グリークラブアルバムの研究 日本曲編

20. 帰ろ 帰ろ

作詩 北原白秋

作曲 山田耕筰

編曲 福永陽一郎


 ここからしばらく日本語の曲になる。この曲は北原白秋作詩・山田耕筰作曲と,「童謡・唱歌のゴールデンコンビ」の作。大正14年(1925年)4月に雑誌「童話」に発表された。曲名は曲名は「帰ろ 帰ろ」となっているが,「かえろ かえろと」が正しい(最初につけられた)。「かえろ かえろ」としているものもある。この曲や白秋と耕筰の関係など,書籍やネットに沢山情報があるのでここでは述べない*。

* 山田耕筰が初期の関西学院グリークラブのメンバーだったことは,同グリーの「40年史」「80年史」にも述べられている。合唱曲も書いているが,オリジナルの男声合唱曲はないはず。男声合唱編曲も早稲田大学校歌「都の西北」ぐらいか。確かに戦前を中心に活躍した作曲家の男声合唱曲は少ないが,ここまで少ないのも珍しい。すでに研究されているのかもしれないが,解明したい謎の一つ。


 歌詩中の「かえろがなくから かえろ」の「かえろ」が何かについて,「カエル」説と「カラス」説がある。カエルは発音は近いが,カエルが鳴くのは夏場だけだし,朝から晩まで鳴いているものなので,「カエルがなくから かえろ」はおかしい。カラスは「カラスと一緒にかえりましょ」と「夕焼け小焼け」の歌もあるから詩として意味をなすが,カラスを「かえろ」と呼ぶ地域はない。両説ともに決め手を欠く。

私は,具体的なものに当てはめるより,心の中で「そろそろ帰らないといけない。帰ろ。」と思うことを示しているか,または,そんな気になったときカエルが鳴いたのでそれをきっかけにしたのでは,と思う。


 合唱の視点では福永が脚注に記している「1952年慶応ワグネルソサィエティが,第二回四大学合唱祭で唱っていらい」とあり,またLPでは「ダーク・ダックスの”ゾウさん

”が指揮した」とあるが,「Wagner Society Male Choir 演奏ライブラリー」のウエブサイトを参照すると*,第2回は1952年ではなく1953年の開催である。”ゾウさん”の本名はwikiによると「金井哲夫(現在は改名し金井政幸)」であり,同サイトには第2回に確かに「『日本歌曲集』 金井政幸指揮 「帰ろ帰ろ」(北原白秋作詩,山田耕筰作曲)他」と記されている。

* http://www.wagner-society.org/library/library_4ren_adsl.htm


 以後は細かい話だけど,このときワグネルが歌った曲目は気になる。福永の「東京コラリアーズ合唱曲集1」(昭和32年(1957年)刊)には「山田耕筰歌曲集」の部があり,そこにこの「帰ろ 帰ろ」を含む8曲が載っているが,「秋風の歌」「ペチカ」について「編曲は1954年のワグネルソサイェティのために書かれましたが,結局東コラが初演した」とわざわざ書かれ,また「待ちぼうけ」には「ワグネルOBの中村早苗氏のアイデァをそっくりそのまま拝借した」と,福永がワグネルと「協力」し,何曲か編曲したことが述べられている。

 この頃のワグネルが山田耕筰歌曲の男声合唱編曲をよく取り上げていたのは事実で,先のサイトを参照すると昭和27年(1952年)12月13日の第77回定期演奏会でには梅原文雄指揮の「山田耕筰作品集」があり,曲目は以下の通り。

 「赤とんぼ」(ワグネルコール編曲)

 「待ちぼうけ」(中村早苗編曲)

 「此の道」(大川内洸蔵編曲)

 「中国地方の子守唄」(大川内洸蔵編曲)

 「からたちの花」(林雄一郎編曲)

福永の「まちぼうけ」編曲は,この編曲をもとにしている(おそらくは了解を得て)。

 「秋風の歌」「ペチカ」について福永の言う「昭和29年(1954年)」には,それらしいステージは見当たらない。昭和30年(1955年)の第4回東西四大学での池田文雄指揮「日本民謡集」は「この道」などが歌われており,これ用だったかもしれないが,詳細不明。 

 翌年ワグネルは名古屋の金城学院大学グリークラブと「二大學合唱演奏会」を開催し,「愛唱曲集」のステージで山田作品を4曲歌っている。「待ちぼうけ」と「この道」は第77回定期演奏会と同じ編曲で,記載がないが「からたちの花」もおそらく同じ。もう一曲が「帰ろ 帰ろ」で,これも編曲者が記載されていないが,この曲名表記からして福永の編曲であろう。

 かなり後の平成9年(1997年)頃のフェアウェル・コンサートで「山田耕筰作品集」が歌われたが,曲目は「帰ろ 帰ろ」「青蛙」「夕やけの歌」「からたちの花」「この道」だった。「秋風の歌」「ペチカ」については福永の編曲はワグネルに採用されなかった,ということか。]

(2019/8/6追記)

昭和42年(1967年)初版の音楽之友社刊の教材集「男子音楽」にこの編曲が収録されているが,タイトルは「かえろ かえろ」と校正されている。教材集とは「男子高校または共学男子クラスの音楽教材集」と学校向けの教材なので,編集校正は厳密に行われたらしい。一般向けに市販もされたらしい。


21. からたちの花

作詩 北原白秋

作曲 山田耕筰

編曲 林雄一郎


 原曲は「帰ろ 帰ろ」と同じく「ゴールデンコンビ」。大正13年(1924年)7月の「赤い鳥」に詩が発表された。「大正14年(1925年)1月10日の朝,わずか30分たらずの間に作曲され」た曲は4ヶ月後に雑誌「女性」で発表され,同年8月にセノオ楽譜から出版された。

 長田暁二「世界と日本の愛唱歌・純情歌 事典」によれば白秋の出身地福岡県柳川市には「からたちの木が生け垣としてあちこちに植えられていた」。白秋の原風景だった。

 セノオ楽譜に山田耕作は「まだ幼かった私,未明から夜半近くまでも活版職工として労働を敢えてしなければなかった。・・私はまだ十歳にもみたなかったその頃を思い起こします。それは本当に健気な,また意地らしい小さな私でありました。私のいた工場は広い畑の中に建てられていました。そしてその広い畑の一隅は、からたちで囲まれていました。働きの僅かな閑を盗んで,私はどれ程このからたちの垣根へと走ったことでしょう。そしてそこで幾度か深い吐息をついたことでしょう。あの白い花,青い刺,黄金の果実――いま,私は白秋氏の詩のうちに私の幼時を見つめ,その凝視の底から,この一曲を唱い出たのであります。」とあり,白秋と耕作の両方にからたちについての思い出があり,それが出会うことで山田は短時間でこの名曲をかきあげた*。

