グリークラブアルバムの研究 諧謔曲編
10. 権兵衛が種まく
作詩 河原馨風
黒人霊歌
「権兵衛が種まく」については,既に研究成果をまとめている。ブログにもあるが,ホームページの方は情報をアップデートしているので,詳しくはこちらを参照下さい。
https://male-chorus-history.amebaownd.com/posts/1576647
[前回研究のまとめ]
・歌詞は,中部地方民謡「種まき権兵衛」,または1773年に江戸は目白台の某寺で催された宝合せの会の記文が歌詞の起源
・明治初期に東京庶民の間に,この歌詞によるズンベラ節が流行した。昭和に入ってから藤原義江がSPにするなど,それなりに歌われたらしい
・京都十字屋楽器店から1915年(大正4年)に河原馨風編作として,この歌詞が違う形で採用され,「権兵衛と田吾作」が出版された。
・この原曲は黒人霊歌WHO DIDである。
・河原馨風は同志社か関西学院グリーの学生ではないかと思われるが,不明。
長く休んだかいがあり,幸い河原が1915年(大正4年)に出版した楽譜を入手,研究が進んだので,今回はそれについてまとめる。
まず,楽譜のタイトルは「コスモス」であり,これは伴奏付き独唱曲である。この曲について河原は「自分が歌いたいあまり感じたままを曲にのせてみました」と記しており,ピアノ付歌曲を作曲できる人だったようだ。(以下,旧仮名遣いは現代風に改めて記す)
二曲目が「権兵衛と田吾作」で,楽譜は「Melody in 2nd Tenor」と記されていることと,「ゴンベがたねまく ゴンベがパーラパラパラパラパラ」の繰り返しが2回と短くなっている事以外は,WHO DIDそのままである。つまり,オリオンコールのSP収録時に収録時間の関係で短くなったのでは,と前稿で推測したがそれは間違いで,当初から2回(WHO DIDは3回)だった。この理由は定かではないが,河原は「既にニ三回公演し可なり歓迎を受けました。」と記しており,演奏時の感想またし歌い手側からの意見として「3回の繰り返しは多い」と意見が出た可能性がある。
また,この曲を作った動機として「学生間に社交的団体音楽が盛んに起こらんことを希望」しているが「従来の日本音楽殊に声楽においては調和(ハーモニー)ある団体音楽を求めることができ」ないため,「先ず通俗的な面白みのある唄をとって試作したのがこの歌」であるとしている。
「通俗的な面白み」を頭に入れ,前稿で最大の謎だった河原馨風(「きょうふう」または「けいふう」)について判明したことを記す。楽譜には「編者 河原五郎」とあり,京都市の住所が記載されている(念のため黒塗りしました)。当時の京都の男声合唱関係者と言えば,頼れるものは「同志社グリークラブ30年史」。探してみると,そこに河原五郎の名前が書かれていた!
平田甫「有史前のグリークラブ 明治四十四年-大正ニ年」に,「クラブの中心はどうしても神学生であった関係から,いつとはなしに部員の井上美憲氏,川中忠治氏等が集まって河原五郎氏や柳島彦作氏と団体を作り主に聖歌以外の歌を歌い始めた,そしてプリムローズバンドと言っておった」。
当時の同志社グリーはその成り立ちから神学生が多くレパートリーがキリスト教の聖歌中心だったため,それ以外の世俗曲も歌う団体としてプリムローズバンド(後にプリムローズクラブ*)が組織され,河原はそのメンバーだった。大正2年の全同志社演奏会ではメンデルスゾーン「春夜の夢」を二部合唱しており,音楽的素養のある人だったらしい。「通俗的な面白み」を求めることからすると,クリスチャンではなかったかもしれない。
* 「同志社大学マンドリンクラブとSMD会のあゆみ」にはプリムローズクラブの記述がある(http://www.smd-kai.org/nenpu/n1910-14.html)。少し長いが引用する。
プリムローズクラブは比較的早く解散し,部史を残していないため,断片的なことしか分からない。
