グリークラブアルバムの研究 レパートリー編

 総論ではグリークラブアルバムの愛唱曲集としての特長について,グリークラブアルバム以前の男声合唱曲集と比較してまとめた。結果的にこのポジショニングが成功したわけだが,そもそも愛唱曲集とは何であるかということは論ぜずに進めた。「レパートリー編」では,愛唱曲集とは何であるか,グリークラブアルバムはどのようにそれを満足しているのかを考える。その中で,なぜ「グリークラブアルバム」と命名されたのかも探る。


(2017/5/18追記)

1949年刊の「コーラスブック (男声)」1~3を入手したので,データを追記。また,黒人霊歌の先行収録があったので,グリークラブアルバムの初出(表中に赤字で示す)を変更。


I. 愛唱曲集とは何か

 愛唱曲集とは何かを定義する前に,愛唱曲の定義と位置づけについて検討しておく。愛唱曲とは,各々の合唱団で長く愛され,機会あるごとに何度も歌われている曲のことで,新人はステージ用の曲を練習する合間に設定される練習を通じて覚えていく。何を自明のことを・・と思われるかもしれないが,こう考えると合唱団のレパートリーは次式で表わされることになる。

 「レパートリー」=「ステージ用の曲」+「愛唱曲」

「数学的」に言うと,「ステージ用の曲」とはその年の変数であり,「愛唱曲」とは定数と例えることができる。「ステージ用の曲」は,その年の定演,ジョイントコンサートとその合同曲,コンクール用の曲などが含まれる。1回生が今年の曲しか歌えないので彼らがこの項を律速している。当然,4回生は過去4年分の曲を歌えるはずであるが(過去の曲についての完成度はさておき)。

 一方,愛唱曲は練習が必要とは言え,1回生を含む全学年が歌える(ようになる)。つまり,ステージを離れた時に合唱団のレパートリーと呼べるものは愛唱曲のことであり,合唱団としての軸であることになる。愛唱曲は決して軽いものではなく,合唱団の本質とさえ言える。「遥かな友に」「U Boj」「詩篇98」のような団の顔とも言える歌,あるいは各大学の学歌や応援歌や有名な寮歌の合唱編曲は,団の結束を高めアイデンティティを確認する役割も果たしている。

 合唱団の実力は定演の選曲と完成度で示されるが,合唱団の「心」は愛唱曲にあるという,一種のミスマッチが存在していることになる。


 戦前においては,このミスマッチががほとんどない。当時は合唱団の技術的完成度が高くなく,それほど長くない限られた曲を繰り返し練習しステージに上げる。ステージに上げる頃には曲は完全に頭に入っているので,ステージでなくてもどこででも歌うことができた(*1)。つまり,「ステージ用の曲 = 愛唱曲 = レパートリー」だった。部史に演奏会の曲目記録があれば,それは愛唱曲の記録であったとしてもよい(*2)。

*1 福永は「おぼえこまないと正しくうたえないということでもあった」としている。

*2 もちろん例外もあり,戦前でもシューベルトの「ドイツミサ」全曲がしばしば演奏されているが,これは愛唱曲ではない。ただし,その中のZum Sanctusに吉丸一昌が訳詞を付けた「若松懐古」は単独で広く歌われており,当時の愛唱曲と言って良い。


 戦後になり団の人数も増え技術レベルも上がった。1960年代以降になるとコンサートの曲はレベルの高いものとなり,いつでもどこでもみんなで歌える曲ではなくなった。そこでステージ用の曲とは別に愛唱曲を練習するようになっり,「愛唱曲 ≠ ステージ用の曲」となった。福永はLP「グリークラブアルバム2」のライナー・ノートに以下のように記している

「技術的には最上級に達しており,昨年うたった曲は,新入部員の加わった今年のメンバーでは,もううたえない。その事情の集積で,全学年でうたえる曲というのは,その年の秋の時点で,定期演奏会のために現在練習している曲のほかには,ほとんど一曲もないという状態になる。