* その意味でwikiに「この歌は耕筰のこの思い出を白秋が詞にしたものである」とあるのは,間違い。


 山田耕筰の曲についてどうこう書くのは自分の力を完全に超えているが,歌曲について思い切り乱暴にまとめると「日本語で美しい曲を作る」ことに心を傾けられた,とうことだろう。「一音符一語主義」や「一小節ごとに拍子を変える」も日本語の語感を自然に表す工夫であり,「からたちの花」にも存分に使われている*。

* 「一音符一語主義」については現在では批判もある。また,山田は東京出身のため日本語の抑揚は標準語,つまり「東京は山の手の言葉」でなければならない,と信念を持っていた。今では大阪弁や東北弁などで優れた合唱曲が書かれており,東京弁(あえてこう書く)に固執する必要はないのだけど,戦前は方言の矯正が政府の方針だったから,山田がそう考えるのも仕方がない面はある。

 しかし,戦後も考えを変えなかったのは,信念があるというかなんというか。團伊玖磨は「夕鶴」を作曲した際,「つう」以外の三人の男性が話す「いつどこのことともしれない昔」の言葉(木下順二の創作)に対して,標準語の抑揚で作曲するよう譲らない山田と大議論になったエピソードを紹介している(小泉文夫・團伊玖磨「日本音楽の再発見」)。「日本人が好きなのは標準語(東京弁)の抑揚だ」という山田の説は関西人には承服できない(笑)。


 グリークラブアルバムをみると,編曲は林雄一郎。自身でも山田耕筰作品をいくつも編曲し,男声合唱編曲の第一人者と自負していただろう福永をして,この編曲は手を加える余地のない完成度とみていたのか,東京コラリアーズでもこの編曲を採用している(後述)。林は編曲だけでなく,自身でも男声合唱曲を作り,戦前の「風」(グリークラブアルバム3に収録)「山藤」「かいつぶり」などがある。「関西学院グリークラブ40年史」によると,同グリーが「からたちの花」を初めて演奏したのは昭和13年(1938年)のことで,編曲者の記述はないが前述の曲と合わせ林の指揮で歌われており,おそらく彼の編曲であろう。当時,日本の曲(単声曲)を合唱編曲し歌う例は珍しく,本居長世が混声四部に編曲した「荒城の月」とこの編曲が目に付く程度。

 グリークラブアルバムには下記の注がある。

「男声合唱曲としても,かなり以前から親しまれています*。理想的な決定版としての,林雄一郎氏の編曲によって,日本全国で唱われていますが,林氏の編曲にも新旧二種類あって,本集には関西学院グリークラブが使用している旧版をのせました」

ここで問題は

 ①「新版」はどんな編曲か

 ②グリークラブアルバム等になぜ旧版を採用したのか

である。

* 林以外の男声合唱編曲として,九州大学コールアカデミーが荒谷俊治の編曲を荒谷の指揮で歌った記録がある。それ以外には,林の編曲しか見当たらない。


 新版については,二つの考え方がある。一つは,関西学院グリークラブ向けに改訂版としての新版が用意されたが結果的に旧版の方が適していたため現在(昭和34年(1959年)時点で)は旧版を使用している可能性,もう一つは,林雄一郎が他の合唱団ために別の編曲を行いそれを新版と呼んでいる可能性。新版が出版されていないか調べたが,それらしいものが見当たらない。グリークラブアルバムと同じ昭和34年に「林雄一郎合唱曲集」という男声合唱曲集が出版されたが,ここには「からたちの花」が収録されていない。

 前者については,証明のしようがないが,前述のように完成度が高かったなら,そもそも新版を作る必要があったのか疑問。

 下図に東西四大学の大学合唱団が演奏した記録(この曲を1度でも歌った年)をまとめる。編曲はすべて林雄一郎。関西学院は昭和13年以降ほぼ毎年レパートリーとしており,それ以外ではワグネル,同志社が取り上げているが,林はこれらの団に新しい編曲を提供したのだろうか?

他団は関西学院の演奏を聴き,林の編曲を使うと決めただろうから,別の編曲を提供するのは,どうも不自然に思う。

 可能性ありそうなのは,昭和34年(1959年)の東西四大学合同演奏に提供した,という考え方。このころ合同は3-400人いたはずで,大人数向けに例えば少しシンプルな編曲を提供した可能性はある。しかし,グリークラブアルバムはこの6月の演奏会まえの同年4月に発売されており,昭和32年(1957年)に出た「東京コラリアーズ合唱曲集1」にも旧版・新版の記述があるため,これはありえない。


 はっきりしないので,違う視点から新版を考える。そのためにまず,原曲の歌曲譜について調べてみると,「山田耕筰作品集校訂日誌*」に「からたちの花」には大きく3つの版があると記されている。

  (戦前)

  第一期 : 初版→日本独唱曲集→童謡唱歌名歌曲全集

  第二期 : 山田耕筰歌曲選集→春秋社旧全集版→山田耕筰名歌曲選

  (戦後)

  第三期 : 日本放送出版協会の「山田耕筰名歌曲全集」→第一法規全集版

 現在の「春秋社新全集版は第二期のものを底本,音楽之友版は第三期,全音楽譜出版社版は第二期の記述を踏襲」しているとか。どう違うかは後に述べるが,なぜ違うかについては前述の「日本音楽の再発見」にある團伊玖磨の話が参考になる。

「(山田耕筰先生は)日本の歌曲はこう発声しなくてはならないと,自分の作った歌を歌う人は全部うちへつれてきて,自分独特のレッスンをしておられました」

 山田耕筰は,これらのレッスンを通じ楽譜にどう記せば自分の意図通りに歌ってくれるかを「学習」したらしい。サイトによれば山田耕筰の考えが最も忠実に最終的に反映されているのは1950年に出版された日本放送出版協会版。

「この全集においては過去二十年に渡る演奏経験と、全国に及ぶ音楽大衆の愛唱によって研磨彫琢された貴重な実例などを考慮に入れて、日本的歌唱法の確立を図るとともに、必要と思われる部分には敢然訂正加筆して、底本的完璧を期した。また日本歌曲演奏に緊要な邦語の発音と発声の問題はもとより、ややもすると等閑に附せられがちな演奏速度、及び曲進行の緩急、声の濃淡強弱、旋律描写の法などを説き、更に作者たる私の欲する緻細に記述して、歌唱者の参考に供することとした」

