Albert Duhaupas “ MESSE SOLENNELLE”について

      「グリークラブアルバムの研究」


 当初は「グリークラブアルバムの研究 宗教曲編 Kyrie eleison デュオウパ作曲」として掲載の予定だったが,謎が多い作曲者とこのミサ曲について調べてるうちボリュームが多くなったため,独立項目を立てることにした。Duhaupasの日本語表記はデュオーパ,デュオパ,デュオウパなど様々あるが,ここでは資料引用部で原表記を用いる以外は,グリークラブアルバムの表記「デュオウパ」を用いる。


 むかし,1970年代初頭,私が高校合唱部の部室にあった雑誌「合唱サーク 1968年2月号」を読んでいると,福永陽一郎氏が「(デュオーパの男声合唱のためのミサ曲は)たいへんな名曲ですから,第一級の実力をお持ちの男声合唱団にはぜひおすすめしたいミサ曲です」とこのミサ曲を紹介されていた。バックナンバーを漁ると他の号でも何度か取り上げられていた。

 それ以来,どんな曲か気になっていたが,大学グリークラブ2回生の時に歌う機会に恵まれ,やや通俗的ではあるけれども,どのパートも存分に歌え,聴く側も飽きないだろうこの名曲を堪能することができた。このころ,1976年の定期演奏会で同志社グリークラブ,1977年には京都大学グリークラブ,そして東京大学音楽部コール・アカデミーが演奏(楽譜にはないオルガン伴奏付き),更に1979年の関西学院グリークラブ80周年記念演奏会では,北村協一の指揮により同グリークラブと新月会の合同で「本家」の演奏を堪能させてくれた。どうやらタイミングよく,このミサが多く演奏される時期にいあわせたらしい。


 この名曲を残したデュオウパについては「ほとんど何も分かっていない」が常套文句。グリークラブアルバムの解説には「19世紀後半にアラス大寺院のオルガニスト兼合唱指揮者だった人で,フランスの男声合唱団協議会の会長だったこともあります。このキリエが収録されている荘厳ミサは,そのオルフェオンのパリ大会のために作曲されたものです。」とあり,また1964/11/23の同志社グリークラブ創立60周年記念定期演奏会の解説で福永陽一郎は「この荘厳ミサ曲は,当時ローマの最高法院に出向中のオーヴェルニュ公に捧げられている」と記しているが,これが現在までに知られているほとんど全てである。

 この60年代の知識が引き継がれ,2001年に発売された関西学院グリークラブコレクション「MESSE SOLENNELLE」のCD解説(北村協一),2017/7/23の第21回東西四大学OB合唱連盟演奏会でクローバークラブを指揮した小久保大輔氏の解説にも引用されている*。

* おそらく世界で唯一のこのミサのCDである。また小久保氏は福永陽一郎氏のお孫さんで,デュオウパのもうひとつの作品についても言及されている(後述)。


 2018年現在,ネットの情報は膨大なものであり,19世紀の資料がデジタル化されそれが検索できるという1960年代とは全く異なる調査環境にある。デュオウパについて本当にこれ以上の情報がないのか,ここに記されていることが正しいのか調べていく時期であると考え,調査してみた。ちなみに私はフランス語もフランスの歴史もほとんど何も知らず,またキリスト教の知識も表面的なもので,Google先生に大活躍していただいた。

 まず,前述の情報は1964年にホッタ楽譜からでた楽譜の目次ページに記載されている(この楽譜については後述)。林雄一郎氏が所有されていたオリジナルスコアからの転載であろう。下図にこの写真と和訳を載せる。

 今まで言われていたことが概ね正しいことが分かる。ただし,後に述べるが「Directeur des Orpheonisies」は「フランスの男声合唱団協議会の会長」は間違いで,「アラスのオルフェオン(男声合唱団)の指揮者」という意味である。オルフェオンとは,一言で言うとフランスの国民的合唱運動のことで,説明しだすと長くなるのでこの研究の末尾に補足の形で述べたい。


 オーベルニュ公は古い人間には懐かしい言い方で,現在はドーヴェルニュとされているようだけど,ここはオーベルニュ公を使うことで問題ないだろう。しかし,「ローマの最高法院に出向中」は本当だろうか? なぜこの記述から「出向中」がでてくるのだろう?

