グリークラブアルバムの研究 各曲編 宗教曲編

15. Kyrie eleison (キリエ・エレイソン)

典礼文

作曲 デュオウパ

編曲 林雄一郎


 この曲については,別に研究成果をまとめた。

16. Agnus Dei (アニュス デイ)

典礼文

作曲 グノー

編曲 林雄一郎


 私事だけど,この曲は大学で男声合唱を始め最初に歌った宗教曲。夏合宿に参加されたOB指揮者に1曲振っていただくことになり歌ったのだが,初心者でも初見で歌詞が付けられ,清らかな音の流れに浸ることができた。最初の和音を鳴らすとあとは音を追いやすく,臨時記号の音も自然に,必然性ある流れで取ることができる。後に混声で「聖チェチーリア荘厳ミサ曲」を歌った際も,音が取りやすく発声的にも歌いやすく,しかも感動的な音楽である点に感心した。とても多作な人だったけど,音楽の基礎がしっかりしており,また合唱を指揮したことが,この歌いやすさにつながっているのだろうか。

 グノーについては,デュオウパと異なり日本語で読める資料がたくさんあり,また,オルフェオンの指揮者をつとめた(1852-1860)ことなどは既に書いたので,そのあたりは省略。イタリア留学時代(1839-1842)にパレストリーナを中心にポリフォニーを勉強したは知られているが,ある資料によればそれはメンデルスゾーンの姉ファニー・メンデルスゾーン(ファニー・ヘンゼル)を介してのことだったらしい。この時「初めてドイツ音楽を実体験として理解し」,これらの経験を通じ,グノーは教会音楽を多面的な書法で書くようになった。ファニーを「大変素晴らしい作曲家」と称賛し,一説には「アベ・マリア」を作曲したのはファニーだともいう。当時は女性作曲家が自分の名で出版することは難しく,メンデルスゾーン名の歌曲にもファニーの曲が含まれているとか*。

* 山下剛「もうひとりのメンデルスゾーン」には,1840年当時ローマにいたファニーとグノーの交流が描かれている。21歳だったグノーは彼女が弾くバッハの協奏曲に大感激し,ドイツ音樂の虜になる様が詳えがかれている。この本については以下も参照。

https://male-chorus-history.amebaownd.com/posts/1332736


 さて,Ungerの「Historical Dictionary of CHORAL」によれば,グノーは20曲のミサ曲を書いている(3つのレクイエムを含む)*。このAgnus Deiは,第2ミサと呼ばれる「Deuxième Messe pour les sociétés chorales 」のもので,Deuxième は「第2,2番め」の意味。この「第2ミサ」,1846年の「Missa Brevis」を元に作曲されたとされていたのだけど,近年の研究ではこれは間違いらしい**。

* Dennis Sherlockの「CHORAL REPERTOIRE」では「4つのレクイエムを含む21曲のミサ」となっている。

** 例えばhttp://chor-ob.org/185/2の解説など。


 ドイツでグノーのミサを編集したManfred Frankによれば,この「間違い」が始まったのは,1911年に出版されたJ.G. Prond'homme とA. Dandelotの著書「Gounod」にある。この本で「Messe brève et Salut (C minor)が1846年にOp.1として出版され,のちに Messe no 2 aux sociétés choralesとして再出版された」と記載されているが,同時に「第2ミサは1846年に再販された」とも記されており,記述が矛盾している。

 Manfred Frankによれば「現在の『第2ミサ』にはMesse brève et Salut Op. 1は1小節たりとも含まれておらず,また,Prod’homme/Dandelotが1846年に出版されたとしているMesse no 2 aux sociétés choralesは見つけることができない」としている*。このことから,op.1を元にしたという1846年の「第2」ミサは実在せず,おそらく,1845年の「Messe en ut majeur, no 2, à 3 voix d’hommes avec orgue」という三声のミサと混同したのであろう,としている(このミサはグノーのサイン入り手稿譜が現存し,1871年に出版された)。

* op.1は「無伴奏男声四部合唱の短いミサで,グノーがチャペルマスターを務めていた教会のための音樂」。「CHORAL REPERTOIRE」では,これに「基本的に合唱部をなぞるオルガンパートを加え」再出版されたとしている。


 なぜこんなややこしいこと(専門家でも勘違いする)になるかといえば,グノーがあまりに多くのミサを書き,また,そのバリエーションが多いからであろう。ネットで彼のミサのリストを調べると例えば次の3つがある。

 https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_compositions_by_Charles_Gounod

 http://www2.cpdl.org/wiki/index.php/Talk:Charles_Gounod

 http://www.charles-gounod.com/vi/oeuvres/messes/index.htm

最後のサイト「Charles GOUNOD Masses, Requiem」は,恐らくJ.G. Prond'homme らの著書「Gounod」によるものであろう。これを元に関連部分を整理する。

 Manfred Frankがいう1845年のミサは他のリストに出てこない上,ややこしくも「no 2」を含むため,確かに混同する可能性がある。しかし楽譜を見たら三声と四声を間違うことはないだろうし,また旋律が異なるという1846年のMesse brève et Salut を「第2ミサ」の原型とする記述も不可解。J.G. Prond'hommeらは楽譜を見ることなく執筆したのであろうか?

