「権兵衛が種まく」の研究

                                          (「グリークラブアルバムの研究」から)


 わずか7小節の他愛もない作品だけど,日本男声合唱史において興味深い曲。まだはっきりしないこともあるけれど,抱えていても仕方がないので,分かったことをまとめていく。グリークラブアルバムの歌詞は次の通り。

 1.権兵衛が種まく 権兵衛がパラパラパラパラパラ

  権兵衛が種まけば カラスが後からほじくる

 2.田吾作カラスを 田吾作ホホホホホ

  カラスがアホアホ 鳴いて飛んで逃げた

 1番の歌詞は,元々は三重県北牟婁郡紀北町海山区の民話で,その後中部地方に広がった「種まき権兵衛」の冒頭部分が題材である。2番については後述する。


[種まき権兵衛]

 権兵衛さんは元武士の父親の後をついで畑仕事をしたが,それがヘタで,撒くはしから種をカラスに食べられる。しかし,気にせず頑張って村一番の百姓となる。その後,人々を困らせる大蛇を退治するためお守りのズンベラ石を持って出かけ,見事に討ち取ったところで大蛇の毒にあたって亡くなってしまった。権兵衛さんに感謝するため,ねんごろにとむらい,活躍を語り継いだ。

 この民話*)は民謡となり,中部地方では秋祭りの踊りとしても使われており,Youtubeで見ることができる。しかし,グリークラブアルバムの曲とは全く異なる。この違いをはっきりさせるためには,まずこの民話が元になってできた戦前の歌謡曲「ズンベラ節」についてまとめる必要がある。

*) 権兵衛は18世紀頃の実在の人物という話もある(西瀬栄一「南紀風物誌」)。

  「ズンベラ節」とは,江戸が東京となって間もない1872年(明治5年)頃に庶民の間で歌われた曲のことである。

               ズンベラ節

      権兵衛が種撒きゃ 烏がほじくる

      三度に一度は追わずばなるまい

      ズンベラ ズンベラ

      きびしいけれども 地ごくがふえる

      三度に一度は 刈らずばならない

      ズンベラ ズンベラ

      巣をば刈られて 鳶と烏

      これでは東京を たたずばなるまい

       ズンベラ ズンベラ

 作者は分からないが,権兵衛の名前,烏に種をほじくられる,ズンベラ(石),これらの事から,「種まき権兵衛」が元であることは間違いない。この民話を知る中部地方の出身者だろうか。しかし民話と異なり,最後の節では,自分が東京を追われることを烏に重ねた歌詞になっている。この点について, 古茂田信男編集「新版 日本流行歌史 <上1868~1937>」に説明があるので要約する。

【「新版 日本流行歌史」から要約】

 「版籍奉還によって人口が百万から数十万に減り,丸の内でも大名が引き上げた後はぺんぺん草が生い茂って追い剥ぎがでるほど寂しくなった。そこで新政府は殖産産業の一つとして市内の空地に,当時の二大輸出品だった桑・茶を栽培させた。しかし,この奨励は失敗に終わった。東京が帝都となり,畑は宅地や商店街となり,その膨張ぶりに”巣をば刈られて 鳶と烏 これでは東京を たたずばなるまい”と「ズンベラ節」にうたわれるほどに発展したのである」

 政府の要請に従って作った畑から,状況が変わったとして追い出される自分たちを,かって自分たちが追い払った烏に重ねて皮肉交じりに歌ったわけだ。


 ズンベラ節の楽譜(採譜と思われる)が,1915年(大正4年)出版の町田櫻園 ・東京上野音楽会編「近世俚謡歌曲集」に収録されている(画像は国会図書館デジタルライブラリーから)。

 この歌はその後,1928年(昭和3年)7月に「権兵衛が種まく」としてSPが発売された。 歌唱は藤原義江,作曲は伊藤祐司とされているが,歌の作曲ではなくピアノ伴奏の作曲である。この歌唱は国会図書館の歴史的音源や,Youtubeで聴くことができる。こうして,民話「種まき権兵衛」から民謡「権兵衛が種まく」が生まれた。

(2016/11/6追記)

明治時代の合唱譜を調査する中で,この曲の楽譜が明治時代に少なくとも6つ出ていることが分かった。最も古いものは1891年(明治24年)の「西洋楽譜 日本俗曲集」に「権兵衛蒔種」として収められている。節は一部少し異なるが,基本は同じ。ただし二番の歌詞が俗っぽく,歌われているうちに新しい歌詞ができたのかもしれない。下の楽譜は国会図書館デジタルライブラリー所蔵。後に述べる十字屋からも,ハーモニカの楽譜が出ている。