 まず「ローマの最高法院」という言い方だが,バチカンの組織に日本語で最高法院とされているものはみあたらない。de Rote à Romeはローマカトリック教会にある3つの裁判所の1つで,日本語では「ローマ控訴院」と訳されており,その名の通り上訴を受理する裁判所である。また,裁判所の1つに使徒座署名院最高裁判所があるが,これも最高法院とは呼ばれない。ちなみに,「ローマ帝国支配下のユダヤにあった最高裁判権を持った宗教的・政治的自治組織」は日本語で最高法院と言われているが,当然これではない。

 オーベルニュ公はそこのAuditeur,つまり監査役であった,と読める。この部分は出向中というより,「モンシニョール(最高位聖職者)にしてローマ控訴院の監査員」という意味だろう。このことは,のちの考察で利用する。


 さて,デュオウパについて幾つか資料が検索できた。

  ①Biographie nationale des contemporains, éditée chez Glaeser et Cie  同時代国民伝

  ② Cyclopedia of Music and Musicians vol.1

  ③Almanach des orphéons et des sociétés instrumentales  1959年オルフェオンの記録

  ④MUSIQUES MAESTRO! une historie de la musique et de la danse en Pas-de Calais

    パ=ド=カレー県(アラスはこの件の県庁所在地)の音楽とダンスの歴史

  ⑤WorldCatの検索

 これらを元に彼の生涯を年表にまとめる。ポイントは図にまとめた。

Albert Dehaupas (1832-1890)

1832年4月26日アラスで生まれた。父親はアラス交響楽団の指揮者であり大聖堂のオルガン奏者,彼の才能に気づき音楽のレッスンを行った。その後カレーのドイツ人音楽家M. Neulandのもとでピアノと和声を学ぶ。

1849年 パリ音楽院に入学。

1851年 アラスに戻る。大聖堂のオルガニストと礼拝堂マスターを巧みにこなした。

1854年 アラスのオルフェオン協会により満場一致で指揮者に選任された。彼の知性とエネルギーのおかげで,アラスオルフェオン協会は多くのコンクールで水際立った演奏を披露し,賞を獲得した。

1859年 パリのオルフェオン大会に40名の団員とともに参加。

1861年 パリHeugel社より荘厳ミサの楽譜を出版。

1863年 アラス・オルフェオンが クレルモンのコンクールで優秀賞

1864年 ローマのTrinile-du-Mont教会(丘の上の三位一体教会)にフランスのオルガン奏者の代表として招待された。

1866年 アラス・オルフェオンが リエージュ国際コンクールで優賞(図参照)

1868年 アラス・オルフェオンが アムステルダムの国際コンクールで大賞

1870年 アラス・オルフェオンが モンスの国際コンクールで優賞。

1888年頃 多数の宗教曲を作曲,その多くはアラスアカデミーの金メダルを受賞。逐次出版の予定。

1890年死去。


 アラスの男声合唱団(オルフェオン)を率いるなかなか優れた指揮者だったようだ。1866年のリエージュ国際コンクールに優勝した時,アラスの街に凱旋する様子が新聞にイラスト付きで紹介されているが(下図右下),なかなか大層な感じで,当時国民運動であったオルフェオン活動の熱気を感じさせる。オルガン奏者としての腕前も高かったらしい。死亡年については1890年と1896年の2説あるが1860年の資料が2つあるのでこちらを採用した(ただしソースが同じかもしれない),1896年は,彼の女声三部合唱のためのミサNotre-Dame des Miraclesに記載されている(後述)。

 荘厳ミサ曲について,作曲年等を絞り込むため,楽譜に記載された de La Tour d’Auvergne について調べてみると,やっかいなことに,この時期アラスに二人の de La Tour d’Auvergne がいた。

 一人目は,Hugues-Robert-Jean-Charles de La Tour d’Auvergne (1768-1851)。1802年からアラスの司教を務め,大聖堂の修復等を行い,1846年には枢機卿に任命され,1851年にアラスで亡くなった。一般的にはこの人が有名で,詳細な解説ホームページやWikiの記事がある。ホームページにはDuhaupasに関する記述もある。