Messe brève et Salutの楽譜を参照できたら多少はすっきりしそうだが,残念ながら見つけられなかった。


 ではこのミサはいつ作曲されたかというと,現在の形と同じDeuxième Messe pour les sociétés chorales は1862年にパリで出版された。そこに「à l’association des sociétés chorales de Paris et du Départment de la Seine (パリの聖歌隊とセーヌ派の協会)」と記されていることから,彼がOrphéon de la Ville de Parisの指揮者であった1852-1860年に作曲されたとされている。「第2ミサ」の正しい起源はともかく,現在演奏される形に整ったのはこの頃,ということで日本での話に入る。

 このミサもフランスの作曲家によるものなので,デュオウパと同じくO SalutarisとDomine Salvumが含まれており,1850年台に作曲されたと思われるこのミサもDomine Salvumの歌詞はimperatorem nostrum Napoleonemとナポレオンに捧げられている。年代から,デュオウパのところで述べたように,これはナポレオン3世を意味する。もし日本でDomine Salvumを演奏するのなら(私は聴いたことがないけど),聖チェチーリア荘厳ミサ曲と同様にDomine, salvum fac Regem nostram と演奏するべきなのでしょう。


 グリークラブアルバム版のAgnus Deiは林雄一郎編曲とされている。手元にあるこのミサの楽譜2種(ニューヨークのEDWIN F. KALMUS社版とManfred Frankが編集した版)と比べると,少なくとも1箇所,終わり近くにこれら海外の楽譜と異なる箇所があり,林の編曲としてよさそう(楽譜を比較する目はザルなので,他にもある可能性高し)。

 ただし,若干の懸念もある。関西学院グリークラブがこのミサのうちKyrieとAgnus Deiを本邦初演したのは昭和13年(1938年),翌昭和14年にO SalutarisとDomine Salvumを除く全曲演奏したが,「マルツォ編」と記されている。これが編曲者なのか編集者なのかはっきりせず,マルツォが編曲者でグリークラブアルバム版の原本である可能性は残る。

 戦後も,松浦周吉指揮の関西学院グリークラブが昭和26年(1951年)全日本合唱コンクールでこの曲を演奏し優勝*,同年に昭和14年と同じ形式で演奏,その後関西学院高等部や早稲田大学グリークラブなども演奏している。

* この年から関西学院グリークラブはコンクールにOBを交えることを止め,大学の部に出場するようになった。関西合唱コンクールでは,松浦,多田武彦,日下部吉彦とすごいメンバーが競っている。松浦の2代後の指揮者が北村協一。松浦は「北村君に指揮を教えたのは私」と本人の前でスピーチしたことがある。北村は苦笑していた。

 グノーの男声合唱曲で最も歌われているのは歌劇「ファウスト」の「兵士の合唱」で,昭和初期には何度も歌われていた。日本人が最初に歌った男声合唱曲は,大正13年(1925年)に慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団が歌った「蟋率と蟻」,同志社グリークラブが歌った「Prayer(祈り)」。「Prayer」は宗教曲らしいが,グノーの宗教曲は多すぎて手がかりがない。逆に,宗教曲以外の男声合唱曲は情報が少なく,井上さつきの「音楽を展示する パリ万博1855-1900」によればオルフェオン向けに作曲した,「ガリアの酒」「皇帝万歳」「ガリア(ソプラノ独唱とオーケストラ伴奏)」,「ファウストにもとづくモザイク」というところ。「蟋率と蟻」も手がかりがない。

 戦前は「劔(剣)の舞」という男声合唱曲が歌われており,昭和12年に発行された東京音楽書院の「新男聲合唱曲集1」に収録された「Sword Dance (妹尾幸陽訳詞)」のこと。歌詞は英語なので英米からの輸入楽譜であろう。「ビールより新しいぶどう酒が遥かにいいぜ!」といった歌詞で,歌詞中にガリアもでてくるので,これが「ガリアの酒」であろう。この輸入楽譜はそれなりに出回ったらしく,昭和17年(1942年)に立教大学グリークラブを指揮した斎藤正夫や,昭和19年(1944年)関西学生合唱連盟の演奏会で長井斉も訳を付けている(または妹尾訳より歌いやすい訳にして歌ったか)。