 そこで,たいていのクラブでは,そのクラブ独特の「愛唱曲集」を印刷して持っており,そこに載っている曲だけでも,いつでもどこでもうたえるように準備するのである。つまり愛唱曲は愛唱曲として,その年のプログラム・レパートリーと別に練習して,打上げパーティーのときなどにみんなでうたうために用意するのである。準備され練習されて,計画的に用意される愛唱曲というのは,なにか不自然であるが,これも当世風というのだろう。」

 代々歌い継がれる愛唱曲とステージにかける曲が分離したのは戦後の現象であり,それは合唱団のレベルが高くなったこと(及び合唱曲が増えたこと)による。福永が言う「全学年でうたえる曲というのは,その年の秋の時点で,定期演奏会のために現在練習している曲のほかには,ほとんど一曲もない」状況,いわば合唱団のアイデンティティが危機にある状況において,それを回避するために「計画的に用意される愛唱曲」が生まれたのだ。


 そのために,どの合唱団にも独自に編集した「愛唱曲集」を用意するわけだが,これには先輩から受け継いで歌われてきた曲や,新しく歌われる様になった曲(ステージの一曲だけど団員が気に入った等)を収録しているわけで,この場合の「愛唱曲集」は定義は明確である。前述のように,その団のアイデンティティと呼べる曲集である。

 一方,グリークラブアルバムのように市販される愛唱曲集は,不特定多数を相手にするわけだから,この定義では不充分で不特定多数が購入する動機を考えなければならない。そこで,市販される愛唱曲集に対して次のような要件を考えてみた。

  ① 多くの合唱団で歌われている最大公約数的な曲

  ② 多くの合唱団が歌いたがっているが楽譜が入手できない曲

  ③ 長く歌われてきた歴史的価値のある曲

  ④ 今後歌われるようになることが予測される曲

  ⑤ 編者の知見において収録したほうが良いと思う曲

 つまり,過去・現在・未来の視点から選曲する必要がある。①のように皆が歌っている曲は,すでに楽譜が(合法であれ非合法であれ)出回っているわけだから,出版社からすると売れる要素があまりなく美味しくない。しかし,楽譜が必要なときはここを参照すればよいというリファレンス的な価値があれば,購入動機となりうる。

 出版社的に最もよいのは②,続いて④。これらに相当する曲を収録すれば売れる可能性が高い。ただし,④はあまりに難易度が高かったり知名度が低いと,売りにくい。③は ①とかぶるところがあるけれど,曲集の箔付けとしてあったほうが良い。⑤は,あまり知られてはいないが編者が長く歌われる価値があると考える曲のこと。ただし,あくまでも愛唱曲だから,長すぎたり難しすぎたりしてはいけない。

 これら①-⑤の視点から選んだ曲をバランス良く配合する必要がある。福永が懸念した「曲集というのは合唱団がすべての曲を使えるように作るのは不可能で歌わない曲が入っているため,曲集の楽譜を全員は買わずに一冊買って必要部分をプリントする」を少しでも避けるためには,様々な位置づけの曲を集めて「何度もプリントするのは面倒」なまでに利用価値を高めておくことが効果的である(*3)。ただし,昭和30年代はコピーが普及しておらずガリ版を切ることが一般的だったので,こういう対策も考えられたが,コピーが普及した昭和50年台になれば当たり前のようにコピー楽譜が配られていた(*4)。

 *3 早稲田大学グリークラブ史「輝く太陽」の1956年(昭和31年)のところに「部費滞納者に楽譜交付を中止」とするコラムがある。印刷局が設立されたとあり,その仕事は「グリー内の全ての謄写印刷を担当する」「最も重要なものは楽譜の印刷である。この楽譜の印刷たるや実に大変で,原紙一枚製版するのに約5時間を要するのである」とある。ガリ版を切るのは,著作権的にはあってはならないことだけど,これはこれで大変な作業だった。


