「流浪の民」と「薩摩潟」
以前,「合唱という言葉はいつ頃から使われたか?」に,シューマンの「流浪の民」は明治40年に石倉小三郎が現在も使われている訳をつけるまえは,鳥居忱の創作訳で「薩摩潟」として歌われたことを紹介した。
「明治40年にはシューマンの「流浪の民」が,今なお使われる「ぶなの森の葉隠れに」で始まる石倉小三郎の新訳で歌われることが報じられている。それ以前は東京音楽学校の教授だった鳥居忱の作歌で「薩摩潟」として歌われていた。これは「あわれあわれ正義の士」と始めて西郷隆盛と僧月照との投身を歌い上げる,原曲の歌詞と関係ない日本語の歌詞を作ったもので,メロディのみを利用した,メロ先の一種である。
鳥居はこの他に,ケルビーニのレクイエムを「橘の薫」,ヘンデルのハレルヤを「神武東征」,ワーグナーのタンホイザー行進曲を「聖寿無窮」,ジルヒャーのローレライを「領巾摩嶺(ひれふるみね)」,メンデルスゾーンのエリアを「高津宮」と西洋の曲を日本文化に置き換えて紹介した。東京外国語学校でフランス語などを5年間学んだ人なので,外国語を理解せずに詞をつけたのではなく,西洋文化に不慣れな明治初期の人々には翻訳よりもこちらのほうが内容が理解できるため受け入れやすいと考えたのだろう。私も実は,「薩摩潟」の歌詞は「Zigeunerleben」の曲調と結構あってると思う。」
* https://male-chorus-history.amebaownd.com/posts/1669216
https://ameblo.jp/tonotono-57-oboegaki/entry-12222550606.html
これを読んだ方から「薩摩潟の全文を知りたい」とお問い合わせ頂き,私も全文は知らなかったので調べてみた。ネットに掲載していることろはなかったが,幸い国会図書館の蔵書で見つけることができた。関連する情報もいくつか得られたので,まとめることにする。
ブログ等の記述は,雑誌「合唱サークル」創刊号(1966年1月)の巻頭言で,堀内敬三が「明治時代の合唱曲」を紹介したものを参考にした。同じことを,「カワイ合唱名曲選 G7 混声合唱曲『流浪の民』」(1964年5月20日第1刷)の解説で山本金男が,また「合唱辞典」(1967年6月20日第1刷)の「実技編 指揮法」でも山本金男が記している。調べた限りこの件の最も古い記述は,堀内敬三が1941年に音楽之友社から出した「音楽文庫4 聲樂曲解説」である。山本の記述はこれを参考にしたのかもしれない。
まず「薩摩潟」として楽譜が出版されたのかだけど,堀内の記述は「数回演奏会に出ているが」とあり,確かに東京音楽学校や同校卒業生の同声会の演奏会で何度か歌われた記録があるが,一般的に歌われた風でもない。明治25年(1892年)に演奏されたあと明治40年(1907年)には今も歌われる石倉小三郎の「流浪の民」が出版されているので出版された可能性は低そう(石倉の訳について,明治40年11月8日に,東京日日新聞で報じられている)。検索を続けるうち,「国際音楽資料情報協会」の2007年6月25日のNEWSLETTERに参考となる記述があった*。
これによると,音楽取調掛の所蔵楽譜に薩摩潟の日本語歌詞が鉛筆で書き込まれているらしい(15ページ)。さらにその印影が出版されている(脚注21「原点による 近代唱歌集成 誕生・変遷・伝播」D30枚にテキスト約2300頁の大部のもの)。収蔵する図書館が近くにないので,これは次の機会に確認する。
* http://www.iaml.jp/nl.30.pdf
このNEWSLETTEREには,薩摩潟について面白い記述がある。
「《薩摩潟》上演のための練習の折,ディットリッヒの指導が男子学生に対してあまりに厳しく,そのため彼らが演奏会のボイコットを計画したが,事前に事が露見し,首謀者他3名が15週間の停学処分を受けた」