17. The Lord is My Shepherd (主は我が牧者なり)

詩篇 第二十三編

作曲 グラナハム(とされている)


 なぜか「作曲者が正しく表記されない」宿命を背負った曲。グリークラブアルバムではグラナハムと表記され(少なくとも2016年7月発行の「通算第73刷」まではそう。最新版は見てないが),古い版では「いざ起て戦人よ」の作曲者グラナハムと混同されたのと思われる。興味深いことに,「グリークラブアルバム CLASSIC」でも「The Lord is My Shepherd 」と「いざ起て戦人よ」の作曲者が「J. マクグラナハン」と,同一人物のように表記されている(少なくとも初版において)。

 しかしこれは間違いで,「いざ起て戦人よ」は確かにJames McGranahamの作曲だが,「The Lord is My Shepherd 」はRoys Bridgmanの作曲である。

 歌詞(といって良いのかわからないけど)は詩篇23で,Wikiによれば「ユダヤ教とキリスト教の両方において,祈りの言葉として愛され」ており,シューベルトやブルッフも作曲している。この作者の曲が日本で最初に演奏されたのは,昭和元年(1926年)に関西学院グリークラブが歌った「主は我が牧者なり (ブリッグマン)」。以後,愛唱曲となったらしく,戦前にも何度も歌われている。表記は「ブリッジマン」もあり,同グリークラブの愛唱曲集「OLD KWANSEI」のthird editionにRoys Bridgman曲として収録されている。

 この作曲家については何も分からないが,Hinds, Hayden & Eldredge社(New York)のかTHE MOST POPULAR MUSIV BOOKSシリーズの一冊Walter Howe Jones編「NEW SONGS for MALE QUARTETS」にこの曲を含む6曲が収録されており,半分は宗教曲。出版は1903年で,関西学院グリークラブもこの曲集からレパートリーに加えたのかもしれない。


18. Requiem Aetenam (レクィエム エテルナム)

典礼文

作曲 コルネリウス


 作曲者ピーター・コルネリウス(Peter Cornelius ,1824-1874)は音楽のみならず詩や翻訳にも優れた人で,死後半世紀以内に少なくとも6つの伝記が出版されたが,ドイツ以外ではあまり知られていない。俳優だった父の影響で当初は演劇に熱心だったが音楽に転向,十代の半ばには出身地マインツのオーケストラメンバーになるほどだった。1841年に父が亡くなった後は画家であるベルリンの叔父のもとに身を寄せ,メンデルスゾーンやグリム兄弟とも知り合い,また ジークフリート・ヴィルヘルム・デーン(Siegfried Wilhelm Dehn,1799-1858)にパレストリーナからバッハ様式のレッスンを受け,作曲した曲をワイマールにいたフランツ・リスト(Frantz List,1811-1886)にみせた。当時ドイツではセシリア運動として知られるカトリック音楽の活性化運動,つまり宗教的内容に乏しい非典礼的な音楽をカトリック教会から追放しようとする活動があり,リストも運動に参加していた*。彼らは16世紀のパレストリーナの音楽様式を理想としており, その素養があるコルネリウスを仲間にするため,リストは彼に宗教曲を書くことを勧めた。コルネリウスはこれに応え,Requiem AeternamやAbsolve Domineなど一連の宗教曲を作曲したが,コルネリウスのミサやモテットはカトリック界で認められるような成果にはつながらず,1855年に宗教音楽の作曲を中断した。再開するつもりだったが,糖尿病で亡くなり果たせなかった。

* リストといえばピアノ曲のイメージだが宗教曲も多くあり,男声合唱では「男声合唱のオルガンのためのミサ曲 ハ短調」「男声のためのレクィエム」などがある。

  Requiem Aetenam はヴェストファーレン(Westphalia)のゾースト(Soest)市に滞在した1852年10月に作曲された。生前には出版されず,1905年に Max Hasseが編集し Breitkopf & Härtelから出版された全集の第2巻に収録された。歌詞はレクィエムの入祭唱レクィエム・エテルナム(永遠の安息を)である。グリークラブアルバムの注で「鎮魂ミサ曲の最初の部分か,或は独立した曲なのかは不明」とあるが独立した曲である。この記事の参考にした William Meltonはこの作品をop.102としているが,それ以外の資料では無番号である。