 二人目はCharles-Amable de La Tour d'Auvergne (1826-1879)。1849年から1856年までアラスの総督だった人で,その後1856年から1861年までde Rote à Romeを務めた。ローマ控訴院の監査役である。この人については,あまり情報がない。


 一人目のオーベルニュ公は,詳細に生涯が記録されているので,もし監査役を務めたなら詳細な生涯の記録に記載されているだろうから,彼ではない。年代的にみてもデュオウパがミサ曲を捧げたのは,二人目のオーベルニュ公シャルル・アマブルとして間違いないだろう。

 そうするとこのミサ曲は,シャルルが監査役であった1856-1861年に作曲されたことになる。もし1856年にアラスの総督と監査役を兼任する時期があったなら,この年に作曲された可能性がある。重複なかった場合は,1858年-1859年頃ではないか。WorldChatによれば楽譜は1861年にHeugelから出版されており*,また,1859年のオルフェオンパリ大会にデュオウパはアラス・オルフェオン40人と参加していることから,初演はこの時ではないかと思われるからだ*。

* 林雄一郎氏が入手した楽譜もこれだと思われる。

** 関西学院グリークラブコレクションのCDには「初演は1869年」とされているが,これらの資料から1859年だと思う。1861年に楽譜が出版されたのに初演が1869年は考えにくい。


 次にデュオウパの作品をまとめる。彼の作品について記述されているものをまとめた。どれが何曲かいまひとつはっきりしないので,フランス語原文とあわせて示す。分かる方教えてください。

Bによれば男声合唱のミサ曲はこれ1曲のようだが,オルフェオン向けに男声合唱曲はたくさん書いたらしい。アラスに楽譜は残っているだろうか?

 WebCatで調べると,現在どこかの図書館に楽譜が所蔵されている曲は7つある。赤字が荘厳ミサ曲で,フランス国立図書館にある。最下行のモテット集は大学図書館のアーカイブにある。また,Notre-Dame des Miraclesという女声三部合唱のミサ曲は,現在でも楽譜を入手できるデュオウパの唯一の曲。同声合唱とみなせば男声でも歌える。どこか入手し演奏してみませんか?

 デュオウパについて少し人間像がみえたところで,MESSE SOLENNELLEのO Saltaris,Domine Salvum,Pie Jesuの3曲について,私と同様「これはなんやろか?」と思っている人もおられるだろうから,調べたことをまとめておく。ほとんどは吉村恒編「宗教音楽対訳集成」の受け売り。

 トレント式典礼によるミサの式次第では,通常分の聖歌はKyrie,Gloria,Credo,Sanctus,Agnus Dei,Ite missa est (解散の言葉。「行きなさい,解散します」の意で,ミサの語源は2番めの単語)であるが,典礼の様式化と修道士の創作意欲が高まるにつれ,新作のテキストや旋律が挿入されるようになった。19世紀のフランス・カトリック協会ではローマ教会からの独立性を志向するガリア主義を標榜,独自の式文があり,O Saltaris hostia (ああ,救いなるいけにえ)を挿入し聖体賛美が長くなっているのはそのひとつ。デュオウパのミサ曲のように,ケルビーニ,グノーなどフランス式のミサ曲でSanctusのあとによく挿入される。トマス・アキナスの賛歌Verbum supernum (天上から出た御ことばよ)の最後の2節。


 一方, Domine Salvumは国王が列席するミサで最後に演奏されるモテットで, Domine, salvum fac regem (主よ,王に救いをなしてください)。ナポレオンが1804年に皇帝になるとregem(王に)が書き換えられ, Domine, salvum fac imperatorem nostrum Napoleonem (主よ,われらの皇帝ナポレオンに救いをなしてください)となった。失脚後の1814年からは元のregemに戻された。

 デュオウパのミサ曲は1956-1958年頃に作曲されたが, 歌詞はimperatorem nostrum Napoleonemがまだ使われている。こういう例は他にもあり,例えばグノーの聖チェチーリア荘厳ミサ曲は1855年の作曲だが,ナポレオン3世(在位1852-1870)のために, Napoleonemが使われていた。しかし,のちにDomine, salvum fac publicam nostram (主よ,我らの民衆に救いをなしてください)と書き換えられた*。デュオウパのミサ曲も,後世もっと歌われていたら書き換えられたかもしれない。