「グリークラブのなかに、聖歌以外のものも歌いたいという希望から、「プリムローズバンド」が結成される。これは、ほどなく「プリムローズソサエティ」と呼ばれるようになった。プリムローズという名称は、『桜草のことで、その昔イギリスの国会で活躍した上院議員のビーコンスフィルド卿が、議政壇に立つとき常に上衣のフラワーホールにプリムローズの花を挿していたと言う故事来歴によるものであった』(西邨辰三郎)という。
創立者の一人である柳島彦作は次のように述べている。『大正2年頃かと思うが、学生生活をもっと潤いのあるものにしたいというので、或夜東門前町にあった三輪源造氏宅の二階で原忠雄氏、川中忠治氏、平田甫氏に小生が集まり相談した結果、宗教的なものに限らずもっと自由な範囲の合唱団を作ろうという事になり、プリムローズが創立された。最初の部員は井上美憲氏、河原五郎氏、平田甫氏に小生であった』「Who are we」
河原についてもう少し調べてみる。謝辞にあるように,彼は東京の出身のようで,幼稚園の頃に(明治30年代か)唱歌を習ったと記されており,そこそこ裕福な家庭だったと思われる。「河原五郎」でネット検索すると「河原五郎著 『河原徳立翁小伝』」があり,この著者が彼の可能性がある*。
河原徳立は,コトバンクによれば1845*-1914 明治時代の窯業家。弘化(こうか)元年(1845年)12月3日生まれで,明治5年(1872)ウィーン万博事務局御用掛をつとめ,明治9年絵付工場の瓢池園を設立して花瓶,香炉などの製品を輸出,内外の博覧会,共進会にも出品し,大正3年(1914年)8月28日死去した。
河原五郎は,名の通り徳立の五男として生まれた。徳立は東京に住んでいたが,明治36年(1903年)に家督を長男に譲り,京都に引っ越した。五郎は大正2年(1913年)に大学生だったから,生年は1893年頃であろう。幼少期を東京で過ごし,父の京都移動に伴い10歳頃京都に移り,同志社に進んだのであろう。小伝を読む限り,河原家はキリスト教徒ではなく,それがプリムローズクラブへと繋がるのだろう。徳立には五男二女がいたが,子どもたちの進路には干渉せず,五郎は「教育会に身を投ぜり」とある。執筆時(昭和4年)には福岡第一実業専修学校に勤務していた。
* 「河原徳立翁小伝」は九州大学学術芸術リポジトリで読むことができる。
五郎は,幼少期に東京で「種まき権兵衛(ズンベラ節)」を聴いており,それがこの曲のヒントになったのかもしれない。この歌は前回示したように楽譜が何種類も出ており,また,下記の替え歌も作られたが,これは西南戦争(明治10年(1877年))を歌っているようだ。桐野は桐野利秋であろう。
暴動がはぜだしや 官軍がくりだす
西郷に桐野は 手筈が間違い
軍勢等(ぐんぜら) ぐんぜら
明治9年には木版刷もあったらしい。(この項,添田唖然坊「流行歌・明治大正史」による)
11. 源兵衛さんの赤ちゃん
作詩 不詳
アメリカ民謡
編曲 林慶治朗
アメリカ民謡とされているが,曲はジョージア・マーチ。男声合唱に編曲したのは関西学院グリークラブの指揮者を務めた林慶治朗(林雄一郎氏の弟)とされており,同クラブの部史に昭和24年(1949年)の初演が記されている。
ここまではむつかしくないが,問題は歌詩。下記のようにたわいないもので,誰もが知ってる「権兵衛さんの赤ちゃん」と似ているが,あちらはリパブリック讃歌の替え歌である*。
源兵衛さんの赤ちゃんが 風邪ひいた
お医者があわてて とんで来た
それでもなおらぬ 赤ちゃんは
なかなか 泣きやまない
オギャーオギャー よくないね
オギャーオギャー うるさいね
それでもなおらぬ 赤ちゃんは
なかなか 泣きやまない
有馬敲「時代を生きる 替歌・考」では,この歌詞もリパブリック讃歌にのせて歌われたとしているが,そうだろうか?
確かに歌うことはできるけど,ジョージア・マーチの方がピッタリはまっている。また,いくら探しても「源兵衛さん」の歌詞が合唱曲以外で歌われた例を見つけることができない。
関学グリーの前年,昭和23年(1948年)に,早稲田大学グリークラブが愛唱曲として「源兵衛さんの赤ちゃん」を記載しているのが,調べた範囲で初出。なにかの曲集に載っていたのだろうか?
