博士論文「明治期唱歌集における西洋曲の研究」では明治期に出版された西洋曲は5,098曲とされている。本当はこの曲をすべてチェックしないといけないが,それは私のレベルを越えているので,先の結論「明治も後半になると女声合唱を中心に三声(三部)合唱が出来るレベルになりつつある」を強引にそのまま持って先に進む。

III.明治期の新聞にあらわれる「合唱」

 ながながと歩いてきたけど,いよいよ本題の「日本で合唱はいつ頃から使われたか」に取り掛かる。元となる資料は日本近代音楽史研究会編「明治期 日本人と音楽」である。

  東京日日新聞の記事で,「合唱」が含まれている主なものを大きく4つに分けてプロットしている。まず,音楽の専門家である東京音楽学校に関連する記事(青色),音楽や演奏に関する評論(紫色),文部省の省令に係るもの(オレンジ色),そして広告記事である(緑色)。恐らく,まずは専門家の中で合唱という言葉が使われるようになり,それが文部省に伝わって使われ,広告に使われるようなれば一般人への認知度も高くなっている,と想定した*。

 * 「明治期 日本人と音楽」は明治期の書き文字をコピーして集めてあるため,読み慣れない私には解読に苦労した。読めない文字があり,また他に重要な記事を読み飛ばしている可能性は高いが,そこはご容赦ください。


 最も早く「合唱」を使っているのは,明治17年9月11日に掲載された「歌楽論」という論説記事で,「西洋の詩歌には『コーラス』あるもの多きは御承知の通りなり (中略) コーラスある歌の正則は衆人合唱の為なれば(以下略)」とコーラスの説明として合唱をあてている。先行例があるかもしれないが,新聞記事で見出したのはこれが最初である。先に述べたように,唱歌という言い方では斉唱と合唱は区別して使わなかった。

 従い,合唱という言葉の起源は,おそらく合・唱歌で,合奏という言葉が邦楽または洋楽分野で作られ,「合」は多人数が同時に異なる楽器を演奏する意味をもたせ,それになぞらえて,合唱歌と命名されたのではないだろうか。実際,以降の記事に「合唱歌」と書いたものがあり,また,のちに東京音楽学校は「合唱歌」という曲集を出した。

 邦楽の分野では合奏はあまりないけれど,それでも三曲などと言われて古くから行われていていたらしく,それは合奏と説明されている。しかし,昔から合奏と呼ばれたのか,明治になって洋楽の言葉を使って合奏と説明するようになったのかは,わからなかった。


 この後,明治20年の日本音楽会では「紳士三十余名にて四部合唱歌を歌ひ」,明治22年の大日本音楽会の演奏曲目を「合唱歌『松のみゆき(シューベルト)』と「合唱」を含む記事が散見されるようになる*。明治38年の慈善音楽会では「男声四部合唱 ア◯ーラオレー(ガイベル作)」とあり,今回みた範囲で男声四部合唱が使われた最初の事例である(残念ながら曲名が同定できない)。

 * 堀内敬三「音楽五十年史」によれば,プログラムに合唱という言葉があらわれるのは明治18年の音楽取調掛の第一回卒業演奏会のことで,「埴生の宿 四部合唱」と記されているらしい。

 明治39年には東京音楽学校での合唱演奏に対する,かなり細かい批評が掲載されている。「高聲音部は今少し研究すべし」「高聲音部と中音部と調和悪しく高聲音部は単独に唱える体あり」「高音部は邦人には適せぬにや,今度も聴き辛きと夥し」と高声部に対して厳しく,「此日の合唱は概して中聲音部の出来最上なりき」と評している。音楽学校内ではなく,一般紙にこのような専門的な評が載るようになった点は興味深い。

 明治40年にはシューマンの「流浪の民」が,今なお使われる「ぶなの森の葉隠れに」で始まる石倉小三郎の新訳で歌われることが報じられている。それ以前は東京音楽学校の教授だった鳥居忱の作歌で「薩摩潟」として歌われていた。これは「あわれあわれ正義の士」と始めて西郷隆盛と僧月照との投身を歌い上げる,原曲の歌詞と関係ない日本語の歌詞を作ったもので,メロディのみを利用した,メロ先の一種である。

 鳥居はこの他に,ケルビーニのレクイエムを「橘の薫」,ヘンデルのハレルヤを「神武東征」,ワーグナーのタンホイザー行進曲を「聖寿無窮」,ジルヒャーのローレライを「領巾摩嶺(ひれふるみね)」,メンデルスゾーンのエリアを「高津宮」と西洋の曲を日本文化に置き換えて紹介した。東京外国語学校でフランス語などを5年間学んだ人なので,外国語を理解せずに詞をつけたのではなく,西洋文化に不慣れな明治初期の人々には翻訳よりもこちらのほうが内容が理解できるため受け入れやすいと考えたのだろう。私も実は,「薩摩潟」の歌詞は「Zigeunerleben」の曲調と結構あってると思う。

 しかし,明治も40年ともなればいつまでも日本風の作歌ではだめで,特に言葉の強弱などのリズムを合わせる翻訳が求められるようになる。この記事は,今なお日本語訳歌詞の最高傑作と言われる石倉の詞による演奏があることを報じている。