* 確認のため所有するSCHIRMER社の楽譜を見たら,アメリカの出版社のためかDomine Salvumは収録されていなかった。昔買ったLPではDomine, salvum fac Regem nostram (主よ,王に救いをなしてください)となっていた。

 Pie Jesu(情けふかい主イエス)は,主にフランス式のレクイエムでSanctusのあとに記念の祈りとして歌われた。ミサの中でPie Jesuが歌われることがあるのか,分かりません。なぜ含まれているのでしょうか?


 さて,本国フランスでは忘れ去られてしまったデュオウパのミサ曲,日本で最初に演奏したのは,やはりというかなんというか,関西学院グリークラブである。林雄一郎が入手しておられた楽譜により,戦後間もない1948年(昭和23年)1月の同グリークラブ第15回リサイタルにて,林慶治朗の指揮でKyrieが初演された(林慶治朗は林雄一郎の弟)。ついで,その年の10月に早くもCredoが初演された。「早くも」と書いたのは,知ってる方は同意いただけると思うが,Credoは歌いごたえあるけれど時間も長くかかる難曲で(関西学院のCDでは11分),後年東京コラリアーズがトライしたけどあまりうまく歌えなかったと福永陽一郎も述懐していた(と確かに読んだのだが,資料が見当たらない*)。終戦後3年で演奏できるとは,やはり関西学院は凄い。

* 2022/6/2追記
やっと見つけた。雑誌「合唱界」vol.4-no.11(昭和35年)に掲載された福永による「東京リーダーターフェルフェライン 第七回定期演奏会 評」の一部。

「デュオウパのミサ曲は,男声合唱のためのミサでは最も難かしいものの一つで,ことにクレドはアマチュアで演奏したところは,慶応のワグネルだけで,それも数年前歌うことはやつと歌ったけれど,見事に失敗したという記録しかない筈です。(東コラでも,うまくはうたえまんでした(原文ママ))」

 福永が昭和23年の関学の演奏を知らないのはしかたがない。「クレドはアマチュアで演奏したところは,慶応のワグネルだけ」について,これ以前の東西四大学・東京六大学・定期演奏会でクレドを演奏した記録がみあたらない。昭和31年の東西四大学で慶応ワグネルがこのミサのKyrie,Gloria, Agnus Deiを演奏したという記録しかない。

 指揮した学生指揮者は後に東京コラリアーズに入団しているので,もしかすると「練習したけどうまくいかなかったのでステージにはのせなかった」という話かもしれない。


 その後,このKyrieを自由曲(当時の言い方は随意曲)として第3回関西合唱コンクールで優勝,戦後始まった第1回全本合唱コンクールでも見事優勝する*。ちなみに,そのことを報じた「音楽の友」では「アルベルト=ドゥ=ハンパス曲『キリエ=エレイソン』」と表記されている。

 「関西学院グリークラブ80年史」によると,この時の演奏は「先輩8名,現役42名**」によるもので,更に「原音より1度下げて書き直して,練習し直した」「最後のベースの音は下ニ線のCであった」が先輩4名が「響かせてくださった」となっている。ベースに人材がいたため,コンクール向けにトップに原調のハイBを歌わせないようにしたのだろうか。編曲は林雄一郎氏がおこなった。グリークラブアルバムのKyrie eleisonには「編曲 林雄一郎」とクレジットされており,また曲名がKyrieではなくKyrie eleisonとなっており,前述した「音楽の友」の記述と整合するからである。

* この大会の主催が,全日本合唱連盟の公式記録にあるとおり「全日本合唱連盟」なのか,「日本合唱連盟」なのかはっきりしない。「関西学院グリークラブ80年史」や当時のパンフレットからすると「日本合唱連盟」が主催。実質的に同じ組織だから大問題ではないけど,ではなぜ全日本合唱連盟の創立年が「偽装」されているのか,仮説はあるが今後の研究課題。