世の中にジョージア・マーチが知られていなかったわけではない。,明治期には「ますら武夫」なる題の軍歌が歌われ,また救世軍が街頭宣伝で演奏しており,メロディーは知られていた。更に,のちに演歌師となる「添田さつき」が演歌師である父「添田唖蝉坊」と「東京節」「平和節」を共作し,大正7-8年頃に大流行した**。
リパブリック賛歌にあれほど多くの替え歌があることからすれば,「源兵衛さんの赤ちゃん」も記録があってもよさそうだが。
* リパブリック賛歌も,原曲は賛美歌「Say, Brothers, Will You Meet Us (おお,兄弟たちよ,我らに会わないか)」。これが「John Brown's Body (ジョン・ブラウンの死体)」という替え歌になり,それに更に「リパブリック賛歌」の詞が付いた。
そして,「John Brown's Body」には「John Brown's Baby」なる替え歌があった。
John Brown's baby got a cold upon his chest,
John Brown's baby got a cold upon his chest,
John Brown's baby got a cold upon his chest,
So they rubbed it with camphorated oil.
「ジョン・ブラウンの赤ちゃんが風邪ひいたので,樟脳油をすり込んだ」
まんま,「権兵衛さんの赤ちゃん」。日本でできた替え歌だと思っていたら,米国に原曲があったわけで,いつ頃誰が訳したのだろうか(この注釈はCD「おたまじゃくしと権兵衛さんのすべて」の解説による)
** この歌は今聴いても樂しい。例えばhttps://www.youtube.com/watch?v=flKG0-wYzFg
特徴的なことばは二番に出てくる「オペチョ」で,流れからすると「おへそ」のようだが,どこか使われる地域があるのだろうか? あればその地域で歌われたとなるのだが,これもはっきりしない(幼児語または女性器の呼称という例はあるのだが。。)。
この稿を読まれた方で,「この歌詞をジョージア・マーチで歌ったことがある」という方がおられたら,ぜひご一報下さい。
なお,関西学院グリークラブの部史を読むと,林兄弟が英語の歌に原曲と関係ない歌詩をあてた例がある。明治的に言えば作歌,現代風に言えばメロ先である。
まず,昭和16年(1941年)に黒人霊歌「Keep in the Middle of the Road」が林英太郎(林雄一郎の弟)により「桃太郎」と作歌された。日米関係が悪化するなか,英語で歌うことができなくなり,日本語訳をはめたものである。関西学院グリークラブも「関西学院報国団文化部音楽科合唱班」と改名されていた。曲はMarshall Bartholomewの編曲でエール大学グリークラブが愛唱した版。最近は聴かないが,昭和20年台は関西学院や早稲田大学がよく歌っていた。
[桃太郎]
むかし むかしの お話 しましょうか
お山へ芝刈り おじいさま
川でじゃぶじゃぶ お洗濯 おばあさま
ところへドンブラ モモが 流れてくるのを 拾い上げ
(以下略)
ついで,敗戦後の昭和21年(1946年),林雄一郎がThe Battle of Jerichoに下記のような歌詩をはめ,「かがし」として歌った。
[かがし]
おかしな顔したかがし,とぼけているのか,かがし,お空は青い(以下略)
英語で歌うことが問題ない時代だが,「軽快なテンポの曲想によくあい,しかもうたいやすく」と作歌したのだろう。これもMarshall Bartholomewの編曲で,昭和20年台に「かがし」として何度か歌われている。
そして昭和24年(1949年) 林慶治朗編曲のジョージア・マーチ「源兵衛さんのあかちゃん」となる訳だが,果たして成立の経緯はいかに? 早稲田の愛唱曲とどんな関係なのか?
12. あぶないぞ
作詩 飯田忠純
作曲 ギルミュネル
原曲はKarl Friedrich Julius Girschner(1794-1860)作曲の「Hüte dich!」。いわゆるLiederschatzに収録されている。作曲者のことはほとんど分からない。ネット検索すると「Hüte dich!」にはOp.34-no.4と記されており,男声合唱曲集の4曲目らしいが,これ以外の作品はみつからない。
ドイツ語歌詩とGoogle翻訳を列記する。飯田の日本語訳はドイツ語をうまく日本語に置き換えている。
Hüte dich!