* http://blog.livedoor.jp/hisamatsu1225/archives/51858369.html


 自分のイメージ通りになるよう楽譜に加筆し,結果としてこれらの版の相違は音ではなく(伴奏部のごく一部以外に),楽譜に付けられたテンポとアーティキュレーションの違いである。違いをあらっぽくまとめる。

 A. 「4分音符=56」表記が古く,「8分音符♪=72-92」が新しい

 B. アーティキュレーションが多くつけられているほど新しい

 このことを頭に入れ,以下に示す林の編曲を2つをみてみる。下図左は,昭和32年(1957年)の東京コラリアーズ合唱曲集(カワイ楽譜)に収録されたもので,注釈含めグリークラブアルバムと同じ。この旧版は速度記号もなく,「山田耕筰作品集校訂日誌」に示される歌曲の楽譜と比べてもアーティキュレーションが少ない。林がかなり古い楽譜を参考に編曲した可能性がある(「からたちの花」初版は1925年,最初の編曲は1938年と近い)

 右はその翌年の昭和33年に出版された「合唱文庫8 男声編」(全音楽譜)に収録されたもの。合唱文庫8は,曲末に演奏等のために注釈がつき,また,「帰ろ 帰ろ」が収録されている点からみて,おそらく福永の編集である。こちらには,速度記号が付き,またアーティキュレーションが多い。編曲の音は変わらないが,これがもしかすると福永の言う新版なのだろうか? アーティキュレーションは歌曲の全音楽譜版と同じ。

(2019年8月28日 追記)

 ある方に,大正13年の山田耕筰自筆譜の写真を見せて頂いた。調がト長調ではなくホ長調で3度低くなっている。

 アーティキュレーションは「合唱文庫8」に近いが,ややシンプルで,「旧版」と似ているとも言える。一方,冒頭近く「白い白い」の一回目の「白い」にはテヌートスタッカートが,「さいたよ」の「いた」にはテヌートがつけられているが,グリークラブアルバムの楽譜では付いていない。つまり,強弱はほぼ初稿通りだが,音符に付けられたテヌートやテヌートスタッカートが全て省略されている。


 時代を飛ばし,現在のようすをみてみる。左は関西学院グリークラブの愛唱曲集「OLD KWANSEI (third edition) 平成22年(2010年)」版,右は「グリークラブ アルバム CLASSIC

平成28年(2016年)」の「からたちの花」で,同じものである。速度記号は「♪=72-92」でアーティキュレーションは第三期,日本放送協会出版のものと同じで,音は旧版のまま。関西学院グリークラブは(林雄一郎は),テンポやアーティキュレーションを歌曲譜に応じアップデートしている。これを「新版」と呼ぶことは妥当に思える。

 以上をもとに,成立事情を類推する。「たぶんこうだったんじゃないかな」劇場である。根拠のないことが多数でてくるが,統一的な説明としてみた。

 林雄一郎は,初期の比較的シンプルな「からたちの花」楽譜により完成度の高い男声合唱編曲を行い(旧版),戦前戦後を通じ関西学院グリークラブの重要レパートリーとなった。毎年のように林の指導で歌い,合唱として完成された演奏を聴いた他の団は,関西学院に楽譜をくれるよう交渉し了解された。しかし林は,自分が指導していない他の団が歌うためには,テンポやアーティキュレーションが演奏のため必要と考え,おそらくは1950年の「日本放送協会出版」のものを付けた(新版)。

 福永陽一郎は林や北村協一から両方の楽譜を譲り受け,完成度が高かったため東京コラリアーズのレパートリーとした。アーティキュレーションについては,独唱者がすべての表現をコントロールできる歌曲演奏と異なり,日本語表現にこだわりすぎると曲の持ち味を殺す危険性があると判断,「『からたちのそばで泣いたよ』のところのピアニッシモ」など「男声合唱の泣かせどころ」を聴かせる演奏を行った。

 その後「東京コラリアーズ合唱曲集」「合唱文庫」「グリークラブアルバム」に楽譜(旧版)を載せたが,「合唱文庫」については全音楽譜出版社から「自社から出てる歌曲とアーティキュレーションを統一してもらいたい」と依頼され,新版にはすでに 日本放送協会出版のものを付けているため,了承した。

とまあ考えてみましたが,どうなんでしょうか。ご存じの方が教えてくださるとありがたいです。


(2019/8/15追記)

Twitterで「せき」様からご指摘いただき,「グリークラブアルバム」と「グリークラブ アルバム CLASSIC」では,「『いつもいつも』以降ところどころ下3声の音が異なります。」とのこと。見比べると,確かに何箇所か違います。(私は楽譜を見比べる目がザルで,一目瞭然でないと無理です)。譜例は,特に意図はないけれど,「まろいまろい きんのたまだよ」の部分で,和音が複雑になっている。違うところは他にもあるが, こちらが新版だとすると,関西学院グリークラブ愛唱曲集「OLD KWANSEI (third edition)」も同じく。一方,「合唱文庫」は「グリークラブアルバム」と同じ。つまり,以下になっている。

  旧版 東京コラリアーズ合唱曲集,合唱文庫8,グリークラブアルバム

  新版 OLD KWANSEI (third edition), グリークラブ アルバム CLASSIC

念のため,音源をいくつか聴いてみるとグリークラブアルバムのLPは当然旧版(北村協一指揮関西学院グリークラブ),「関西学院グリークラブ100周年記念CD vol.2 林雄一郎合唱生活70年記念」は新版(林雄一郎指揮関西学院グリークラブ,1987年の第55回リサイタル),100周年のステージも同様(それにしても細かなアーティキュレーションを全て忠実に再現し自分のものとして歌い上げる関西学院グリークラブの演奏には脱帽するしかない。「独唱者がすべての表現をコントロールできる歌曲演奏と異なり,日本語表現にこだわりすぎると曲の持ち味を殺す危険性がある」などと推測を書きましたが,完璧な過ちにして暴言でした。謝罪します)。

 ということで,林と関西学院グリークラブは旧版を愛用したわけではなく,昭和34年時点ではそうだったのかもしれないが,その後は新版に移行したらしい。福永と北村がグリークラブアルバムに旧版を採用したのは,編曲の好みの問題か,愛唱曲集としての性格から音がシンプルな方が好ましいと考えたか。結局,よく分かりません。


(2019/8/22追記)