 *4 幾つかの団の愛唱曲集を入手したが,市販楽譜から採られた曲も多く,コピーしたまま製本されている。私が大学生の頃(1970年代後半)でも安いところでは一枚10円でコピーが取れたので,ガリ版を切るよりは遥かに楽だった。所属した合唱団では,透明紙にコピーしそれを青焼きするという手間をかけ,更にコストを削減していた。


 以後,グリークラブアルバムを材料に可能な限り定量的に分析しようと思うが,ここで難しいのは愛唱曲の演奏記録はなかなかない,ということだ。前述のように,戦前は演奏記録のある曲は愛唱曲として良いが,前後はしっかりした部史を編んでおられる合唱団でも,「その年にこんな愛唱曲を歌った」という記録はほとんどない。「この頃の愛唱曲」として記載されている例はあるが,当時歌われていたことが定性的に分かる,という程度の情報になる。例に出して恐縮だけど,「遥かな友に」は早稲田大学グリークラブで数限りなく歌われたであろうが,記録には出てこない。逆説的に言うと,「記録には出てこないけれど,他団によく知られている曲」がその団の愛唱曲であるとさえ言える。

 以下の分析では,演奏記録があるものを拾い出して進めていく。タイトルは同じでも編曲が違う場合が含まれるかもしれないが,そこは区別せずに定量化した。


II. グリークラブアルバムと今までの曲集の関係

 では,先の要件①~⑤に対して,収録曲はどのように対応しているであろうか。目次をながめると明らかに,グリークラブアルバムでは共通点のある曲はまとめておかれている。まずドイツ語曲,次に古くから歌われる比較的諧謔的な曲,次に宗教曲,という具合である。この編集方針は「ポピュラー男声合唱曲集」を参考にしたものと思われる(*5)。ここでは初期版の順に並べ,後の版で差し替えられた曲は最後にまとめた。

 要件に対しどちらとも分類できるものは複数マークすべきだろうが,それではかえってややこしくなるので,現在の歌われ方も踏まえて(結果を知った上で),思い切って一つに絞って分類してみた。

 曲名を赤字にしているものは,グリークラブアルバムで初めて収録された曲を示す。

U Bojは日本語歌詞の楽譜が2種類出ていたので既出扱いとした。もちろん原語の楽譜は初めてである(写し間違いがあるとは言え)。

 *5 「ポピュラー男声合唱曲集」では,例えば1巻では「自然」「生活」「戀愛」「別離」「諧謔」「乾杯の唄」「宗教」と分類されており,それまでの曲集になかった特長である。グリークラブアルバムでも参考にしたと思われるが,福永は「ポピュラー男声合唱曲集」を知らなかった可能性があり,カワイ楽譜からの提案かもしれない。

 福永は「私が最初に記憶した<合唱曲>は「ブルドック・オン・ザ・バンク」という歌詞で始まる曲のバス・パートで,父親が男声四部のバスのパートを歌っていたからであろう」「メロディーがどんなものか知らない」としているが,この曲は日本男声合唱界で最も古くから歌われていて,「ポピュラー男声合唱曲集1」にも収録されており,福永がこの曲集を知っていたなら気が付かないはずはない。

分類区分ごとで①~⑤が固まって集まる傾向がある。この傾向をもう少し分析するため,過去の曲集に収録された曲とグリークラブアルバム以前の主な曲集との,収録曲の関係を調べた。結果を次表に示す。横軸の曲集は発行年が古い順に並んでいる(Aが最も古い)。

 記号の◯は編曲の違いを問わずに同じ曲があることを,◎は編曲や訳詞が同じ同一の曲(言い換えれば,グリークラブアルバムの出典)ことを示す。

 2つの表からわかることをまとめると,

   1.ドイツ曲は古い曲集に多く収録されている。

   2.日本の曲は新しい曲集ほど多く収録されている。

   3.古い諧謔曲や米国の曲はほぼ均等に収録されている

   4.宗教曲,黒人霊歌はそれ以前には収録されていない(*6)