 日本での最初の演奏は,昭和11年(1936年)に関西学院グリークラブが行った「コルネリウス曲『レクイエム第十一』」である*。前述のBreitkopf & Härtel社から出た楽譜で第2巻の男声合唱部は,op.9のTrauerchöreから曲に通し番号が振られ,11曲め(Nr.11)がRequiem Aeternamである(図参照)*。関西学院グリークラブがこの楽譜を入手し,これに基づき演奏したことが分かる。このような「誤解」はこの年だけで,翌年以降の演奏は正しく表記されている。関西学院グリークラブはこの後何度もこの曲をレパートリーとする年があり,現在の愛唱曲集(the third edition)にも収録されている。

* ちなみに文中の「ブリツジマン曲『詩篇二十三』」が,The Lord is my Shepherdである。

** この曲はCamerata Musical Limburgが演奏するCDがあり,YoutubeやSpotifyで聴くことができる。しかし,CDではTrauerchöreの名のもとでRequiem AeternamやAbsolve Domineも収録しているため,Youtubeの解説ではこの曲をTrauerchöreの6曲目と誤って解説している。図にあるようにTrauerchöreは5曲の曲集である。


19. Das Vater Unser ( 主の祈り)

聖典

作曲 ケンネル (後にC. ツェルナーに修正)

編曲 林雄一郎


 グリークラブアルバムでは長い間「ケルネル作曲」とされていたが,どこかの刷りから「C. ツェルナー作曲」と正しく修正された。作曲者はカール・フリードリッヒ・ツェルナーCarl Friedrich Zöllner (1800–1860)である。リーダーターフェル運動やベルリン・ジング・アカデミーの創立者であるCarl Friedrich Zelter (1758-1832)とよく似ているが別人。どちらも男声合唱曲の作曲や指揮で活躍した点で共通している。ツェルナーは当初教会音楽に集中していたが,その後作曲の範囲を広げ,1833年にZöllner clubという男声合唱団を発足,以後同様の名前を持つ合唱団を立ち上げ,それらの団のために曲を書き指揮した。そのうちの一つZöllner-Männerchor Bernburg e.Vは現在も活動を続けている。男声合唱曲としてDas Lied vom Rheinwein,Einkehr,Wanderschaftなどがある。

 ここに載せたDas Vater Unserは,Viktor Keldorfer編集のLiedertafel Von der Donau zum Rheinに収録されていたもの。「主の祈り」は聖書のマタイ伝6章の9節から13節,クリスチャンなら誰でも知っている祈りらしい。現代日本語では「天にましますわれらの父よ」と訳されており,確かに聞いたことがある。ラテン語のPater nosterは16世紀のキリシタンにも「ぱあちりのーちり」と唱えられていた。

 歌詞はドイツ語で本来の語順はUnser Vaterだが,ドイツ語の主の祈りはVaterunserであるため,それに合わせたとされている(Pater nosterの語順も含めた直訳)。プロテスタントの場合,歌詞の最後に「国と力と栄光は永遠にあなたのものです。アーメン」という一行が,ドイツ語では「Denn dein ist das Reich und die Kraft und die Herrlichkeit in Ewigkeit. Amen.」が付け加えられており,Zöllnerもそのように作曲している。しかし,楽譜に注釈があり「カトリックの場合はDoxologie(頌栄)なしで演奏できるようになっている」とされており,グリークラブアルバムでも 頌栄部分は省略されている。曲中で唯一のフォルティシモなので,盛り上がるところではあるのだけど。


 日本で初めて演奏したのは,昭和25年(1950年)の関西学院グリークラブだと思われる。林英太郎(林雄一郎の弟)の訳詞で昭和25年の合唱コンクール自由曲として歌った。調べた範囲でこの年とその翌年に歌われた以外に記録がない。

 最後に,気になるのが作曲者とされていた「ケンネル」のこと。目次ではケルネル,楽譜ページではケンネル,注釈では「十九世紀末のドイツの作曲家ケルネルも男声合唱のための名曲をたくさん残しています。この曲もコンクールの自由曲として使用されたことがあります。」とケルネル。ZöllnerをKöllnerと読み誤ったのだろうか。関西学院では当初から「ツェルナー」と表記しており,よくわからない*。

* ちなみにKellnerはケルネルと読まれ,検索するとJohann Peter Kellnerやその子のJohann Christoph Kellnerという作曲家が出てくるが,18世紀の人で男声合唱的にも有名ではない。


(以上)

日本男声合唱史研究室

日本における男声合唱史の研究 Study on male chorus history in Japan 主として明治期から1980年頃までの,日本の男声合唱について資料調査したことを中心にアップしていく予定です。いわば,私家版の「日本男声合唱史」を作る試みです。 タイトルは思い切り気張ってみました(笑)。 2024年4月15日から「無料プラン」の仕様が変わるため,構成を組み替えました。

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