この件,自分でも収まりがつかなくなり,伝手をたどり関西学院グリークラブOBの方に問い合わせたところ,なんと,新月会会長の小池義郎様からご回答頂きました。

このような些末な問い合わせに真摯にご対応くださったことに,感謝いたします。

そのまま掲載することも考えましたが,自分なりに整理し随所に小池様のご回答を引用させて頂く形としました。

まずひとつ目のポイントは,「林雄⼀郎⽒は⼭⽥耕作に師事し,その⾳楽に深く傾倒されていたので,“⼭⽥耕作の⾳楽”を最⼤限に合唱で表現するために“過不⾜のない⾳づくり”に神経を使われたと推測します。」山田耕筰の楽譜を研究し,関西学院グリークラブでの実演を通じ,合唱表現のため編曲を見直しておられたようです。

そして「先ず認識することは,⼀般的に出版された冊⼦『ナントカ曲集』が改訂された場合等において,“旧版”“新版”“改訂版”とか⾔いますが,単なる“1曲”の場合はあまりこういう表現をしません」であるとのご指摘。確かにそのとおりで,私が旧版・新版にこだわったのは,福永陽一郎がいう「新版」とは「林雄一郎先生が構想新たに一から編曲されなおした楽譜」というイメージを持っていた。しかし,1つ目のポイントから明らかなように,林先生は「“⼭⽥耕作の⾳楽”を最⼤限に合唱で表現するために“過不⾜のない⾳づくり”に神経を使われた」のであり,「グリークラブアルバム」掲載のものから「その時々に“⼿を⼊れ直した”」結果として,「グリークラブアルバム CLASSIC」や「OLD KWANSEI (third edition)」に掲載された楽譜があり,これが「決定版と言えるでしょう」。

 小池様が承知している楽譜は,この2つ以外に「 関⻄学院グリークラブ60周年記念に作成された『関⻄学院グリークラブ男聲合唱曲集』に掲載されたもの*」があるそうですが,以上からこれも林先生が「時に応じて譜面を見直して手直しをされた」された結果の一つ,と位置づけられるとのこと。

 小池様は言及されていませんが,合唱文庫8のアーティキュレーションが付け加えられている楽譜も,もしかするとそのような位置づけの中で作られた楽譜のひとつなのかもしれません。

 決論として,旧版・新版というのは福永氏からみた見方であって,「関学グリーにおいても、旧版とか新版という捉え⽅はなく、その時の指揮者の考えで違った譜⾯を使⽤したかもしれません」ということらしいです。

 ということで「『からたちの花』旧版・新版問題」は,自分で火をつけたのだけど,これにて決着である。

* 念のため, この「関⻄学院グリークラブ男聲合唱曲集」演奏会は「関西学院グリークラブ80年史」に昭和34年8月1日に発行されたと記されており,福永の言う「新版」に当たらない。

 小池様からは音として「グリークラブアルバム」「グリークラブアルバム CLASSIC」と違う箇所をご教示いただき,林氏の編曲がどのように見直されていったかをしる上で興味深い。


22. 遥かな(る)友に

作詩 磯部俶

作曲 磯部俶

編曲 林雄一郎


 私が大学で合唱していた1970年代後半,アンコールやストームの最後にこの曲がよく唱われ,ハミングをBGMに幹事長など団の学生責任者がお客さんに御礼の言葉を述べる,というのがよくあった。今でもあるのかもしれないが,締めくくりとしてスタンダードナンバーだったこの曲,グリークラブアルバムでは少しややこしいことになってる。それは後述するとして,まず曲の成立経緯を作曲者の言葉を抜粋し説明する。

「昭和26年の早稲田大学グリークラブの合宿で,毎晩就寝のため寝床を取るとき,枕の数が足りないため取り合いの大騒動が起こる。磯部が静かな曲でも歌ったらと提案すると,そんな曲を作ってくださいと言われ,早々に作曲し4人のパートリーダーに唱わせると,とてもいいと喜んだ。内緒で練習し,翌夜にカルテットで歌って聞かせると大成功だった」


 これは「磯部俶『遥かな友に-我が音楽人生』音楽之友社(1991年)」を参照したものだが,のちにカワイ楽譜からでた楽譜のあとがきや,「早稲田大学グリークラブ100年史 輝く太陽」でも同様に記されている。「輝く太陽」には「パートリーダーの音域・力量を踏まえた作曲で歌いやすかったこと」「磯部は,合宿に参加できなかったメンバーへの思いやり云々が作曲の動機とのちに語っている」「(コールフリューゲル)との分裂騒ぎから体制を立て直し,なんとか纏まってきたグリークラブのメンバーへの切々たる思いが込められていると思う」も紹介されている。

 これらの情報と,「いそべとし男声合唱団」のホームページにある「磯部俶の男声合唱曲解説*」を参照すると,この曲の基本データは次の通り。記述の裏付けとなる初期の楽譜も一部示した。当初の作詞ペンネーム「津久井青根」を変更したエピソードから,NHKなどで何度か放送演奏したようだ。



* https://docs.wixstatic.com/ugd/e5c5f8_70062de9590e410b849d554e178f3fc2.pdf

 ここからグリークラブアルバムの話になるが,アルバム中である意味最も問題ある掲載になっている。まず磯部俶ではなく,林雄一郎が編曲した版を載せていること。そして,初期の刷では「遥かなる友に」と文語のタイトルになっていること。

 まず「遥かなる友に」について。同時期に福永のカルテット編曲を集めた「クワルテットハンドブック」にもこのタイトルで収録されている。グリークラブアルバムのU Bojの注釈に「邦語訳(正確に云えば作詞)で二種類出版されておりますが」と記している「二種類」のうちの一つは,「男声合唱曲『U Boj!』の謎」に記したように「合唱アルバム9 磯部俶編」だから,福永は「遥かな友に」のオリジナルの譜面とタイトルを知っていた。にもかかわらず,「遥かなる友に」を採用したのは,福永の語感ではこちらが適切と考えたからだろう*。しかし,例えそうであっても,タイトルをいじるのは仁義に欠けるように思う。

* 余談だけど,北杜夫に「白きたおやかな峰」という山岳小説がある。中学生でこの本を見たとき,読み方がわからなかった。「白きた・・おやかな峰?」。北は,このタイトルは文語と口語の混在であり,三島由紀夫から「白き たおやかなる峰」か「白い たおやかな峰」とすべきと指摘された話をエッセイに書いている。北は「文語+口語」のタイトルがしっくり来るし,そのような使用例もあると説明していた。


