グリークラブアルバムの研究 (総論)
序
グリークラブアルバム(以下,断りがない限り「グリークラブアルバム」とは現在の「グリークラブアルバム1」,赤本を指す)は,福永陽一郎(以下,人物の敬称は省略させていただきます)と北村協一の共編になる男声合唱曲集で,1959年(昭和34年)に最初の版が出た。その後何度か改定されながら版を重ね,1950年台にたくさん発行された男声合唱曲集の中で,今も入手できる唯一の曲集である。戦前からの愛唱曲が多く収録され資料的・歴史的価値は高いが,初版から60年近く経ち現在の男声合唱団の趣向とは不一致な曲も目立つ。そのためか,2016年には広瀬康夫・伊東恵司・山脇卓也の共編で「グリークラブアルバム CLASSIC」として,グリークラブアルバム1~3から抜粋した定番中の定番作品を選んだ曲集が発行された(「グリークラブアルバム2」は1978年,「グリークラブアルバム3」は1981年に発行された)。おそらく,新しいグリークラブアルバム発行するための布石であろう。グリークラブアルバム1~3は廃刊になる可能性もあり,広瀬たちの言う「グリークラブアルバム CLASSICを編み先人へ敬意を表すことが必要であろう」にならって,先人への敬意を表す意味でその価値を考察しておきたい。
グリークラブアルバムに関し,まず思うことは何故1959年(昭和34年)に男声合唱曲集を出したのか,ということである。後に詳しく述べるが,昭和20年代には戦前と状況が一変し多数の男声合唱曲集が出版された。福永自身も,グリークラブアルバム出版の2年前,1957年に「東京コラリアーズ合唱曲集1」を出している(年に一冊のペースで5巻まで出た)。しかも,この曲集の巻頭に「合唱曲集は良い出版形態とは考えておらず,ピース楽譜が理想」と述べており,合唱曲集に賛成ではなかったにもかかわらず。
二つ目の疑問は,最初の疑問とかぶるが,グリークラブアルバムを出した目的はなにか,何を目指して出版したのか,ということ。多数の男声合唱曲集が出ている中,福永はどんな思いをこの曲集に込めて出版しようと考えたのか?
出版社のカワイ楽譜の視点にたてば,グリークラブアルバムが他の曲集に「勝って」,売上と利益をもたらすための戦略は何であろうか。結果的に言えば,当時出ていた曲集は全て無くなりグリークラブだけが現在でも版を重ねているということは,当初の目論見が正しかったわけで,編集と出版の意図を探る必要がある。
最後の点はマイナーなことではあるけれど,なぜこの曲集は「グリークラブアルバム」と名づけられたのだろうか。現在でも商品のネーミングは意外なほど売上に影響を与える。福永たちが意図的であったかどうかは別として,名付けられた理由とその効果をみておくことも必要である。
以上の切り口で分析し,グリークラブアルバムの価値を浮き彫りにしていきたい。しかしその前に,背景として明治期から昭和30年頃までの日本の男声合唱について,男声合唱曲集の視点からまとめておく必要がある。これは大きなテーマで本来は詳細な検討と論考が求められるけれども,大きな流れを理解しておかないと分析が独りよがりなものになる。まずはその点を簡単に整理する。
I.戦前の男声合唱(男声合唱曲集の視点から)
戦前の男声合唱について書かれた文章を読むと,「男声合唱のための楽譜がなかった」という,深刻な悩みが目につく。堀内敬三は「合唱譜であればなんでも歌った」「当時は『中等唱歌集』や『女声唱歌』の曲を歌った」としており,混声や女声の曲集を男声で歌ったと記している。田中信昭や多田武彦の母校である旧制・大阪高校の校史では男声合唱について「グリークラブでシューマンの「流浪の民」のアルトパートを歌っていた」という思い出が語られている。
「男声合唱したい人がいたのだから,楽譜ぐらい出せばよかったのでは?」と疑問が湧くが,当時は女声合唱の市場は大きく男声用の市場は相当小さかったというのが実態のようだ。