ディットリッヒはオーストリア人で,日本の音楽がドイツ至上主義になるきっかけを作った人物とされているが,当時の日本で最もレベルが高かった東京音楽学校の男子学生が苦労するぐらい,薩摩潟(流浪の民)は演奏が難しかった,ということらしい*。
* 明治40年に出た石倉小三郎の「流浪の民」は,このような状況を鑑みると,女声合唱譜として出版された可能性が高い。検索したがこの楽譜を所蔵している館は見当たらないので,あくまで推測でしかないが。大正期になるとかなりの数の「流浪の民」がセノオ楽譜・シンキョウ楽譜から出ているが,すべて女声合唱譜(四部または三部)であり,女声合唱としての人気が高かったことが伺われる。
「薩摩潟」の記述はないが,平成27年(2015年)1月10日に開催された「東京藝術大学音楽部 ホームカミングディ 第1回」のパンフレットには*,鳥居による「八島ノ浦(S.ウェブ作曲 When winds breathe soft)」「神武東征(ヘンデル作曲メサイヤからハレルヤ)」の歌詞が載せられている。「神武東征」も歌詞が手書きされた楽譜が残っている。
* http://www.doseikai.jp/pdf/20150110home_comming_program.pdf
楽譜は望み薄なので方針を変え,鳥居忱(とりい まこと)の著作物を調べてみると,彼の著作ではないけれど,明治33年7月(1900年)に松栄堂からでた日本文学会編「神来」は,薩摩潟を収録していることがわかった。序文を与謝野鉄幹や大町桂月が書いている詩集で,幸い国会図書館でデジタル化されたものを読める。
例によって前置きが長くなったけど,以下が歌詞。』は原本にあったのでそのまま写した。 漢字について,Zigeunerlebenの曲にのせるよう読みにくいところにルビを打った。
「薩摩潟(さつまがた) 鳥居忱(とりい まこと)
天晴(あっぱれ(あわれ?))。天晴。正義の士(し) 天晴なりや。世の鑑(かがみ)。』
安政戌午(あんせいぼご)の,歳とかや。霜降る月の拾五日。』
今や天下の,正義の士,尊皇攘夷を唱へたり。』
幕府威勢猶(なお)強し。縛(いまし)め盡(つく)す正義の士。』
避けよ,避けよ,正義の士。
避けよ,避けよ,正義の士。』
小船艤(こふなよそお)ひ,英雄が,船出せりな,薩摩潟。』
眞空(みそら)の月,海原に通(かよい)て澄む,望(もち)の夜や。』
風は疾し,薩摩潟。
船は輕し,薩摩潟。』
聲もあやに,詩を吟じて。心たかず,酒を酌み。』
語るまじや,世の事。唯今宵(ただこよい)月を見む。
月は高し薩摩潟。
浪は白し,薩摩潟。』
清ら清ら,月の夜や。清き心,誰か知る。』
空に月は,晴れながら。胸に曇る思ひかな。』
あはれ悲し。英雄が,避くる所(ところ)世(よ)にはなし。』
君の御為(おため),身を捨てて,沈みけりな,薩摩潟』
天晴。天晴。世の鑑,天晴なりや,正義の士。世の鑑。』」
主題となっている西郷隆盛と僧月照の投身自殺とは,尊皇攘夷派の僧侶月照は京都にいた際に安政の大獄で処罰対象とされ,西郷と共に薩摩に逃れたが,藩は厄介者となった月照を殺すよう暗に西郷に命じ,苦悩した西郷は錦江湾に浮かべた船で月照と酒を酌み交わし,その後入水自殺を図るが月照のみ死亡した,という悲劇。ときに安政5年11月16日(1858年12月20日)のことだった。
タイトルの「薩摩潟」だけど,「コトバンク」によれば
「薩摩国(鹿児島県)の南方の海を漠然というか。鹿児島湾をさしていっている例もみられるが,実際には薩摩潟という潟は存在せず,「平家物語」などでは大隅の方に対する薩摩の方の意で「方」を「潟」にかけていったものと思われる。」