1について,ドイツ曲は愛唱曲集の要件としては①または③の,最大公約数的で歴史的価値のある曲である。2について,戦前はほとんどが外国曲又はその訳詞によるもので,日本語オリジナルな曲は「婆やのお家」など数えるほどしかなかった状態から,「遥かな友に」「柳河」などその後よく歌われる日本の曲が収録されている。④または⑤の,または今後歌われるべき今後歌われる曲に相当する。3は①または③を現している。

 4の宗教曲は,関西学院グリークラブが愛唱したりコンクールでうたった曲が集められている。当時,関学や同志社などキリスト教系の学校が宗教曲を歌うことは自然であったが,新興の合唱団ではあまり縁がなかった。父が牧師であり関西学院や西南学院で学んだ福永は宗教曲をよく知っていたので,そのような学校にも優れた宗教曲を歌ってもらいたかったのではないか。その意味で⑤の編者の知見において収録したほうが良いと思う曲に相当する。

 黒人霊歌は当時は大人気で多くの合唱団が手がけており,また,歌いたがっていたので,②または④として楽譜の提供を意図したのであろう。

 *6 日本の合唱における黒人霊歌については述べることがたくさんあるので,別稿でまとめる。


III. グリークラブアルバム所収曲の初出

 このように,宗教曲と黒人霊歌により,グリークラブアルバムはそれまでの曲集と差別化されている。また,コンサート用を志向したと思われる長めの曲にも初出が多い。これらの曲はどの合唱団がレパートリーとしていたのだろうか。東西四大学の団が各々の曲を最初に歌った年をまとめたものが次の表である。グリークラブアルバムが出た1959年以降に歌われた場合は記載していない。

 赤字はその中で最も古い年に歌われていたことを示し,つまりその団がレパートリーとして初めて男声合唱界に持ち込んだと考えて良い。実際には,部史に載っていなくても歌われていた可能性は高く,ブランクは歌われなかったことをストレートには意味しない。記載されている年にその団は確実に歌った,というまとめである。その意味で,この表は暫定的なものである。

 表から,ドイツ曲は慶應ワグネルの初出が多いが(大塚淳の功績と思われる),それ以外のほとんどは関西学院グリークラブが初出である事がわかる。福永と北村のコンビであるから当然そうなるとも言えるが,改めて関西学院グリークラブの功績の大きさに驚く。関西学院はこれらの曲を持ち込んだだけではなく,前述のように戦前を中心に繰り返しステージにかけることで,「曲のエバンジェリスト」としての役割も果たした。長きに渡り名実ともに日本一の合唱団であった関学のレパートリーは,他団にとって憧れであり,「U Boj」だけでなく「関学が歌ったあの曲を歌いたい」思いは多くの団が持っていただろう。

 ここで各々の曲が東西四大学によりどのぐらい歌われていたかをみてみる。曲の人気を計る,バロメータとして参照する。

このグラフは,1959年までに各々の曲を東西四大学が何回歌ったかを示したもので,黒点線から下が戦前,上が戦後である(*7)。つまり,点線がX軸上にあるものは,戦前の演奏回数がゼロ,すなわち,戦後に歌われ始めたことを示す。合同合唱による演奏は含んでいない。

 *7 データ集めに膨大な手間がかかった割に,分かりやすいグラフが描きにくい。いろいろ試してみた結果,全てひとまとめにしたものが良さそうである。演奏回数の記録については団による粗密がありフェアな比較ではないかもしれないが,そこは目をつぶる。

 戦前戦後を通して歌われた回数の多さで言えば,ベスト5は

1. U Boj 2. 野ばら(Mendelsohn) 3. Annie Laurie 

4. 婆やのお家 5. PSALM 98

となる。

 「U Boj」と「野ばら」(関学風に言えば「野ばらの花」)は戦前戦後と期間は違えども同程度の回数演奏されており,関西学院がいかにこの2つの曲を愛していたかが伺える。