Ich weiss Mädchen hübsch und fein!
es kann wohl falsch und freundlich sein
Hüte dich! nimm dich in Acht, nimm dich in Acht
sie narret, narret, narret dich,
vertau' ihr nicht, nimm dich in Acht, sie narret dich!
注意してください!
私は女の子がかなりきれいであることを知っている!
それは間違って友好的なことができます
注意してください! 注意してください
彼女は愚か者、愚か者、あなたを欺く、
それを信じないで、気をつけて、それはあなたを欺く!
女の子をからかう他愛も無い詩で,「ローレライ」の稿で参照したように,当時のドイツ男性合唱が「歌いやすさと聴きやすさを優先していた」,つまり「内容は原則的に世俗的で,素人でも歌えるような楽しげな歌」である。
グリークラブアルバムでは,大塚淳「男声四重唱曲集」に載せられた飯田訳詞の版を採用している。これ以外に高橋伸夫作詞「君に」があるが,「姿麗しき 君に 花も咲き沿いつ」と公序良俗を意識したのか「高尚な」歌詩になっている。
13. 鉄道開通
作詩 吉丸一昌
作曲 マルミュネル (マルシュネル)
古い版では「マルミュネル」となっているが,「マルシュネル」の誤植で,ドイツの作曲家Heinrich August Marschner (1795-1861)のこと。Ständchenを作曲したマルシュネルとは別人(こちらはAdolf Eduard Marschner,Heinrichの甥)。現役時代はメンデルスゾーンやシューマンと同等以上に活躍したが,ワーグナーの影に隠れ,ほぼ忘れ去られたらしい。LiederschatzにはLiedesfreiheit(自由の歌)という男声合唱曲も収録されているが,どれぐらい男声合唱曲を書いたのか不明(2018/8/17・18追記 参照)。
原曲をさがす手がかりは,作詩した吉丸一昌にある。あとでもう少し詳しく述べるが,東京帝大国文科を卒業,東京音楽学校の教授として明治の終わりから大正にかけ,主として作詩の分野で活躍した人。「鉄道開通」は大正10年(1921年)の「新作唱歌 第10集」に収録されている。幸い,昭和3年(1928年)に京文社からでた「合輯 新作唱歌」という合本を入手し楽譜にあたることができた(下図)。
ここから「作曲はドイツ人マルシュネル」「原題はTunnel Festlied」であることがわかった。また,同じ曲が昭和27年(1952年)発行の「津川主一・秋山日出夫・共編 男声合唱曲集」に「汽車ポッポ」として収められている*。「元詞は『Come Boys Drink and Merry Be』で朗らかな元気な曲である」と英語楽譜があることを記しており,日本へはドイツ語(原曲)と英語の2つのルートで入ってきたらしい。
* 「作詩は不明」とされており,手書きコピー譜が出回っていたかもしれない。秋山は後に出した「男声合唱曲集」にもこの曲を収録したが,その時は「吉丸一昌作詩」と正しく記している。
この2つをヒントに原曲を探し見つけた最も古い楽譜は,スイスの作曲家で民謡の編集と出版を手掛けたIgnaz Heimが1884年に出版した「Sammlung von Volksgesängen für den Männerchor」(男性合唱団のための民謡集)に収められていた 「Brüder, laßt uns lustig sein!」(兄弟よ,楽しもうぜ!)であった。
英語訳「Come Boys Drink and Merry Be」と一致する歌詞である。英語による演奏が1866年12月29日にあったという記録もあり,その頃には英国出版されていたかもしれない(確認できた最古の英語は1890年の出版)。 共にMarschnerの死後20年以上たっているので,それ以前にも出版されたのだろう。彼がいつ頃作曲したかは不明(2018/8/18追記 参照)。
歌詞を訳してみると,これは「酒飲み歌」であり,実際タイトルをTrinkliedとする楽譜もある*。では吉丸が記したTunnel Festliedとは何か? 直訳すると「トンネル祝祭歌」だが意味が通らない。ドイツ語男声合唱曲リストではFestlieder (Festgesang)の項目にこの曲はなく,Gesellige und Trinklied (社交的な酒飲み歌)に分類されている。
* Marschnerには,オペラ「バンパイヤ」に「Trinklied」という男声四重唱曲がある。一般にはこちらが有名。
大学の頃お世話になった(少しだけ),「木村・相良 独和辞典」を参照すると,Tunnelには「地階にある料理屋」の訳があり,これからすると「地下の酒場で酒を飲んで大騒ぎ」的なタイトルのようである*。ちなみに,festは形容詞とすると「ぎっしりと」という意味があり,「地下の酒場でぎっしりと大騒ぎ」のようなシャレがあるのかもしれない(多分,考え過ぎ)。
* よくわからないのでドイツ語に詳しい人,教えてください。