 省令については,明治24年の文部省令「学校長,教員及び生徒,其祝日大祭り日と相応する唱歌を合唱す」が初出である。小学校における祝日大祭日の儀式について定めたもので,四方節・紀元節・天長節・明治節の四大節などの際に「その儀式にふさわしい唱歌を合唱せよ」という指示である。ここで言う合唱は,恐らく斉唱のことである。というのは,ふさわしい歌と言われても小学校も困ったのであろう,明治26年には「祝日大祭日唱歌」が選定され公布されたが,全て一声,つまり斉唱の楽譜である。「合唱」を求めていなかったことが分かる。早くもこのあたりから,合唱と斉唱を混同して(または同じ意味と理解される)使用していることになる。

 最も,合唱が念頭になかったわけではなく,明治33年には「祝日大祭日唱歌重音譜」が発行されている。小山作之助の「重音唱歌集 壱」や近藤朔風の「女声唱歌」が刊行された年でもあり,明治33年は合唱(重音唱歌)元年と呼んでも良いかもしれない。

 次にあげた明治37年の文部省告示の記事は当時の合唱状況を知る意味で大変面白い。

「小学唱歌の注意。軍歌軍人広瀬中佐國の光を小学校において(中略)其楽譜中複音の部に依らず単音の部に依りて教授すべき旨文部省より告示あり。検定にあたりたる文部書記官(中略)趣旨に抵触する教科書を検定済みとしたる不注意の廉に依りて主務省より譴責せられたり」

明治37年の広瀬中佐と言えば,「杉野,杉野は,おるか」で有名な,日露戦争の際に沈没する船に部下を探しに三度戻って敵弾にあたり戦士した,いわゆる軍神の一人である。明治37年3月27日のことだが国民を熱狂させたとみえて,直ちに唱歌,それも複音唱歌になった*。しかし,複音であるがゆえに歌いたいにも関わらず上手く歌えなかったのだろう。そのことが文部省の耳に入り「複音の部に載っているが単音で歌うこと」と通達が出ることになったのではないか。まだまだ複音レベルの合唱も骨が折れる状況だったようだ。

 検定を通した書記官は「規則の趣旨に抵触する教科書を検定済みにした」として譴責までされている。気の毒な話である。

 * 小西潤子さんの資料を参照すると,この曲は明治37年に修文館編集部(鈴木種次郎)編「戦捷軍歌 軍神広瀬中佐」の「七生報国」という二声の複音唱歌のことだと思われる。


 最後に広告について見ると,明治38年には東京音楽学校演奏会入場券販売の広告に,「合唱」が使われているが,これは学校側のプログラムをそのまま載せたものであろう。ついで明治39年には「ボヘミヤ人合唱団」と合唱という言葉が広告にも普通に使われるようになった。合唱という言葉が,大勢が同時に歌うこととして爆戦と理解され,浸透している感じである。

 明治45年には「露国合唱団『アグレネワ,スラウヤンスカヤ』一座」の広告が出る。この合唱団の演奏について,関西合唱界の重鎮だった長井斉氏が後に「スラブヤンスカヤ合唱団のこと」として書き記している。それによれば35名の混声合唱団で「日露の交戦からもう10数年も経っているので,戦役中に流行したラッパ節というものも気にしないで平気で日本語で合唱した」「最後に『バンザーイ』が7・8声部の音をハモらすのだが,聴衆はその前に喜んでしまって,大喝采をやるものだから,せっかくのハーモニーが楽しめなかった」

残念ながら,合唱のハーモニーを聴いて楽しむというレベルではなかったようだ。

IV.重音唱歌と合唱

 以上が調べた範囲における明治期の「合唱」の概略である。再掲すると,明治10年台には合唱が始まり,明治18年の音楽取調掛の卒業演奏会プログラムに「合唱」と記載されている。明治17年の東京日日新聞にはコーラスの説明として「合唱」があてられており,誌上でも明治20年以降には演奏会の記事に「合唱」が使われるようになった。省令では明治24年に「合唱」が使われているが,これは恐らく斉唱のことである。明治33年には著名な重音唱歌集がいくつかでて,一般的な合唱元年として良さそうだ。明治40年頃になると合唱団の演奏会が広告されるようになり,言葉としての知名度もかなり広まったようだ。

 「重音唱歌」と「合唱」の違いだけれど,用法をみると「重音唱歌」とは合唱曲のことであり,それを歌うことが「合唱」とされているようだ。転じて,複数名が同旋律を同時に歌うことも「合唱」と理解されたらしい。