実際,「合唱という言葉はいつごろから使われたか」で述べたように,明治33年には多数の合唱曲集(重音唱歌集)が出版され,国歌「君が代」にさえ合唱譜があった。しかし,それらは混声か女声向けで,明治時代に日本で出版された男声合唱曲は,マルシュネル「さよ歌(Ständchen)」,メンデルスゾーン「船路 (Wasserfahrt)」「霊泉 (Comitat)」,ジョーンズ「望みの島」,クロッス「墳墓の寂寞(Grabes Ruhe)」など数曲しかない(*1)。
*1 未見だけど「餅と餡ころ」という男声四部の曲があり,これは「Glory! Glory! Hallelujah!」の替え歌だったらしい。どんな歌詞か是非楽譜を見てみたい。
理由の一つは,女学校では情操教育の一環として合唱が取り入れられていたことであろう(*2)。当時たくさん合唱譜を出していた共益商社は,音楽出版社というより教科書会社だった(創業者の白井錬一は数学塾の元経営者)。出版社も事業だから,売れるところに力を入れる。女声合唱の曲集やピース楽譜が多くでたということは,それだけ市場があったからである(*3)。
例えば,私が古書店で購入した女声合唱のピース楽譜には,クラスと名前入りのものが何冊かある。そのうちの一冊,初版大正14年の「シューマン作曲 石倉小三郎訳詞 女声三部合唱『流浪の民』」は昭和4年に38版というスピードで版を重ねており,人気のほどが伺える。この頃に女学生だった私の祖母は,学校で習った石倉小三郎訳「流浪の民」のアルト・パートを60年以上たっても歌うことができた。
* 2 滝廉太郎の「花」を題材に橋本治が面白い考察をしている。橋本によると,「花」が出版された明治33年(1900年)頃,つまり日清戦争と日露戦争の間の頃,小学校で唱歌を歌い終わると,軍歌と江戸以来の三味線音楽(小唄や俗曲など)しか歌がなく,若い女の子のための歌が一つもなかった。明治30年(1897年)に島崎藤村が若菜集を出し,「初恋」という詩(まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき・・)でみずみずしい恋愛感情を初めてうたった。「花」の作詞者であり東京女子高等師範の先生だった武島羽衣は「きれいなものって必要だ。私だって私にふさわしい感動がほしい。私だけじゃない,これからの日本をになっていくような若い娘達にはもっともっと”美しいものに感動する心”というものが必要だ」と思ったと(橋本治「恋の花詞集」)。
いかにも橋本的な言い方だけど,的を得ていると思う。小学校を卒業した女生徒に,洋楽の「モダンな」メロディー,美しく共感できる歌詞,心地よいハーモニーがいかに魅力的だったかは想像に難くない。
* 3 戦前の教科書といえば「国定教科書」というイメージがあるが,1902年(明治35年)に教科書採用についての贈収賄事件が起こり,文部省が教科書を国定化するまでは認可制で,膨大な教科書や補助教科書が刊行され,唱歌教科書だけでも225冊あったという。
音楽は国定にならなかったが,明治44年から大正3年にかけて作成された「尋常小學唱歌」が実質的には国定教科書のように使用された。
一方で,男声合唱はどうか。男子校(という言い方は不適当かもしれないが)でも,もちろん音楽の授業があり,当時の教科書をみると,ウェーバーの「狩人の合唱」を三部で歌う実技が課せられたりしている。共益商社の楽譜「スクールピース」は,女声用ではなく同声用とされており,「男子用の教材にもなる」ことが明記されている。女声向けほどではなかったかもしれないが,学校向け市場が存在した。しかし,2部または3部合唱に留まる以上,あえて専門の(男声四部の)楽譜を出さなくとも女声用楽譜を同声用と読み替えて男声用にも使うことで,手間暇をかけることなく対応されていたようだ。
ピース楽譜の一つであるシンキョウ合唱曲は,昭和2年の広告で女声17曲・混声17曲・男声2曲を掲載しており,男声曲の少なさ(商売のなりにくさ)が現れている(*4)。 つまり,本来のスタイルである男声四部合唱は趣味のものとされ,授業用としての市場ほどは売れない,と判断されていたのだろう。
*4 橋本の考察を受ければ,軍歌という「男らしい歌」があったことも,合唱に興味ひかれる男性を減らしたのかもしれない。戦前は,大正時代を除き,軍歌が民衆の娯楽として大きな役割を担っていたことは,辻田真佐憲の「日本の軍歌」に詳しい。