(2016/12/22追記)
  歴史読本昭和48年新年号に,歴史家の森銑三さんが書いた「『権兵衛が種蒔きゃ』の唄」という随筆がある。その中でこの歌は,「安永二年(1773年)に目白台の某寺で催された宝合せの会の記文を纏めた『たから合の記』の中に,

  権兵衛が種まきや,烏がほじくる。何事おいても,三度に一度は
  おはずばなるまい。のほほん のほほん

と出ていたのである」とあった。「何事においても」の歌詞が入っており,「ズンベラ」ではなく「のほほん」となっているが,森は「安永年間かその少し前に江戸で行われたのが全国に広がったのではないか」としている。こうなると,江戸が起源か中部地方が起源か私には分からないが,かなり古くから歌われていた事は分かった。なお,「何事においても」は,「西洋楽譜 日本俗曲集」の「権兵衛蒔種」の二番に「何かはさておき」に残っている。


 ここから合唱の話になる。合唱曲「権兵衛が種まく」の古い楽譜を探ると,タイトルが「権兵衛と田吾作」となっているものがある。また,原曲も黒人霊歌とするものと,ドイツ民謡とするものがある。譜例を示す。

 歌詞と節が同じで,河原の曲が元になっているのは明らかである。曲は感覚的には黒人霊歌のように思われる。この点について,福永陽一郎氏はグリークラブアルバムLPの解説で「黒人霊歌。編曲は,エール大学のグリークラブに古くから伝わったもの。これに,日本の俗謡の歌詩をこれほど見事につけ合わせたのは,どこの誰だろう」と原曲を記している。これを手かがりに,エール大学の古い楽譜を集めてめくってみたところ,1882年(明治15年)に出版されたYale Songsに載っている,WHO DIDが原曲であることがわかった*)。

*) この楽譜には黒人霊歌とは書いていない。しかし,黒人霊歌のリストに「WHO DID」や,この譜面で4番に当たる「WHO DID SWALLOW JONAH?」というタイトルの曲が載っており,原曲は黒人霊歌で正しいようだ。編曲者はDaniel Protheroeとされている。

  実は「WHO DID SWALLOW JONAH?」は現在も歌われており,Youtubeで聴くことができる。ただし黒人霊歌と言うより,子供に聖書のことを教えるBible Songとして歌われている(Youtubeで聴く歌詞はもっと長く,合唱編曲前の原歌詞である)。

 WHO DIDの一番の歌詞を記す。

     Daniel, Daniel, Daniel, Daniel,

     Daniel in the li-li-li-li

     Daniel in the lions', Daniel in the lions' den

つまり「だれがやったの?」と題して,「ダニエルはライオンの穴の中にいる」「ガブリエルはトランペットを吹く」「ペテロは海の上を歩く」など,聖書の登場人物の有名なエピソードを簡潔に軽快に歌い上げていく。


 こうしてみると,この歌詞から「権兵衛が種まく」のが構想されたことが伺える。例えば,第2節の歌詞は原曲と日本語版を対比すると

     Daniel in the li-li-li-li

     権兵衛がパラパラパラパラ

とその関係が明らかである。

 また,元の民話でもズンベラ節でも登場人物は権兵衛だけだが,2番になって田吾作なる新人物が登場し,違う動作(カラスを追い払う)をすることが歌われている。これも,WHO DIDの形式である登場人物が順に変わっていくを踏襲している。つまり,「権兵衛と田吾作」が併記されるタイトルはWHO DIDを踏まえて付けられたタイトルである事がわかる。

 では,福永先生ではないけれど,この見事な歌詞をつけたのは誰だろうか? それは,河原馨風という人物である*)。グリークラブアルバム以外にも彼の名がクレジットされた楽譜が幾つかあり,未見だが最も古い例では,京都十字屋楽器店から1915年(大正4年)に河原馨風編作として「権兵衛と田吾作」が出版されている。先述のように,タイトルからみてこの楽譜はWHO DIDに歌詞をつけた合唱譜であるとみて良い。恐らく,WHO DIDを知っていた河原が,「近世俚謡歌曲集」などから「種まき権兵衛」の詩を知り,WHO DIDに歌詞を載せることを思いついたのだろう。「誰が? 権兵衛が」という連想だろうか。

 楽譜が出た3年後,1918年(大正7年)に関西学院グリークラブがダブカルで「権兵衛と田吾作」を演奏した記録があり,これもこの曲であるとしてよい。

*) グリークラブアルバムの古い版では楽譜と目次ページに「権兵衛が種まく」の作詩者として記載されている。名前は分かるがどんな人かが分からない。という意味か。それとも北村先生の担当だったのか?