** 当時の全国大会は50人に制限されていた。戦後間もなく地方から来る団に交通費を補助するため主催者側から補助が出ていたため。この制限のため,第1回のコンクールでは,東京大学音楽部コール・アカデミーが学生の部で1位と判定されながら1名オーバーのため失格した(関西学院はOBを加えたため一般の部に出場)。恐らく,ピアニストや指揮者を含むかどうかの解釈が違ったためだろう。「全日本合唱連盟20年史」記載の「全日本合唱コンクール基本規約(1965年5月8日制定)」では「指揮者,伴奏者,譜めくりは人数に加えない」とされている。30年史の「コンクール全国大会開催基準」では人数制限の項がなくなっている。

(2019/6/28追記)

この件について合唱連盟機関紙Harmony No.92の「合唱50年史 part1」の座談会で石丸寛は「ステージでピアノを動かしたり,いろいろ手伝ってた東大の学生が,どうしても歌いたくなって,歌っちゃった。五十名までということになっているのに五十一名になって,それで失格した」と述べておられる。

一方,「東京大学音楽部50年史」によれば「はじめは50名ピッタリだったんです。それで楽屋に動かないように言って待たしている間に一人無断で,ピアノを動かす手伝いに行っちゃったんです。そうして再度数えてみたら一人足りないんで,あわてて一名追加してステージに乗ったところが,さっきの人が戻ってきてそのまま歌ったんですよ。もう一回数えなきゃよかったんです(笑)」「判定には時間がかかったんですね。写真を現像したらしい。写真判定で失格しちゃったんです(一同笑)」

ということで,解釈ではなく,東京大学のシンプルなミスでした


 更に驚くことに,全国コンクールから2ヶ月後の1949年(昭和24年)1月23日,第16回リサイタルでは早くも全曲を演奏している*。これはDomine Salvum,Pie Jesuをまず演奏し,別のステージでKyrieからAgnus Deiまで歌ったもの(O Saltarisは歌われなかった。フランス式を避けた?)。敗戦からわずか4年後のことである。何度も言うが,ほんとに凄い。


*2019/6/28注
 2019/6/22の第68回東西四大学合唱演奏会にて,初演から70周年ということで,このミサが関西学院グリークラブにより演奏された(Kyrie, Gloria, Credo, Sanctus, O Salutaris, Agnus Dei)。プログラムによると,「2003年の演奏旅行でデュオパがオルガニストを務めたフランス・アラスの聖ニコラス教会で新月会と共に北村協一氏の指揮で演奏し,好評を博した」とのこと。

 関西学院の全曲演奏から2年後,1951年(昭和26年)11月3日第6回関西合唱コンクールで同志社グリークラブが日下部吉彦の指揮でKyrieを演奏した*。楽譜の出どころは関西学院以外にありえないので,全曲演奏した時の楽譜が渡されたのであろう(日本流布版とする)。U Bojが秘曲とされ「楽譜は厳重に管理されていた」のと比べ,拡散が早い。ミサ曲ということでキリスト教系の大学中心に秘することなく渡されたのか,秘曲にしておく時代ではないと考えたのか**。 その後,1950年台に慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団,立教大学グリークラブ,東京コラリアーズ等が演奏した。

* この時1位の関西学院グリークラブの指揮は松浦周吉,2位の京都大学男声合唱団は多田武彦,3位の同志社グリークラブが日下部吉彦と,その後の合唱界を牽引する才能が集まっていた。

** 関西学院グリークラブの全曲演奏から2年後に,同志社グリークラブに楽譜が渡っていることは興味深い。デュオウパとは直接の関係ではないが,日本男声合唱史では重要なところなので,長くなるが述べていく。

 というのは,福永は,関西学院と同志社はこの頃「犬猿の仲」だったと記しているからだ。1976年に発売されたグリークラブアルバムのLPのライナー・ノートから一部転記する。