 編曲については,グリークラブアルバムでは原曲(当時)のA-durを3度上げたC-durになっている。これについて,福永はのちにグリークラブアルバムのLPで「ここでは男声合唱用としてより効果的な編曲を収録」と記しているが,タイトルに続き磯部の編曲に対し挑戦的。これについて磯部がどう思っていたか,「磯部俶の男声合唱曲解説」に説明がある。

「磯部先生のオリジナルではなく,林 雄一郎氏が勝手に関学グリーのために編曲し,関学グリーで歌われていたものを,作曲者の了解もとらずに『グリークラブ アルバム』に収録したもの。磯部先生が,「決してトップの張り上げた音色ではなく,優しく静かなハーモニーで」と意図して A-dur にしていたものを,3度も上げてC-dur にしてある。磯部先生は,合唱界の先達でもある林さんに遠慮して抗議はされなかったものの,編集者た ちには怒りを覚えていたという。」

 少し深読みすると,「クワルテットハンドブック」もまた挑戦的である。「この本の使い方」に「この本はクワルテットのために編曲されたものばかり集めてありますから,この本の曲をダブルクワルテット以上の合唱でうたっても,よい結果は得られません」と記し,第1曲に「遥かなる友に」を置いている。原曲は早稲田大学グリークラブのパートリーダーたちのカルテットとして初演され,のちに同じ楽譜で(ガリ版譜で)グリークラブ等で歌われたようなので,「カルテットと合唱で効果的な編曲は別」という福永の主張はもっともであるけれど*,これも挑戦的に映る(福永が初演のエピソードを知っていたのかは分からない)。

(2019/8/8追記)

福永は「合唱講座 1.理論編」(昭和33年(1958年)音楽之友社刊)の「男声合唱の編曲法」で次のように述べている。

「和声学的な言葉で言うと,合唱は開離位置で組んだほうがよいし,四重唱は密集位置で組まないと,散漫になってしまって,効果がないからです。四重唱の編曲は,進行が平行的ですが,合唱用には逆行的な方がよりよいのです」


 結果的に,タイトル(口語か文語か),合唱編曲(調の違い),カルテットは別編曲とすべし,の3点で福永が磯部を批判した形になる。なぜそうなのか,もう分からないけど,類推してみる。

 まず磯部の原曲は,あくまで早稲田大学グリークラブの「就寝の歌」であり,グリーの仲間たちに向け作られた歌である。 「トップの張り上げた音色ではない」A-dur とされたのも,当時のパートリーダーたちに歌いやすい音域を考慮されたのも,早稲田大学グリークラブという特定の組織のための歌だった。

 一方で,福永や林には当然そういう思いはないので,一般的な「遥かな友」に対する歌として捉え,調を変えたりカルテット向きに編曲することが合理的だったのだろう*。とはいえ,「作曲者に了解なく」は現在の視点からは不適切だった。

* 私は音響的な考察はできないので,誰かできるひとがおられたら研究してください。


 「遥かなる友に」のタイトルについては,深読みすると,戦争で死んでいった友たちへの思い,特にペンネーム安田二郎の由来となった最大の親友だった二人への思いを表すには,「遥かなる」という文語表現が適していると感じたのかもしれない。

 この表現はどこかの刷で修正された。遅くともカワイ出版から新刷がでた昭和49年(1974年)には「遥かな友に」とされた。

 磯部はのちに原曲をB-durに変更し,「いそべとし男声合唱団」や「グリークラブアルバム CLASSIC」にはこの調で収録されている。wikiによれば「1960年12月17日の早稲田大学グリークラブ第8回定期演奏会のアンコール」はB-durらしい。グリークラブアルバム初版が出た少し後のことである。「グリークラブアルバム CLASSIC」の山脇卓也氏の解説には「作曲者が作曲当初に意図し,後年実際に演奏したB-dur」とある。そうだとすると,磯部も本当はもう少し高い調にしたかったらしい。昭和26年のパートリーダーたちの音域を考慮した,当時の早稲田大学グリークラブへのエールとも言える。



23. 夕やけ小やけ(旧) 青蛙(新)

夕やけ小やけ

作詩 中村雨紅

作曲 草川信

編曲 福永陽一郎


青蛙

作詩 三木露風

作曲 山田耕筰

編曲 福永陽一郎


 グリークラブアルバムの初版・第2刷までは「夕やけ小やけ」,第3刷より「青蛙」に差し替えられた。理由は明記されていないが,著作権絡みと思われる。東京コラリアーズ合唱曲集第3集(カワイ楽譜,昭和34年4月刊)の「日本古謡民謡童謡」の章に,「版権*の関係で,予定していた「夕やけ小やけ」「出船の港」がのせられません。大変残念ですが,諒承してください」とあり,同じ理由と思われる。

* 多分,著作権の意味で使われている

 ただし,グリークラブアルバム初版も「昭和34年4月」と同年同月刊行なので,掲載・非掲載が分かれたのは不思議。許可が得られる予定で走っていたが取得できず,グリークラブアルバムでは変更が間に合わなかったか? それなら2刷で直さなかった理由が分からない。

 ありそうなりは,グリークラブアルバムを当初出版する予定だった合唱界出版社では取得できていたので*,カワイ楽譜が出版を引き継いだ際,著作権許諾もそのまま引き継がれると勘違いしていた可能性。音楽著作権協会から指摘され,変更したか。著作権について知らないので,よくわかりません。。

* 出版社の件については下記参照。

https://ameblo.jp/tonotono-57-oboegaki/entry-12395111198.html


 第3刷から「青蛙」に差し替えられたが,理由はなんだろうか。

まず「差し替え」と書いたけど,グリークラブアルバム初版の目次を見れば,前後の曲に変更がないため,この位置づけでよい(左表赤字で示した曲が,後に差し替えられた)。

 ページ数でみると,グリークラブアルバム1および2を参照すれば,「夕やけ小やけ」は1ページと2/3,青蛙は1ページ。ページ数的にはミスマッチ。

 次に,「夕やけ小やけ」という内容の類似性であれば,東京コラリアーズ合唱曲集第1集の 山田耕筰「夕焼けの歌」,または同「赤とんぼ」が考えられる。「夕焼けの歌」は東京コラリアーズ合唱曲集で2ページ,グリークラブアルバムなら1ページと1/3または2/3ぐらい。「あかとんぼ」はグリークラブアルバム2で2ページ。ページ数的には「夕焼けの歌」が最も近い。