 少し意外だったのがAnnie Laurieで,結構歌われている。Annie Laurieを原曲とする「才女」という曲が1884年(明治17年)の小学唱歌集に収録されており,メロディーに親しみがあったかもしれない。4つの団にまんべんなく歌われている。

 戦後になって黒人霊歌が新しいレパートリーとして加わっているが(*8),同時に「からたちの花」「婆やのお家」など日本の曲も歌われ始めており,戦後すぐのアンビバレントな感情が伺える。

 「Psalm 98」は同志社の十八番でかなり歌われているが,初期版のグリークラブアルバムでは収録されず,改定後に載せられた。初期版から載っていても良い気がするが,関西学院由来の宗教曲と比べて知名度が低かったのかもしれない。


 こうしてみると,「グリークラブアルバム」と命名された理由がみえてくる。関西学院グリークラブのレパートリーに多くを負うことが理由ではないかと思う。「総論」でみたように,すでに「◯◯男声合唱曲集」として適当な名前は使われてしまっている。「福永陽一郎男声合唱曲集」とするには,「東京コラリアーズ合唱曲集」と比べて彼の編曲になる曲が少なく不適当である。結果,グリークラブアルバムが,関西学院グリークラブのレパートリーが多く,男声合唱団をあらわすグリークラブを冠する曲集がないこともあって,選ばれたのではないか。1957年の定期演奏会で早稲田大学グリークラブが「グリークラブアルバム1957」と題する愛唱曲ステージを持っており,タイトルのヒントになった可能性もある。

 ところで英語のalbumに「曲集」の意味はあるのだろうか? ネットの英英辞書をいくつか当たったところ,写真のアルバムかCDやLPを指すという定義が多かった。少し拡張したものとして「a book in which you can collect things」や「An album is a book of photographs, mementos, or a collection of some other kind — like music.」があり,あまり一般的ではないが使って間違い,ということはなさそうだ。市販品につかうのかどうかは微妙で,検索しても合唱曲集(楽譜)として用例は見当たらなかった。


 主な曲について,簡単に記述しておく(詳細は「グリークラブアルバムの研究 (曲目編)」でまとめる)。何曲かについては「初めて歌われた」と判断した理由についても説明する。

 「ドイツ曲」の「菩提樹」は慶應も早稲田も同時期だが,ジルヒャー編曲が明記されている慶應を最初とした。ウェルナーの「野ばら」は,早稲田が最も早いが「三声」と書かれており,「女声唱歌」の楽譜での演奏であろう。ウェルナー版である慶應・同志社を採用した。メンデルゾーン作とされる「野ばら」は,関西学院の十八番。Ständchen (小夜曲)は明治期に「さよ曲」として楽譜が出ているが,東西四大学による明治期の演奏記録は見当たらなかった。「Frie Kunst」は慶應がタイトルの直訳「自由な芸術」として歌っているが,それ以降に「Frie Kunst」としても歌っている。

 「権兵衛が種まく」は別に項目を立てたように,黒人霊歌「Who Did」が原曲。「鉄道開通」は慶應が原曲「Tunnel Festlied」を最も早く歌っているが,吉丸一昌が訳詞を付けた「鉄道開通」が1911年に発表され,それは関西学院が最初に歌った。

 「宗教曲」は関西学院が最初に演奏した曲が集められている。

 「日本の曲」について,「婆やのお家」は1930年(昭和5年)の作曲で雑誌に発表され,1934年(昭和9年)の発表会ではオリオン・コールが演奏し,戦前の邦人男声合唱曲としては最も多く歌われた。「柳河」は1955年の同志社が最も早いが,組曲としては1957年の慶應で,合唱文庫で全曲の楽譜が市販されたためと思われる。