なお「Brüder, laßt uns lustig sein!」の詩は,ポーランド生まれの詩人Johann Christian Günther (1695-1723)の詩Trinkliedを元に,チェコ生まれの詩人Karl Herloßsohn(1804-1849)が書いたもの。歌いやすく言葉も減らし簡略化されている。
この曲を「鉄道開通」とした吉丸一昌は,東京帝大を出た人だから,ドイツ語を読めなかったとは思えない*。Tunnelとあるから鉄道を想起したわけではあるまい(実は,私は最初そう思った)。なぜ,「酒飲み歌」ではなく,「鉄道開通」という歌詞を作歌したのか,そこのところは分からないけど**,この歌詞を当てて歌うと,もはや「鉄道開通」としか思えない見事な作歌である。下記掛け声部分の置き換えも実におもしろい。
吉丸はこの他,Schubertのドイツ・ミサ曲のSanctusに「若松懐古」と会津飯盛山を主題とした作歌を行い,大正から戦前に広く歌われた。また,本居長世の試作歌劇に「あざけり」というとを提供しているが,おそらく初めての邦人による男声四部合唱曲である。
* 吉丸一昌については,詳細な研究がある http://rasensuisha.cocolog-nifty.com/kingetsureikou/cat59377156/index.html
** 唱歌を子どもの歌とするなら,酒飲み歌は不適切だろう。吉丸自身は酒好きで,小松耕輔は「彼(よしまる)は性質極めて磊落(注 気が大きく朗らかで、小さいことにこだわらない)で,邊幅(注 みなり)をかざらず,奇行もまた多かった。酒は彼の最も好むところで,酔うと忽ち蹌々踉々(注 よろめき歩くさま)として『シューラ,シューラ,シュラ男』と歌いながら踊り出すのである」としている。
日本での演奏は,大正7年(1918年)に慶應義塾ワグネル・ソサエティー男声合唱団が「タンネル・フェストリード」と恐らくドイツ語で歌ったのが最初。吉丸訳の「鉄道開通」は大正14年(1925年)に関西学院グリークラブが歌った。
グリークラブアルバムには,おそらく関学が使ってきた楽譜が使用されているが,冒頭の一節が吉丸の詩は「汽車ちふものが あれか」に対し,グリークラブアルバムでは「きしゃちゅうものは あれか」と,「が」が「は」に変更されている。
これがミスプリなのか,発声上の都合なのか分からない。国語の原則として「当事者に新しい情報は『が』,既に知っている情報であれば『は』を使う」からすると,汽車を初めて見た驚きをあらわすなら「が」の方が適切で,さすが吉丸一昌である。
(2018/8/17追記)
その後の調査で,少なくとも3曲が含まれるop.46,6曲からなるOp.52の存在が分かった。
Tunnel Festliedはop.46の1曲としている資料もあり,引き続き調べていく。
(2018/8/18追記)
追加調査の結果,Tunnel-Festliedは彼の男声合唱曲集「Tafelgesänge für Männerstimmen」op.46の1曲めであることがわかった(下図)。第2曲Serenade (セレナーデ),第3曲Freude (歓び),第4曲Sängers Gruss (歌手の挨拶)。楽譜表紙に1830と手書きされており,そのころの作曲・出版らしい(次の作品47「6 Lieder für eine Bass-oder Baritonstimme mit Pfte」は1829年に出版されている)。
男声合唱曲についてはこのop.46以外に, 「Sechs Gesänge」Op.52 (1829年出版), 「 6 Lieder für 4 Männerstimmen.」Op.66 (1831年出版),死後の1870年に出版された「Das Testament (遺言)」などがある(無番としているものと,op.93-1とするものがある)。
(2018/9/22追記)
注でも紹介した吉丸一昌の研究ページに「吉丸・高野の作詞一覧_東京音楽学校の音楽会」が掲載されており,それによると「鉄道開通」の初演は1915年(大正4年)6月4日~9日,東京音楽学校 学友会春季演奏旅行 (若松・新潟・高田・上田・甲府)で行われている。
http://blog.livedoor.jp/kiichirou_sakiyama/archives/1037614231.html
(2018/11/15追記)
Volksliederbuch für Männerchor (C. F. Peters)は,ドイツ皇帝ウィルヘルム二世のお声掛りで編集されたドイツの男声合唱曲集で初版は1906年。関西学院の林雄一郎氏も昭和初期に購入され,「この610曲の合唱曲を通して,彼は男声合唱の『かたち』を理解した」とされているおり,このTunnel-Festliedも収録されている。おもしろことに脚注がある(写真はTenor Iのみのパート譜のもの。今では合唱は総譜が当たり前だが,分厚い曲集ではこのようなパート譜も結構あった)。
Tunnel (an der Pleisse) ist der Name einer heitern Gesellschaft in Leipzig.