 歌詩的には同じ「ゆうやけこやけ」で始まる「赤とんぼ」を持ってきたいところだけど,芸がないので同じ三木露風の詩につけた曲を持ってきたのかもしれない。


 「青蛙」について福永は

「この小さい童謡は,独唱曲としてはあまり唱われませんが,男声合唱には以前から数種の編曲があったようです」

と記しているが,それは確認できなかった。一般に流布した楽譜ではないかもしれない。


 ところで,日本の男声合唱曲には蛙を題材としたものが多い。少し考えただけで多田武彦,南弘明,堀悦子,高嶋みどりさんなどが思い浮かび,草野心平の詩に作曲されることが多い。この曲は蛙をあつかう合唱曲の先駆けとなったわけだが,素朴で味わいあるけれど,短く扱いにくい。「山田耕筰歌曲集」のようなステージで,間奏曲的な扱いで歌うのが面白そう。


24. 婆やのお家

作詩 林柳波

作曲 本居長世

編曲 福永陽一郎


 編曲もの・差し替え物と当事者以外にわからない話が続き,しかも資料がない中,状況証拠をもとに空想したのだけど,我ながら苦しい展開だった。

 「婆やのお家」はグリークラブアルバムに収録された日本人作曲家による最も古い合唱曲。そして,実は私がアルバムの中で最も好きな曲。派手な音や凝った演出はないけれど,穏やかに音を鳴らしながら歌い進むとき,しみじみと「男声合唱っていいよなあ」と思う。「グリークラブアルバムCLASSIC」に収録されなかったのは極めて残念(後述)。

 

 作曲した本居長世(もとおり ながよ)は,「七つの子」「青い目をしたお人形」「七つの子」「汽車ぽっぽ」など童謡の作曲家と思われているが,実は30曲程度の合唱曲を書き,日本の合唱界で初めてとなる功績がたくさんある。生涯と作品については金田一春彦「十五夜お月さん 本居長世 人と作品」に詳述されている*。金田一は,説明不要な著名な日本語学者であり,若い頃に本居の合唱団で歌っていた。本居は童謡についての功績が大きいが,以下では合唱と「婆やのお家」とその関連の話を書く。なお,本居長世は本居宣長の五代目の子孫であるが,直系ではなく宣長の養子だった本居大平の子孫。

* 以下,記述の大半はこの本と,金田一が編集した楽譜集による。多量の一次資料を駆使し,自身も親交があったため,本居に関しほぼ全てがわかる。この他の資料に松浦良代「本居長世 日本童謡先駆者の生涯」もある。松浦は三重県松阪市に「本居長世メモリアルハウス」という私設博物館を開いていたが閉館したもよう。


 本居の功績の一部について「最も古い邦人男声合唱曲は何か?」でまとめた*。リンク先では少し細かく議論したけど,日本人作曲家として初めて「男声三部」「男声四部」の無伴奏合唱曲を書いた。更に歌劇「宝船」のために書いた「宝船」は,ピアノ伴奏付き男声三部合唱で,作曲は「伝大正9年1月」とされており,邦人によるピアノ伴奏付き男声合唱曲として最も古い**。

 混声四部合唱曲「涙の幣(ぬさ)」は,「日本人の合唱曲が海外の合唱団に海外で日本語で演奏された」最初の曲とされている。楽譜の解説を抜粋引用する**

「大正2年2月作曲。長世のピアノの弟子だった元紀州侯徳川頼貞に送った曲。徳川頼貞はケンブリッジ大学に留学し音楽理論を研究した人で,南葵文庫を作り十数万部の音楽図書を集めた人。頼貞の弟である治が海外留学中に不慮の死を遂げ,その死を悼んで本居が大正2年2月に作曲した。大正3年「音楽」の5巻7号で公表されたが,前号に『ケンブリッジ大学のネナーという人が称賛し,彼の率いる合唱団が歌詞もそのままで歌った』と報じている」

 幣(ぬさ)とは,コトバンクによれば「祈願をし,または,罪・けがれを払うため神前に供える幣帛。紙・麻・木綿などを使う。」である。

 ちなみに,無伴奏混声四部とピアノ伴奏付き混声四部合唱は,ともに滝廉太郎の「四季」(明治33年(1900年))に収録されている第3曲「月」と第4曲「雪」。女声合唱は興味の対象外なので調査していない(冷たい)。

* https://male-chorus-history.amebaownd.com/posts/1357133

** 金田一春彦編「本居長世作品選集 (歌曲・合唱曲・仏教曲・御製御和歌)」より。これは男声三部だが,最初のピアノ伴奏付き男声四部合唱は,昭和8年(1923年)6月21日,日比谷公会堂にて開催された日独交歓合唱演奏会で初演された橋本国彦の「男声合唱とピアノへの小協奏曲」だと思われる。タイトルからピアノと合唱を同等に扱っており,ピアノを伴奏と呼んでよいか疑問で,ここでは「ピアノと男声合唱」としておく。


 本居は如月社*という合唱団を持ち,またユーフォニック・コーラス(後述)初期は彼が指導した。戦前の合唱指導について貴重な話が伝わっているので,金田一の本から紹介する。

* メンバーには三宅延齢,大和田愛羅,弘田龍太郎などがいた。

 「長世が指揮する合唱隊に入った人は,口をそろえて長世の指導が厳しかったことを言う。音感が鋭く,ちょっとした狂いも聞きのがさなかった。メンバーのうち一人でも,まちがった音を出すと,すぐに『そこ!』と指揮棒でさされた。まちがった音といっても,半音の半音ぐらいのちがいなのだが,彼は聞きとがめた。」

 半音の半音,1/4音は現代では相当な狂いで,逆にそんな器用な音は出せないと思うのだが,昭和初期はそれぐらいは小さな違いだったらしい。


「長世は完全主義で,その指揮は繊細だった。小さい局部的なことに注意が行ってしまって,大局からみると,必ずしも上手ではなかったようだ。(中略)タクトの振り方はきゃしゃで大舞台では小さい感じを与えた」

「これはコーラスではなく,オーケストラの指揮のことであるが,長世にとかく点の辛い堤徳三は,長世の指揮の仕方を批評して,長世は指揮棒を振っている自分の耳で聴いて,その印象をもとにして演奏家の位置を決めたり,強く弾け弱く弾けと命じている。しかし,指揮者たるものは客席にいる人にはどのように聞こえるかを判断して,演奏を考えにくてはいけない,と言っていたが,これは痛いところを突いていた。山田はこの点配慮があったそうで,長世はとかく感情的であると同時に,主観的なところがあったようだ」(原文の一部を意味が通りやすいよう修正)