「いっぽう関西では,1948年,戦後初の全日本合唱コンクールに,学生の部に同志社グリーを,一般の部に関西学院グリークラブ –OBを加えての参加であったため- を同時におくりだすほどに,大学合唱団の機能が回復していた。この両合唱団が並行して全日本合唱コンクールに出場するケースは3年ほど続いたが, 1951年,関西学院グリークラブがOBの応援を除外して学生の部に出ると同志社グリーはけ落とされ,以後,関学グリーが招待演奏などでコンクールの競合団体にならない場合以外,全日本にでるチャンスがまわってこなかった。しかも,全日本に出さえすれば,同志社グリーは第一位を獲得して,実力に遜色がないことを証明していたから,両者間のライヴァル意識はたいへんなもので,社交的な,あるいは事務的な場でさえ,お互いに同席することをいさぎよしとしないぐらいであった。」

 当時の合唱雑誌にも,ここまで体系的ではないけど,両者は仲が悪いという記述がある。デュオウパの楽譜を渡しているところからすると,そこまで仲が悪いとは思えない。確かに,福永の記述でも,その後のコンクールで同志社が「け落とされ」ため不仲になったとも読めるが,次のような話が「関西学院グリークラブ80年史」に記されている。後述のように1957年のコンクールで同志社に敗れた関西学院が翌1958年の関西合唱コンクールで雪辱を果たしたさい,祝賀会場に同志社グリーメンバーが現れ「優勝とはどんなものかを1回生に味あわせてほしい」と依頼,快諾した関西学院が同志社グリーのメンバーを受け入れ「なごやかに歓談した」とある。関西学院が全日本合唱コンクールに出発する日は「早朝にも関わらず大挙して見送りに来てくれた」ともある。この話は同志社側の部史には載っておらず,仲について実際のところは当事者に伺わないと分からないけれど,福永の書き方が過剰に思える。次の注でもうすこし詳しく考えてみる。

(2019/6/28追記)
 正確に書くと,「同志社グリークラブ80年史」にもこの話は出てくるが,「関西学院グリークラブ80年史」の引用で,同志社グリークラブ側からみてどうなのかが記されていない。

(2019/9/15追記)

「合唱サークル」vol4. no.4に福永は「昨年度(注:1968年度)に東西四大学の定期演奏会に4つともこのミサがプログラムに取り入れられるところだった」「同志社グリークラブでは,筆者が,それはあまりにみっともない,芸のない話ではないかと説得したので,グノーの『聖チェチリア・ミサ』の男声編曲版に差し替えられたけれども,”早慶関”はやった」「そして同志社グリーに思いとどまらせた筆者自身,西南学院グリークラブと,東京の”いらか音楽会”でこのデュオーパのミサを(昨年度に)指揮し演奏している」と記しており,「人気」ぶりが伺える。なお,1968年度に関西学院は演奏していない。福永の勘違い。


 合唱史的に重要なのは,1957年(昭和32年)の関西合唱コンクールで河原林昭良が指揮する同志社グリークラブがGloriaを演奏,関西学院グリークラブを破って全国大会へに出場したことである。。全国大会では審査員全員が1位をつける完全優勝を果たした。楽譜を渡した関西学院としては複雑な思いだったろう。この演奏はラジオ放送されたようで,満票一位という評判とあわせ,このミサ曲の知名度を上げた。河原林の述懐によれば*,この曲を推薦したのは福永陽一郎で,長時間議論しこの曲に決めたとのこと。難色を示す河原林に対し福永が「福永氏は過日の四大学の出来からみて今年の同志社ならこれくらいの曲で勝負すべき,絶対大丈夫,チャンスだ等強烈な押し」だとか**。

* https://blog.goo.ne.jp/tkdosgleeob1958/e/da33fcf3d89b10785d665cb9e2f3757a

** 福永がこの曲を強く勧めたのは,同時の状況からすると意味深である。同じく長くなるけど,述べていく。

 1957年時点で福永はまだ同志社の技術顧問に就任していなかったが,関西に来た際は同志社グリークラブをよく訪問していた。第2回の東西四大学の合同演奏で知り合い,また,福永らが指揮するプロ男声合唱団の東京コラリアーズが最初に京都で演奏会を開いた際,同志社グリークラブに主催してもらったなどの縁である。福永は,父親の福永盾雄が大正初期の関西学院グリークラブでバスパートを歌い,自身も1939年関西学院中等部に入学しグリークラブに在籍するなど,しいて言うならば「関学派」といえる。なぜ同志社に「チャンスだ」と「強烈に押し」たのだろう。先の「関西学院と同志社は仲が悪い」と書くことと関係あるのだろうか?