 さて,この関西学院グリークラブ以外にはしばらく演奏記録が見当たらない「権兵衛と田吾作」だが,1934年(昭和9年)にオリオン・コールがこの曲を演奏するSPを出した。

  この合唱団の詳細は別にまとめる必要があるが,戦前に活躍したセミ・プロの団体で,グリークラブアルバムにも彼らが訳した「水夫のセレナード」「ふるさと」が収録されている。戦前に何枚か男声合唱のSPを出し,そのうちの1枚が 「権兵衛が種まく」と,もう1曲これもグリークラブアルバムに収録されている本居長世の「婆やのお家」とのカップリングで発売されたSPである。

 「権兵衛と田吾作」は,藤原義江のSPのほうが知名度があったためか,「権兵衛が種まく」というタイトルに変更され,かつ,編曲が本居長世とされている*)。

 この演奏は国会図書館のデジタルコレクションで聴くことができるが,ほぼそのままグリークラブアルバムの「権兵衛が種まく」である。冒頭の部分を歌うのではなく,掛け声をかけるように唱えているところが異なるが,これは古い楽譜に書かれた,この部分は「speaking」,四声になってから「singing」に対応している。音としてもWHO DIDから変わったところはみられない。

 しいてあげるなら,WHO DIDでは

     Daniel, Daniel, Daniel, Daniel,

     Daniel in the li-li-li-li

を3回繰り返しているが,「権兵衛が種まく」では2回というところが違う。もしかすると,元々の楽譜では3回だったところに,SPの収録時間の関係で演奏時間を短くするため本居が3回めをカットしたのかもしれないが,編曲というほどでもなく,謎である。

*)  国会図書館の書誌に「(編)本居長世」とあるが,SPレコード目録には編曲者が書かれていない。編曲者がいない(河原の曲のまま)の可能性もある。

 このSPが出たあと,関西学院グリークラブは「権兵衛は種まく」を毎年のように演奏している。楽譜は「権兵衛と田吾作」を用いたと思われるが,このあたりははっきりしない。後述のように,オリオン・コール編の楽譜が別に出版された可能性もある。なお,関西学院グリークラブの1943年の記録では「伊藤裕司作曲,河原馨風作詞」となっているが,これは勘違いであろう。伊藤の「権兵衛が種まく」と河原は関係ない。


  以上,少し話が入り組んでいるので,下図に整理した。関西学院グリークラブは1945年(昭和20年),戦後再開した練習でもこの曲を取り上げ,以後演奏旅行などで何度も取り上げ,グリークラブアルバムの出版時にはまだ盛んに歌っていたので,収録されたのは当然であろう。戦前の楽譜(「オリオン・コール編」と記されていた様子)を入手した早稲田大学グリークラブも愛唱曲として歌った。

 元となる民話,明治初期の歌謡,それに基く昭和の創作民謡,黒人霊歌WHO DIDの曲に載せられた男声合唱曲。更にここには載せていないけど,秋祭りの踊りの歌。一つの民話が様々な曲を生み出したわけで,民衆の音楽活動とし興味深い。

 最後に,河原馨風とは何者だろうか。馨は香の旧字で,「キョウ」「ケイ」「かお-る」と読むから,「かわはら きょうふう」または「けいふう」と読むのだろう*)。「河原に風が香る」だから恐らくおそらくペンネーム。他に作品が見当たらないことから,専門の作曲家や作詞家ではなく,明治末から大正のはじめの合唱部員ではないだろうか。Yaleグリーの歌集を知っていること,京都の十字屋から最初の楽譜が発売されたこと,関西学院グリークラブが頻繁に取り上げていることからすると,関西学院か同志社のグリークラブの関係者かもしれない。が,今のところ,これ以上のことはわからない。

*)  馨(かおる)と聲 (こえ。最近「聲の形」という映画がヒットしたので知ってる人も多いだろう)を勘違いして「河原声風」と表記している例が時にあるが,まちがい。ただし声風とすると「こわぶり」と読み,「歌う声の調子 」を意味するので,「河原で歌う声の調子」となり,これはこれで味わいがある。


以上

日本男声合唱史研究室

日本における男声合唱史の研究 Study on male chorus history in Japan 主として明治期から1980年頃までの,日本の男声合唱について資料調査したことを中心にアップしていく予定です。いわば,私家版の「日本男声合唱史」を作る試みです。 タイトルは思い切り気張ってみました(笑)。 2024年4月15日から「無料プラン」の仕様が変わるため,構成を組み替えました。

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