 この後,金田一は本居から受けたおもしろい練習の一つを紹介する。

「昭和十年ごろであったか,長世からおもしろい合唱の訓練を受けたことを記しておきたい。彼によると,例えば『朝の海』を日本語では『アサノウミ』というが,『朝の海』という言葉の意味をかんがえてみると,けっしてこれは理想的な音ではないというのである。暗い夜が明けて明るくなるのだから,『ウサ』という方がよろしい。一方,『海』は広いところだから,『ウミ』と狭い音で言うのはまずい。口を大きく開いて,『アマ』といった方がいい。従って,『朝の海』というのは『ウサノアマ』というべきだというのである。もっともこれは主旋律がそう唱えるので,他のパートはまち違った音を出してその調和を味わおうという試みである」

 なんだか吉本隆明が「言語にとって美とはなにか」の中で,海の語源は古代人が海を見て「ウッ!」と言ったからかもしれないと書いていたが,なにか似たような話である。しかし,この練習は次回は本居の考えが変わり,行われなかった。金田一は言語学者らしく,この言葉と音の扱いについて短い考察を記している。


 この本には同時代の指揮者の指揮ぶりがいろいろ載っている。長くなるけど面白いのでこれも引用する。

「平井賢によると,山田(耕作)は,指揮者はステージで観客に背中を見せる,だから後ろ姿こそきれいでなければならないと言って,後頭部の髪を全部剃り,頭全体に卵の白身を塗りつけて,シミをとり,光沢を出してステージにのぞんだ。指揮棒の振り方も苦心のもので,指揮棒をまず右後ろにやり,さっと正面に出す。その仕草がまずきれいだった。ついで堂々と指揮棒を振る」指揮が格好良く見えるよう,山田は自宅で練習していた話も紹介されている。

「長世と山田と両方の合唱指揮を受けたことのある芦野斐子によると,山田はいっさい細かいことを言わず,大きなところだけを注意し,そこだけ注意すればあとは適当にという感じだったという」

「芦野によると,弘田龍太郎は,ふだんは風采も上がらず,姿勢も悪くぱっとしない人だったが,指揮棒を持つと別人のごとくシャンとなり,人を感服させた。ときには口汚く罵倒することもあったが,言うことはもっともで,言葉に服さざるをえなかったという」

「同じく芦野の言で,山田と並んで感心したというのは,小松平五郎で,運動神経のある人で,途中で足を上げたり,見ていておもしろい,見事な指揮ぶりだったという。(中略) 藤井清水は熱がこもらず,声が合っていなくてもとがめることもしなかった。棒の振り方もぎこちなかったという」

 小松平五郎は小松耕輔の弟で作曲家。芦野斐子の感想として記されているので,参考として読むのが良い。例えば藤井清水には違う印象記もある。彼の曲はグリークラブアルバムに収録されておらずこの項目では取り上げられないが,別項で紹介しようと考えている。


 「婆やのお家」は昭和5年(1930年)10月に作曲された。年表をみると,昭和4年2月から林柳波(はやし りゅうは)の詩に続けで5曲作曲し,この曲以外は童謡だった。年表ではこの曲も童謡とされており,当初は男声合唱曲ではなく童謡だった可能性がある。そもそも,昭和9年に雑誌「シャボン玉」に掲載された「主要作品リスト」では,大正12年以降ここまで合唱曲を作っておらず,その後も翌年の「荒城の月」編曲しかない*。

* 男声合唱曲について「初めて」をほぼ独占的に成し遂げた本居だが,荒っぽく言うと合唱(歌劇中の歌も含めて)は前半のしごとで,後半は童謡に注力していた。「本居合唱曲集」が2巻刊行されたが,大正9・10年のことである。金田一は3巻まであると記しているが,年表には記載がない。


 金田一の本ではこのあたりが曖昧なのだけど,男声合唱曲「 婆やのお家 」は,以下3点から原曲は童謡だと考える。

 まず,楽譜は作曲から5年後,昭和10年11月に童謡雑誌「シャボン玉」53輯(しゅう)で発表されているが,童謡雑誌に男声四部合唱の楽譜が載るのは違和感がある(ないとはいえないが)。

 二つ目は,国会図書館の歴史的音源にオリオンコールが昭和8年に吹き込んだ男声合唱のSPがあり,記録は「林柳波[作詩] 本居長世[作曲] 本居長世[編曲]」となっており,童謡として作曲したものを後に自身で男声合唱編曲したと読むことができる。

 決定的なことは,ユーフォニック・コーラスのリーダーだった北沢宏元の証言である。「合唱曲『婆やのお家』を作ったときは,合唱団のメンバーを脇に立たせ,片手でちょこちょこと譜を書いて,見る間にあの曲を作り歌わせた」

 ユーフォニック・コーラスは,東大生を中心とした男声合唱団だったが,団員が減少し昭和7年に男声カルテットに移行,ユーフォニックと称したのが母体。昭和10年には30名程度になるが,昭和7年の同団創生の頃,歌手藤山一郎に合唱指導者として本居を紹介してもらい,指導を仰ぐようになった。ゆえに,北沢の証言は昭和7年以降の話であり,既に童謡「婆やのお家」は昭和5年に作曲されていたわけだから,作曲ではなく編曲だったことになる。おそらく,ユーフォニック・コーラスを指導するため,本居がこの曲が適当と考え,編曲し歌わせたのだろう。

 この男声合唱曲は,ユーフォニック・コーラスだけでなく如月社やオリオンコールにも歌われた。オリオンコールも本居の作品発表会で男声合唱を担当し,この曲を歌うほか,SPも吹き込んでおり,本居と関係が深かった。


 これらの団が楽譜を持っているのに不思議はないが,関西学院グリークラブや同志社グリークラブ,慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団なども戦前から歌っている。金田一の資料を読んでも,男声合唱版の「婆やのお家」が出版された記録がない。では,大学合唱団はどうやって楽譜を入手したのだろうか?

