「カワイ合唱名曲選」の表紙デザインと古代ペルシャ(エラム)

 昨日,ちょっと強引に合唱(音楽)と古代ペルシャを結びつけた。昭和40年台にたくさん出ていたカワイ楽譜の「カワイ合唱名曲選」,一曲ごとや短い組曲ごとに売られていたピース形式の楽譜表紙に楽師の隊列が描かれ,その説明に「ペルシャのエラム族(紀元前2千年前)の遺跡から出土した浮彫で,祝い日に,楽器を奏し歌を歌って行列行進する図である」と説明されている。

 軽い気持ちで上げたのだけど,古代遺跡大好き,合唱大好き人間としては,これの原画について調べるべきと考え,そうそうに調べた。


 エラムとは,今のイランやイラクの南部にあった古代の国で,「ペルシャ文明展」の図録によれば,紀元前3200年頃から紀元前600年頃までに存在した,アケメネス朝ペルシャに先行する文明。原エラム,トランス・エラム,古エラム,中エラム,新エラムと5つに区分されている。膨大なレリーフがあるものと思われるが,幸い,Digital Silk Road (DSR)の中に, Digital Silk Road Musicというサイトが有り,その中で東京藝術大学名誉教授の柘植元一氏により「2.古代メソポタミアからササン朝ペルシアに至る音楽文化」としてまとめられている*。それによれば,エラム人の音楽を垣間見せる図像資料は2つあり,

 「一つは、ザグロス山脈の南西にあるクーレ・ファラの摩崖浮彫(前八世紀ないし七世紀)である。そこには垂直式および水平式の二種類の角型ハープと枠太鼓を奏でる楽師が描かれている。もう一つは、アッシリアのニネヴェ宮殿の壁面彫刻(前650頃)である。」

「もう一つは、アッシリアのニネヴェ宮殿の壁面彫刻(前650頃)である。アシュールバニパル王がマダクトゥでエラム軍を制覇した際の祝賀の図で、そこには集団脱出するエラムの楽師や手拍子を打ちながら歌う女性や子供たちの行列が描かれている(大英博物館蔵)。楽師が奏でているのは垂直式と水平式の二種類の角型ハープやアウロス(双管葦笛)である。」

とされている。どうやら,この2つを検索すれば原図に行き当たりそうである。

* http://dsr.nii.ac.jp/music/02persian.html


 検索の結果,この2つを比較している図面が見つかった。Encyclopaedia Iranicaの「MUSIC HISTORY i. Pre-Islamic Iran」*のFigure7である。浮彫の特徴を絵にしてあるので分かりやすい。あきらかに,bのアシュールバニパル王の画像が元になっている。

* http://www.iranicaonline.org/articles/music-history-i-pre-islamic-iran


 念のため,まずクーレ・ファラ(Kul-e Farah)の画像を検索し,Figure 7の部分に貼り付けた。こちらは,どうやら違いそうである。続いて,大英博物館の画像を検索すると,Figure 7のbの画像を参照できる(1 of 11,および,5 of 11)。この絵が元になっていることを確認できた。


*https://www.britishmuseum.org/research/collection_online/collection_object_details/collection_image_gallery.aspx?assetId=270640001&objectId=366839&partId=1


 しかし,そうするとカワイ楽譜の解説「エラム族(紀元前2千年前)の遺跡から出土した浮彫」ではなくアッシリアの遺跡から出たものだし,「祝い日に,楽器を奏し歌を歌って行列行進する図」は,この浮彫がThe Battle of Til-Tuba(ティル・トゥーバの戦い)と言われるもので紀元前650年頃にアッシリアがエラム人を破りエラム王が殺され,滅亡の大きな原因になったとされているのだから,祝いの歌ではなく,柘植先生の解説にあるように「集団脱出」の場面となる。悲しい場面である。

 誤解でこの場面を採用したのか,または,なにか意味を込めて採用したのか,どちらだったのでしょうか。

以上



日本男声合唱史研究室

日本における男声合唱史の研究 Study on male chorus history in Japan 主として明治期から1980年頃までの,日本の男声合唱について資料調査したことを中心にアップしていく予定です。いわば,私家版の「日本男声合唱史」を作る試みです。 タイトルは思い切り気張ってみました(笑)。 2024年4月15日から「無料プラン」の仕様が変わるため,構成を組み替えました。

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