直訳すると「Tunnel(プライス川上の)はライプツィヒの陽気な集団のこと」とある。更に検索するとドイツ語wikiにこの集団の解説があった。
「『プライス川上の トンネル』はライプツィヒのソーシャルクラブの名前で,野党の芸術家,出版社,科学者,商人の会合やディスカッションラウンドのための」集いであり,「この協会は,1828年3月,ライプツィヒで数年間活動していた作曲家のHeinrich Marschnerと演劇評論家Friedrich Gleichの提案で設立されました」そして「ミーティングでは,参加者は詩や歌,いわゆる「チップ」の形で自分の貢献をしました。 その例としてはMarschnerの Tunnellieder opus 46がある」。つまり,Marschner自身が設立した団体であり,そのための歌を作ったということだった。そして「プライス川上の トンネル」とは「風変わりな名前は,1825年に始まったプライス川の 下のトンネルを冗談に表しており,ベルリンの文学会であるTunnel über der Spreeに似ていた 」
残念ながら,木村・相良の辞書にあった「地下の居酒屋」ではなく,本当にトンネルの意味でした。作曲者名の横に1828とあり,作曲年は1828年ということのようで,「プライス川上の トンネル」創立年,もしかするとオープニング・セレモニーで歌われたのかもしれない。
日本語訳は吉丸のものしかないかと思っていたが,その後2つの訳を見出した。
まず,昭和11年(1936年)10月8日のオリオン・コール(この頃はルナ・オリオンコールと名乗っていた)がラジオ放送で,「トンネル祭の歌 トンネル開通祝の歌」を歌った。
スコップ持つ手に盃を おい兄弟嬉しいじゃないか なみなみと注いでくれ
粋な小唄を口ずさみ おい兄弟唄おうじゃないか 万事OKなんだぜ
原詩が活かされているところもあるが,トンネルに引っ張られ,訳詞者は分からない。団長の吉田は医師だからドイツ語に手慣れていたはず。
次に昭和27年(1952年)に春秋楽譜出版社から出た「東京放送合唱団編 世界合唱曲集 第4集 男声編」に収録された「唄わん朗らかに」。古関 吉雄の訳ではなく作詞。「一日の歌」と題し,序章,朝の挨拶,子守唄など全6曲で構成した3曲め。
輝かに空澄みて あこがれ飛ぶよ高く 若き日の幸うたわん朗らかに
NHKらしく健全な歌になっている。
14. ユーピーディー
作詩 緒園凉子
作曲 不詳
「ユーピーディー」は,男声合唱曲の生演奏は聴いたことないが,日本では「ユッパイディ」の名のほうが知られているようで,児童合唱では現在も歌われているらしい。19世紀のドイツ学生歌「Studio auf einer Reis’ (Students travelling)」がアメリカに伝わり,別の歌詞がつけられ「The Upidee Song」(ユッパイディ・ソング)として歌われていた。南北戦争時代(186—1865)には南軍のテーマソングのように歌われたらしい。
原曲のドイツ学生歌は「お金がなくても人生を楽しむ」というような歌詞で(譜例参照),ポーランド南部の都市Glogau(グゥオグフ)の医師だったGustav Weber (1824-1908)が作詩,シレジア地方(現在のポーランド南西部からチェコ北東部)の地方裁判所の裁判官だったRichard Schäffler (1823-1886)が作曲,1884年に出版されたLiederbuch für die Deutschen in Österreichに収録されたとある*。
学生歌であり,作詞者・作曲者の生年が近いことから,彼らが大学生の1845年ごろに作詩・作曲されたと思われる。1884年の出版では1865年に終了した南北戦争に間に合わなので,その前にも出版されたか,または,楽譜ではなく誰かが口伝えでアメリカにメロディーを持ち込んだのかもしれない。