当時のピース楽譜としては,ワグナー「船乗りの合唱」,グリーク「美しきトレー」,ウィテリング「秋晴れ」などがあった。
この状況に輪をかけたと思われるのが,関学や同志社などキリスト教系学校の男声合唱団で,ここでは男声合唱団は賛美歌を歌うことから始まった。同時に,外国人教師から海外の(主として米国の)男声合唱譜をうけとり,歌うことができる環境にあった(*5)。「楽譜がない」ことを残念がりながらも,混声譜を無理に歌うようなことは,ほとんどなかった。大正期に入ると,海外から楽譜が手に入る用になった(*6)。そのため国内で販売される男声楽譜を買う動機が下がり,更に市場を小さく見せた。今に至るまで,「男声合唱の楽譜は売れない」と言われる萌芽である。
欧米の楽譜を輸入し歌うことができる大学男声合唱団の特異的なポジションは,レパートリーに比較的恵まれたため,邦人男声合唱曲に依存することが少なく,そのため楽譜も出版されないという,ある種の悪循環も作り出した。昭和30年頃でも「男声合唱団には日本人が作った曲など,頼まれでもしない限り歌わない気質がある(福永陽一郎)」状況だったらしい。清水脩の「月光とピエロ」が商業的成功をおさめるまで作曲家も男声合唱曲に関心を示さなかった。
なお,出版社の名誉のために言っておくと,決して男声合唱曲に無関心だったわけではない。例えば,同声合唱曲集に男声合唱曲の部を設け12曲を収めた井上武士の「四部合唱曲集」(1924年(大正13年)),男声・女声・混声を一冊に収めた中田章校閲「特選著名合唱曲集」(1921年(大正10年))には男声5曲が載っており,大正年間にはある程度まとまって男声合唱曲を入手できるようになった。
*5 原語で歌うことは早くから行われていて,グリークラブ発足以前の明治39年に関西学院で「God be with you till we meet again」が,明治45年に同志社グリークラブがタウナーの「希望の島」を英語で歌ったという記録がある。
当時のレパートリーを見ると英文やドイツ文,そして外国語カタカナ書きタイトルの曲が幾つかあり,原語歌唱は明治期から早くから行われていた可能性はある。ただし,プログラムに曲名が外国語で書かれていても実際に何語で歌われたかは,このような記述がない限り確かことは言えない。
*6 輸入楽譜について大学男声合唱団の部史に記載がある。
「ターナー男声曲集Music Lover's Libraryぐらいしかない (大正4年 同志社グリー)」「Oliver-Diston出版の男声合唱曲集が数冊,元町の三木楽器店に入荷した。それらを他校の合唱団に渡すまい,と(中略)全部,買い込んできた(大正8年 関西学院グリー)」
「今迄は何を歌っても聴衆は喜んで呉れたが,もう飽きが来て喜ばなくなつたので,選曲に苦心を感じた。(中略)此を打開する為,ドイツ合唱曲を研究し始め,直接外國から樂譜を取り寄せる事に努力した。しかし,当時の一般人は未だドイツの高踏的合唱曲には無知であり,アメリカ合唱曲のみを愛唱してゐた。(大正10年 同志社グリー 山口隆俊)」
グリークラブアルバムにも「50年ほど前に(つまり1910年台に)輸入されたパークスの合唱曲集」の記述があり,大正年間には海外から楽譜を入手することができた。ドイツからLiederschatzが輸入され,旧制高校や大学の合唱団でおそらくドイツ語で歌われていたと思われるが,資料を持っておらず引用できない。
林雄一郎も昭和7年の夏休みに三木楽器に注文して入手したドイツの合唱曲集「Volksliederbuch für Männerchor」の610曲を研究したことが,後の関学トーンに繋がったとしている。
先に述べたように,大正時代になると一部に男声合唱曲が収録された曲集も出て,そしてついに待望の男声合唱曲集が出版されるようになった。調べた限りで最も古いものは大塚淳「男聲用聖歌集 第一編」(シンキョウ楽譜)で,残念ながら実物は未見だが,大正11年発行の「特選著名合唱曲集」の巻末広告に掲載されており,それ以前の発行である。大塚淳(おおつか すなお)は東京音楽学校の教授で,在学中から30年以上に渡って慶應義塾ワグネル・ソサィエティーの合唱とオーケストラを指導・指揮した(1935年(昭和10年)に「大塚淳先生御指導30周年記念」と題した謝恩演奏会が開かれている)。内容は分からないが,タイトルからするとドイツ・ミサのような宗教曲を収めたものであろう。第一編とあり,第二編が出ていた可能性もある。