 「古い米国曲」のAnnie Laurieは1920年(大正9年)に歌った関学が早い。日本語訳をつけた楽譜は同志社OBの山口隆俊が1926年(昭和元年)の「The songs of the mail」に収録したものが最も古く,同志社でも同じか,それより古くから歌われていたかもしれない。「いざ起て戦人よ」の原曲The song of the Soldiersはキリスト教系の関西学院や同志社で古くから歌われていたが,このタイトルと日本語訳を付けたのは西南学院の英文学部教授の藤井泰一郎で,英語で歌うことが難しくなった1937-8年(昭和13-4年)の頃で,西南学院グリークラブが歌っていた。「Be still my Soul」は原曲はフィンランディアだが,宗教的な歌詞で関西学院が歌っていた。慶應はフィンランディアとして演奏した記録がある。

 「黒人霊歌」で石丸寛編曲のものは,関西学院が歌っているが,元は彼が当時指揮していた西南学院グリークラブのレパートリーだった可能性が高い(関西学院は西南学院と何度か交歓演奏会を開いている)。福永は石丸を「黒人霊歌に関して私が最も信頼している人」と評している。三沢郷の2曲は,彼が東京コラリアーズで編曲を担当していたことから,東京コラリアーズのレパートリーだったと思われる。

 「長めの曲」について,「お留守居」と「二つの棺」は,訳者が共に関西学院グリークラブのメンバーだったことから,初出を関西学院として良い(*9)。「冬のセレナーデ」は清水脩がフランスから楽譜を取り寄せたことをエッセイに書いている。大阪外国語大学卒業後に兄弟たちと男声カルテットを楽しんだ頃とされているので,1935-6年(昭和10-11年)頃だろうか。このときはステージで披露していないが,その後1952年(昭和27年)に東京男声合唱団の演奏会で歌われているのが公で歌われた最初と思われ,初期版のグリークラブアルバムでもそのように紹介されているが,同団の団史では初演曲扱いされていない。グリークラブアルバムでは福永(安田二郎)の訳で収録されている。「U Boj」は別に詳細に論じた。「家路」は福永が「9回編曲した」とあり,また,作詩が三沢郷であるため,東京コラリアーズ版であろう。

 *9 「お留守居」の訳者武野信二は関西学院グリークラブを1938年に卒業した。「二つの棺」は初期版に訳者名はないが,「グリークラブアルバム3」に再録された際に土居四郎と明記された。土居は1940年ごろの部員。

IV. 効果の測定

 最後に知っておきたいのは,グリークラブアルバムが発売されたことで各団の愛唱曲にどんな変化があったか,である。具体的には,グリークラブアルバムに所収されている曲が発売の後でどれぐらい多く歌われるようになったか,前後での歌われる回数を比較し,可能であれば検定して有意差があるのかないのかを調べてみたい。

 結論から言うと,現時点ではデータ不足で何とも言えない。下の図で,東西四大学以外の4つの大学で,グリークラブアルバムに所収されている曲の歌われ方を比較した。

1959年の発売であり,1960年に少し増えているが,その後はどちらかといえば少なくなっている。むしろ「以前の曲集」が発売されたときのほうが多く歌われているぐらいで,ピークは1954年にある。現状では,グリークラブアルバムの効果は何とも言えない。

 ともかくデータ不足で,まだまだ多くの資料を集める必要がある。1960年頃になると各団のステージ曲は高度なものになり,愛唱曲の記述は更に少なくなる。前途は多難だが,もっとデータを集めてから分析に再チャレンジしたい。


(レパートリー編 以上)


 次からは各曲について分かっていることをまとめていく。

日本男声合唱史研究室

日本における男声合唱史の研究 Study on male chorus history in Japan 主として明治期から1980年頃までの,日本の男声合唱について資料調査したことを中心にアップしていく予定です。いわば,私家版の「日本男声合唱史」を作る試みです。 タイトルは思い切り気張ってみました(笑)。 2024年4月15日から「無料プラン」の仕様が変わるため,構成を組み替えました。

0コメント

  • 1000 / 1000