 別項目を立てて詳しくまとめないといけないけど,当時の関東の合唱界には関西学院グリークラブの演奏スタイルに批判的な人が存在した(清水脩,磯部 俶,のちに木下保,前田幸一郎など)。そのスタイルとは,再び福永のグリークラブアルバムの記述によれば「林雄一郎氏が確立した極致的完成度のアンサンブルは,長く他の追随を許さなかった。それはハーモニー最優先の,内容的表現をその最終目的とはしない,響鳴の調和のためには発声を去勢することを辞さないという方法」であった。ハーモニー最重視であったため,「トンネルの中のハーモニー」「壁を塗るような歌い方」「何を歌っても同じに聴こえる」など批判されたが,減点法のコンクールでは関西学院グリークラブの優位は揺るがなかった。清水脩は「関東では音楽をやってやろうという思いは強いが,頭でっかちで技術がついてこない」という表現をしているが,負け惜しみにも聞こえる。

 これら批判者たちの矛先は関西学院グリークラブに向けられ,彼らのスタイルが代り映えしないことに穏やかな言葉で文句をつけていたが,福永は関西学院グリークラブを擁護し,「そのスタイルがベストだとは思わないが,それは関西学院グリークラブの責任ではない」と述べた。関西学院グリークラブは,もちろん自分達でも変わろうとしていたけれど,おそらく福永は彼らが変わることよりも,彼らが犠牲にしている発声や音楽的表現をアンサンブルに載せた別の合唱団が関西学院グリークラブを打ち破ること,それが日本の合唱界が変わるために必要だと考えていたのだろう。

 さて,1957年の東西四大学を聴いた福永は「関学グリーは自ら持っている安定をくつがえそうとしているように見受けられる」と関西学院グリークラブが生まれ変わろうとしていという意見に同意している。そして,同志社グリークラブについては「今までは技術的にどうしても,関学グリーを上廻ることができなかった」が「完成は目前にあることを感じさせる」とし,演奏された多田武彦の「雪と花火」について「当日のうち一番心持ちよい『音楽』ではなかったか」としている。つまり,同志社グリークラブの水準が関西学院グリークラブに肉薄しつつあるとの認識を持っていた。これが河原林との会話での「チャンス」発言に繋がった。関西学院が次の方向を模索中という,いわば敵失によって勝つのではなく,同志社の成長により勝つことを促した。Gloriaを勧めたのは,その目的に適した選曲であり,決して「関西学院から貰った曲で関西学院に勝つ」という嫌味な意図ではなかっただろう。

 結果は,既に書いたように関西合唱コンクールで関西学院に勝ち,全日本では満票の一位であった。清水脩は「まず第一回以来これだけの立派な演奏をした大学はなかった」とし,磯部俶は「突然うまくなったのじゃなくて,毎年生まれていたものが,本当に熟しきったのではないか」と,両名とも若干の問題点を指摘しながらも絶賛に近い評価である。これに対し福永は,「今度のコンクールで音楽が技術をオーヴァすること,と,コンクールにおいても『音楽』が演奏され得るということが,実証されたことと信じる点において同志社グリーの優勝を喜ぶのである」と自らも関わったシナリオ通りの結果であったにしては,会場での演奏を聴けなかったためか,やや控えめな喜び方である。同時に「関学グリーは『日本一』の重圧から開放されて,今こそ『壁を破って前進』することができるであろう」と関西学院グリークラブにもエールを送る。なんとなく,関西学院グリークラブが負けたことに対する寂しささえ感じさせる文章で綴っている。

 これに比べると,1961年の関西合唱コンクールを聴いたあと福永が綴った「関西合唱界に警告する」(合唱界 vol.5 no.12 (1961))での怒りは凄まじい。同志社グリークラブ第70回定期演奏会にOBの方が載せた文を借りると「同志社より関学のほうがうまいというような答えを出す関西の合唱界は亡びるいうて雑誌に書かはって」であった。コンクールの場においても音楽が演奏され得ると考えていた福永にとって,この年の関西合唱コンクールは再びアンサンブル重視の採点に戻ったように映ったらしい。これに関し多田武彦が反論し清水脩も意見を述べ更に福永が反論するなど,面白い展開である。本当のところは分かりにくいのだけど,長くなったのでここではもう触れない。ただ,福永が述べる「関西学院と同志社が仲が悪い」は,ライバル意識の元確かにそういうこともあったのだろうけど,福永自身の「関西型合唱」への批判と,それへのアンチテーゼとしての同志社への期待が重畳されているように思う。