となっており,錦江湾(鹿児島湾)の薩摩半島寄りという意味合いらしい。
冒頭は,「天晴」となっており,一般に「あっぱれ」と読まれ,堀内が書く「あわれ」ではない。 天晴を「あわれ」と読みうる,あるいは,読んでいたかについて,「ふりがな文庫」を参照したが*,明治時代の作家も「あわれ」とルビを打った例はない。しかし,前述の「東京藝術大学音楽部 ホームカミングディ 第1回」の「神武東征」では「天晴」に「あわれ」とルビが振られている。当時はそういう読み方があったのか,鳥居がそう読ませたのか,定かではない(文末の2019/9/3追記参照)。
* 「天晴」の読み方
https://furigana.info/w/%E5%A4%A9%E6%99%B4
あらためて全文を読むと,実によく合っていると感心する。「霜降る月の拾五日」などは唸るしかない。「流浪の民」を知っている方は,ぜひこの歌詞で口ずさんでほしい。なお「2016こどもコーラス・フェスティバル」で鹿児島県の谷山少年少女合唱団が「薩摩潟」として演奏しておられる*。さすがである。
* https://www.brain-shop.net/shop/g/gS916711D/
wikiによれば鳥居忱は東京外国語学校で5年学び,その後音楽取調掛で音楽を学び,東京音楽学校で教鞭をとった。外国語に堪能で音楽も詳しく,音楽関係の書物の何冊かは国会図書館のホームーページからpdfがダウンロードできる。「薩摩潟」同様に海外の曲に歌詞をつけた「歴史唱歌 忠君憂国」もダウンロードでき,「日本国」はAurelia,「宇佐の神託」はW. Lincoln,「勿来の関」はRossini,「山吹の里」はZ. M. Parvin等と作曲者が記されたものもある。明治20年台は,原曲の歌詞を翻訳するのではなく,このような作歌(メロ先)が行われていたのは,まずは西洋音楽の基礎を国民の身につけさせるという趣旨から妥当な方針。歌う方も歌詞ぐらいは馴染みのある日本語の方が良いし,強弱アクセントの西洋曲を高低アクセントの日本語に正確に翻訳することは作る側としても高度な技術がいる。鳥居は語学が堪能なので(哲学書の翻訳もある),本当はそういうことをやってみたかったのかもしれない。それは明治30年台の近藤朔風や明治40年代の石倉小三郎らに託されることとなる。
(2019/9/3追記)
「原点による 近代唱歌集成 誕生・変遷・伝播」を確認したら,確かに「アワレ」とルビが打たれていた。そこで「天晴」と「あわれ」について再度調べた。すると「語源由来辞典」に次の説明があった*。
「あっぱれは「哀れ(あわれ)」と同源で,感動詞「あはれ」が促音化した語である。
「あはれ」は感動語「あは」に接尾語の「れ」がついたもので,喜びも悲しみも含めて心の底から湧き出る感情の全てを表す語であった。
中世以降,賞賛の意味を込めて言う時は,促音化した「あっぱれ」が用いられるようになり,「あはれ(あわれ)」が「嘆賞」「悲哀」などの感情を表す言葉となった。
漢字で「天晴れ」と書くのは,意味や音から連想された当て字で語源との関係はない。
また,あっぱれの漢字には,「天晴れ」の他に「遖」という国字もある。」
同様の説明が「笑える 国語辞典」などにもある。
あわれは「素晴らしい!」「お見事!」など感動してもらす称賛の言葉であり,「あっぱれ」と促音化したのはすでに平家物語にみられるとか。鳥居は「アワレ」のことばに,のちに「天晴」をあてて詩として出版した,ということのようだ。自分は「哀れ」の意味,つまり「悲しい」と理解していたのだけど,理解が足りていなかったということ。
* http://gogen-allguide.com/a/appare.html
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