 「婆やのお家」関係の出来事を年表にまとめた。まず注目するのは,関西学院グリークラブのこの曲の初めての演奏記録が昭和10年2月であること。雑誌「シャボン玉」で楽譜が公開される11月(10月?)以前のことで,掲載楽譜が仮に男声合唱であっても,この楽譜が使われることは時系列的にありえない。

 そこで注目すべきはオリオンコールで,彼らは昭和8年の演奏会で演奏したあと,翌年4月の「本居長世作品発表会」でも演奏,そして8月にSPを吹き込んでいる。これは「婆やのお家」と「権兵衛が種まく」をカップリングし発売された。男声合唱の「権兵衛が種まく」は,拙稿「『権兵衛が種まく』の研究*」で述べたように,原曲は大正4年に出た「権兵衛と田吾作」であり,その名で昭和初期にはいくつか楽譜が出ている。原曲のタイトル「権兵衛が種まく」にしたのは,オリオンコール版とされる楽譜で,出版は昭和15年のこと。

 関西学院グリークラブは,「権兵衛と田吾作」を大正7年にこのタイトルで演奏,久々に昭和11年に歌ったが,タイトルは「権兵衛が種まく」とオリオンコール版と同じである。

 このことから,関西学院グリークラブが昭和10年以降「婆やのお家」と「権兵衛が種まく」を何度も演奏しているのは,このSPの影響であることは間違いない。昭和15年からは「林雄一郎編曲」がクレジットされているが,それ以前の演奏も編曲版だった可能性はのこる。(2019年8月28日追記参照)

* https://male-chorus-history.amebaownd.com/posts/1576647

 若干の補足についてはhttps://ameblo.jp/tonotono-57-oboegaki/entry-12388208722.html


 そうすると,関西学院が楽譜を入手したのは以下の3つが考えられる。

  ① SPに楽譜が付属していた

  ② オリオンコールまたは本居に依頼し楽譜をもらった

  ③ SPを聴音し楽譜を書き取った

どれもありそうだが,ここでは①を押すことにする。同志社やワグネルも歌っており,また他にも楽譜が広まっていた可能性があり,何らかの形で公開されたとするのがもっとも有り得そうである。


 ここからやっと,グリークラブアルバムの話になる。グリークラブアルバムには,福永陽一郎が編曲した版で載せられている。その他の譜例と合わせて示した。他の3例では差は殆ど見られないが*,福永版ではこの一段を示すだけで音の変更,第一小節のデクレッシェンド付与,「茶ばたけの」のデクレッシェンドを取りmfを付与など,多くの変更が見られる。グリークラブアルバムLPでは「昭和10年代から愛唱されているオリジナルの男声合唱曲。ここでは,多少,時代色を反映した新編曲がもちいられている」としている。音については,全体にシンプルな和音に変更している。

* 山本芳樹編の楽譜は出版年不明だが,戦前のこの本以外には載っていない訳詞の曲を多数収録しており,この楽譜も古いものが原型と思われる。速度記号「4分音符=約69」はこの楽譜以外には譜例がないが,カワイ合唱名曲選集M9の編者山本金雄は「この曲は4分音符=72位が適した速度であり」と記しており,もしかするとSP版にはそのような注釈がついていたのかもしれない。金田一によれば「本居は強弱の変化に注文がやかましく,また一曲中にめまぐるしく緩急の変化をつけるのが好きで,この曲にも緩急の変化をうるさく指導した。普通の人だったらもっと遅く歌うだろうところを『速く』と注文することが多かった。」らしいので,それに則った指示かもしれない。
 金田一の譜例は,出版年は新しいが如月社の資料によるもので,原典の信頼度が高い。

 更に,アーティキュレーションについては,ほぼ全面的に書き直していると言ってよいぐらい,多くの変更がある。特に「ああそうだった思い出したよ 尨犬は今もいるかね」の「思い出したよ」と「尨犬」の間に,原曲にないG.P.(ゲネラルパウゼ)を置いている。いずれも福永の演奏上の解釈によるものだろう。だが,原曲の楽譜は意識して探さないと手に入らないのに対し,グリークラブアルバムは1978年のグリークラブアルバム2の出版時点で「6万冊近く」出た。福永の意図ではないにせよ,結果的に本居の原典を塗り替えてしまった形になっている。これは大袈裟に言うと,滝廉太郎の「荒城の月」は,滝の原曲に山田耕筰が手を加えた「改定版」が現在では歌われているのと,似たことになるかもしれない(wikiなど参照https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%9C%88)。冒頭に記したように,福永版で感動していた私は偉そうなことを言える立場ではないけれど,やはりオリジナルは大事にしたい。

 楽譜を載せようかと思い調べたところ,本居の著作権は消滅しているが,作詩の林柳波は著作権が生きている。なので,ここでは本居版の男声合唱譜が掲載されているホームページにリンクを貼ることでお茶を濁すことにする。機会を作り原典版で歌ってみたいと思う。

http://www.ne.jp/asahi/sayuri/home/doyobook/doyo00utanohon.htm

 

(2019年8月28日追記)

なんとなく「グリークラブアルバム1」(通算第73刷)を眺めていて,この曲の編曲者が福永陽一郎から林雄一郎に替わっているのを見つけた。いつ変更されたかは分からない。前述のように,昭和15年に関西学院が「林雄一郎編曲」でこの曲を歌っているので,その版かもしれない。

 ざっくりとみて,音の変更は福永版より少ない。アーティキュレーションの変更も,比較的少ない。福永が ゲネラルパウゼを入れた箇所は,小節間のフェルマーターになっている*。なお,「村の子に おしえられたよ」の「おしえられた」と,最後の「みんなしってる」の「みんなしって」のテヌートは,どちらの編曲でも省かれている。昭和27年に出た「合唱アルバム9」(磯部俶編)の楽譜では,「おしえられたよ」にはテヌートがなく,「みんなしってる」にはテヌートがある。

 また,山本芳樹編と同じく,速度記号「4分音符=69」が付されている(楽譜では2分音符になってるけど,間違いでしょう)。

 楽譜中に何箇所かFastやSlowと記されているが,原典に近い楽譜には記載がない。原典に近い楽譜で「ああそうだった思い出したよ 尨犬は今もいるかね」の箇所の「思い出したよ」には「やや急いで 自由に」とあり,「尨犬は」は「ゆっくり molto espress.」とある指示が,それぞれFastとSlowに「単純化」されている。本居は「この曲にも緩急の変化をうるさく指導した」と金田一が述べているので,その指示が反映された書き込みとも言えるが。

* ゲネラルパウゼでは実際に音を止めないといけないが,フェルマータなら「そこで音楽を止める,区切る」の意味なので間のとり方は指揮者の感性による。


25. 柳河

これについては,長くなるので別項目とする

以上

日本男声合唱史研究室

日本における男声合唱史の研究 Study on male chorus history in Japan 主として明治期から1980年頃までの,日本の男声合唱について資料調査したことを中心にアップしていく予定です。いわば,私家版の「日本男声合唱史」を作る試みです。 タイトルは思い切り気張ってみました(笑)。 2024年4月15日から「無料プラン」の仕様が変わるため,構成を組み替えました。

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