 慶應義塾ワグネル・ソサイエティーの第1回演奏会が明治35年に開催されており,ネットに上げられているプログラムによれば「【合唱】 『須磨の曲』 」が演奏されている。その前の曲は「唱歌」とされているので,この曲は「合唱」と認識されていることを示す。この曲は明治・大正に活躍した作曲家北村季晴(すえはる)が作曲した叙事唱歌で「唱歌や軍歌は子供向きで我らの趣味に合わず,舶来の曲は難しいし声楽曲は我が言語と相容れざるが如き感がある」として,「我が社会と其趣味の程度とに相應すべきものを新作」,「曲の趣向はも洋曲Ballad(叙事的半戯曲にして対話を有し,また叙事の文をも含むもの)の風を,力みて日本風に編みたるもの」とある。この冒頭部に「甲乙丙合唱」とあるが,これは斉唱のことである。「須磨の曲」は,甲乙丙の3人(または3パート)が単独で歌ったり,複数パートが同時に歌う「合唱」からできている。つまり複数名(パート)が同時に歌うことは合唱,という位置づけで書かれている。

となると,いつ頃に合唱と斉唱が用語として分離したのかが次の課題であるが,ここではそこまで踏み込まない。いや,踏み込めない。

 以上で本題は終わりなのだけれど,明治時代を扱うことはもうないと思うので,最後に「君が代」と合唱の関係をまとめておきたい。君が代については詳しい本がいろいろあるので*,詳細は触れないが,ポイントをまとめたものが下図である。

 君が代は大きくわけて3つ(團伊玖磨によれば5つ)あり,現在歌われているのは海軍省が宮内省に委託してできた「第二の君が代」である。第一の君が代は,曲が日本語と合わなかったため,早くに廃れた。ただ,この二つの君が代を比較すると,旋律が似ているところがあり,「第二の君が代は第一の君が代の改良版」という見方もある。

 更に,文部省が音楽取調掛に作らせた「第三の君が代」があり,これは小学唱歌集に載っていたため,学校ではこれを習ったというお年寄りもおられる。男声合唱的にはこちらが興味深い。原曲がSamuel Webbe作曲のGlorious Apolloであるとされているからだ。Glorious Apolloは18世紀のイギリスでグリークラブが演奏のはじめに歌う曲とされていた。もし国歌の争いに文部省が勝利していたら,ちょっと面白かった。どちらの曲も楽譜はネットでみられるので,興味ある方は探して歌ってください。

 宮内省と文部省の闘いになるかに見えたが,結局は「第二の君が代」が「勝利」し,先に述べた儀式の際に学校で歌われる唱歌を定めた明治26年の祝日大祭日唱歌もその合唱版も,共に君が代は「第二」が載っている。教科書は第三,儀式の際は第二という状況になった。

 * 内藤孝敏「三つの君が代」,辻田真佐憲「ふしぎな君が代」など

 君が代が合唱で歌われた初期の記録には,図に示した二つがある。これは恐らく,日本人が作曲した曲が(和声はエッケルトが付けたとは言え)合唱で歌われた最初の記録である。

 明治20年の音楽取調掛の四重唱は,音楽取調掛が編集した「第三の君が代」の可能性もあるが,原曲が合唱とは言え「第三の君が代」の合唱譜は知られておらず,また,第二の君が代の作曲者である奥好義(おく よしいさ)は明治14年に音楽取調掛に異動しているらしいので,「第二の君が代」の合唱譜も持っていったであろうから,おそらく第二が歌われたのだろう。

 明治23年に合唱した「ニコライ聖堂合唱隊」は当時最もレベルが高かった混声合唱団である。先に「明治10年頃には外国人が聴いて『声が実によく揃っている』日本人による四声部の聖歌隊があった」と記した合唱団のことである。「宣教団聖歌指揮者ヤーコフ・チハイの努力と能力のおかげで」「少なくとも2年の絶対音感による基礎練習の後,音色を厳重に区別されて合唱班に編入された」と,ロシア正教布教のため最先端の音楽教育が行われていたらしい。民謡研究家の武田純一郎は,大正三年頃のこの合唱団を次のように記している

「所定の時刻になると男子神学校から二百名,女子神学校から二百名の合唱団員は静かに流れるように会堂に入ってくる。金須,中島両師の指揮で純正調のコーラスが始まり,各ポストについている神父さんたちの素晴らしい朗詠とからんで,男女四百名の美しく均整のとれた,そしてヴォリュームの深さを満たした音響,これこそ神聖の文字以外どんな形容詞を使ったならよいのか(中略) 神学校の声楽は週7時間も課せられてきつい勉強をさせられたとか,さすがに日本最高のコーラスであった(「合唱サークル」昭和42年2月号」」
読んでいるだけで,こちらも感動で恍惚となってしまいそうだ。

 清水脩が指揮し,組曲「月光とピエロ」などを創出した東京男声合唱団は,前身をコール・ベリョーザと言い,ニコライ堂の聖ニコライ合唱団の男声メンバーで発足した。 ニコライ聖堂合唱隊は存続が難しくなり消滅してしまったけど,明治期の活動がその後の合唱のルーツの一つになったわけで,明治時代の合唱は,決して特異なものではなく,脈々と今につながっているのだ。

以上


日本男声合唱史研究室

日本における男声合唱史の研究 Study on male chorus history in Japan 主として明治期から1980年頃までの,日本の男声合唱について資料調査したことを中心にアップしていく予定です。いわば,私家版の「日本男声合唱史」を作る試みです。 タイトルは思い切り気張ってみました(笑)。 2024年4月15日から「無料プラン」の仕様が変わるため,構成を組み替えました。

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