 さて,デュオウパのミサ曲にとって重要なのは1964年である。この年,福永は西南学院グリークラブと同志社グリークラブで全曲を演奏,さらにホッタガクフから「福永陽一郎編」の楽譜を出版した。福永にとって「デュオウパの年*」にしたわけだ。おそらく前年にそのことを決め,林雄一郎氏からスコアを借り演奏に向け研究したのだろう。日本流布版は「随分ミスプリントが多い」とされており,それを正した版を出す必要性も感じたのだろう(ミスプリントについては,「合唱サークル vol.2 no.2 (1967)」で中村良平という人が指摘している)。

* この言い方は,福永が1976年を「荻原英彦の合唱組曲『光る砂漠』の年にする」から借用した。「男声合唱用に編曲,混声版のレコード録音,部分的に合唱コンクールの自由曲として使用,男声版と混声版の両方をステージにかけようとしている」


 日本流布版と思われる楽譜と,ホッタガクフ版のKyrieの1ページ目を示す。日本流布版はグリークラブアルバム版と同じく,原調より全音低いハ短調で,ざっと眺めた限り大きくは違わない。デクレッシェンド等の記号が少し多めにつけられている。Kyrieについてはこれもグリークラブアルバム同様拍の目安がないが,Gloria以降には書かれている。

 対して,ホッタガクフ版は,ニ短調で練習記号とブレス記号がつけられている。また,Kyrieにも拍の目安(四分音符=58)が付けられている。また,日本流布版ではまずバリトンがリードしKyrie eleisonを3回歌うが,ホッタガクフ版では3回目はベースがリードしている(掲載見本では書き込みがあり白黒ではわかりづらいが)が,これはどちらがオリジナルなのか分からない*。林雄一郎が編曲修正したものか,福永陽一郎が修正したものか? おそらく見比べていくと,他にもあるのだろう。なお,現在はChorus Score Clubで楽譜を入手できるが,これはホッタガクフ版が底本のようである。

*2021/5/22追記
ある方のご好意でオリジナルスコアのコピーを頂いた。ホッタガクフ版と同じく「3回目はベースがリード」しており,日本流布版(そしてグリークラブアルバム掲載版は)林雄一郎の編曲により「バリトンがリードしKyrie eleisonを3回歌う」に変更されたことがわかった。


 この出版以降多くの合唱団で取り上げられたことと思うが,それはとても追いきれないので,最後に2つ関連する小ネタを紹介する。

 一つ目は,日本以外の団体によるデュオウパの演奏。MESSE SOLENNELLEのGloriaが歌われている。

https://talkmusic.site/talkmusic/v67lth6ChQ0/ps-pria-kab-poso-prov-sul-teng-pesparawi-2018

インドネシアの合唱団らしいが,12分40秒頃から演奏される。楽譜をどのように入手したか気になるところ。現地の日本人男声合唱団経由の可能性もある。


 二つ目はデュオウパ家について。調査した限りではデュオウパが結婚したのか子供がいたのか等は不明。しかし,デュオウパ家はアラスの街に代々住んでいたようで,系図が検索できる。

https://gw.geneanet.org/mousse79?lang=fr&n=duhaupas&oc=0&p=albert+ernest+victor

残念ながら我々が知りたいデュオウパの系列ではないようだが,親戚ではあっただろう。ご本人もこんな風貌だったかもしれない。

(以上)






日本男声合唱史研究室

日本における男声合唱史の研究 Study on male chorus history in Japan 主として明治期から1980年頃までの,日本の男声合唱について資料調査したことを中心にアップしていく予定です。いわば,私家版の「日本男声合唱史」を作る試みです。 タイトルは思い切り気張ってみました(笑)。 2024年4月15日から「無料プラン」の仕様が変わるため,構成を組み替えました。

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