私は後者ではないかと思っている。それはUpideeとStudio auf einer Reis’はメロデイーが微妙に異なる部分があるため。また,そもそUpideeというタイトルは,原曲の歌詞「Studio auf einer Reis’, juppheidi, juppheida」,演奏を聴くと「ユッハイディ,ユッハイダ」と聴こえる部分が「Upidee,Upida」となっているためで,これは耳コピした歌詞に適当な(英語的に歌いやすい)ツヅリをあてたように思える。
* 原文では出版は1823年とあるが,二人の生年以前である。書籍名を検索すると1884年の出版とされている。
さて,アメリカに伝わった後のことは,英米文学を専攻される澤入要仁立教大学教授の詳細な研究「ユーモアの機能 -南北戦争の歌『あの喇叭卒』と兵 士たち-」*を参照する。論文によれば初期のUpideeの楽譜として
Wistar Stevens「College Song Book -A collection of American College Songs-」(Boston: Russel & Tolman, 1859)
H.G. Spaulding編曲「Upidee: College Song and Chorus」(Boston: Oliver Diston and Company, 1859)
があげられている。幸い両者ともネットで参照でき,比べたところ同じものである(下図)。
* 澤入要仁 国際文化研究科論集,(20),29-43 (2012-12-20) 東北大学機関リポジトリTOURから参照できる。沢入教授の関心はUpideeを元に1862-3年に軍隊の曹長だったAlfred George Knight(1819-1870)がUpideeに作詩,Armand Edward Blackmar(1826-1888)が作曲(編曲),1866年に出版された「The Bugler (あの喇叭卒) or the Upidee」にある。
澤入は前者のUpideeに付けられた注から,この曲の歌詞は流動的で「時と場合に応じて,特定の同級生を揶揄したり,特定の教員を皮肉ったりした歌だった」と述べている。注には「ハーヴァードの学生以外には興味が持てないものなっている。それゆえ,ロングフェローのイクセルシオの有名な数連が,この歌のソロの部分に挿入されている」とも記されている。
つまり,歌い出しの歌詩はイクセルシオを用い,その後は様々な歌詩を自由に歌う(The Buglerも含めて)がUpideeの様式だった,ということ。
様式という意味では,歌詞部分はソロが歌いUpidee部分をコーラスにする,これもStudio auf einer Reis’の型式が踏襲されている。下図のハーバード大とエール大学の歌集(1859年および1889年)では,歌詞は異なるが型式は踏襲されている。
日本にも比較的早くUpideeが入ってきたようで,1903年(明治36年)に発行された「教科統合 少年唱歌」(納所弁次郎,田村虎蔵 共編 十字屋発行)の第2編第5曲に旗野士良作詞(作歌)の「我国」として載せられている*。
* http://www.geocities.jp/saitohmoto/hobby/music/shounen/shounen.html#205
合唱としては,1913年(大正2年)に同志社グリークラブが「ユッパイディ」として,関西学院グリークラブが1919年(大正8年)に「Upidee」として演奏している。エール大学のYale Songs (1889)は,Upideeと「権兵衛と田吾作」の原曲「Who Did」が共に収録されており**,同志社グリークラブではこの歌集が使用されたのかもしれない。「ユッパイディ」と発音が正確なのは,米国人(牧師)仕込みを思わせる。
** 「権兵衛と田吾作」については下記参照。
https://male-chorus-history.amebaownd.com/posts/1576647
https://ameblo.jp/tonotono-57-oboegaki/entry-12216236767.html
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