続いて,山口隆俊「男性の歌(The songs of the male)」が1926年(大正15年)に,大塚淳「男声四重唱曲集 第一編・第二編」が1928年(昭和3年)に出版された(共に共益商社)。ホームページのトップ画面写真はこれらの曲集を配置したものである。これら初期の男声合唱曲集の詳細は別の項目で詳細に論じるが,ここでは秋山日出夫が書いた昭和のはじめの状況に関する記述(合唱サークルvol.2 no.9 p.66)で紹介する。
「『男声四重唱曲(1)(2)』 大塚淳編
リーダー・シャッツを日本人向きに移調して親切な明解な訳詞がなされていて,当時の男声合唱団体に大変喜ばれた出版です。
『男性の歌』 山口隆俊編
男声を男性としたところに山口氏独特の解釈があったらしいのですが,同志社時代のレパートリーに加えて山口氏独特の作詩訳詩をつけ,主としてドイツの曲で,私達東京リーダー・ターフェルフェラインの重要レパートリーとなった名曲が揃えられていました。」
若干補足すると,大塚の「男声四重唱曲集」はドイツの合唱曲を中心に飯田忠純(いいだ ただずみ)の訳詩(当時の言い方では訳歌)を付けたもの。飯田は慶應義塾の西洋史出身でイスラーム史を専攻,冨山房で勤務する傍らイスラーム音楽を研究。洋楽評論家としても活躍した。
何曲かは慶應ワグネルの定演で歌われており,実際に歌わせた上で曲集を編集している。テノールが高すぎると思われる曲は音を下げて編曲しており,当時の日本人の音域に合わせたのか,慶應ワグネルの音域に合わせたのかは定かではないが,秋山の記述からすると前者であろう。1・2集合わせて42曲を収録。
山口隆俊は大正10年頃の同志社グリーで活躍した人で,卒業後に東京に出て電気商会の設計部に入り,秋山と知り合って東京リーダーターフェル・フェラインを設立した。「男性の歌」は山口が同志社グリー時代に歌って良かった25曲を収めている。キリスト教関係の曲が半分程度あるが(同志社グリーの十八番「詩篇98」も収録されている),滑稽な歌もある。重厚な作りが売りの共益商社の本にしては,表紙はペラペラ,絵は山口の妹が描いたもので,また日本語部分はカナ文字でタイプされており,山口の持ち込み企画か自主出版本に近い扱いだったと思われる(「男声四重唱曲集」にこの本の広告が載っているが)。
秋山がいう「独特の解釈」とは,「『私は声という字を使いたくない。どう考えても性を使うべきだ。女性も然り。男の声による合唱じゃない,男たちの合唱じゃないか・・』と山口氏。たしかにメンネルコールというドイツ語をそのまま訳したって男性合唱となる(合唱界 vol.5 no.3)」である。しかし「『混声』を『混性』というのも変だし」ということで,男声ということも許容されていたらしい。
それからしばらくは男声合唱曲集はみあたらないが(*7),昭和12年に東京音楽書院から「新男聲合唱曲集1」が出た。東京音楽書院は1933年(昭和8年)に内藤健三がセノオ楽譜から独立して設立した出版社で,合唱曲集や歌曲集を中心に出版した。内藤は緒園凉子(おぞの りょうし)のペンネームで曲集に多数の翻訳を提供した。
この曲集は楽譜内に原語(英語)と日本語訳を併記している点が新しい(「The songs of the male」も一部の曲に併記)。収録する17曲のうち,緒園の訳が3曲・妹尾(せのお)の訳が3曲・近藤朔風の訳が2曲で,セノオ楽譜が協力したと思われる(無断で使用できないはず)。2以降が出た可能性もあるが未見。
東京音楽書院はこの少し前に津川主一の「合唱名曲選集」も出し始めた。うち第3巻と第6巻が男声編で,カタログには「各20曲を収録」とある。戦後に音楽之友社から「改訂 合唱名曲選集」として改訂版が出されたが,こちらは第3巻が15曲,第6巻が17曲。東京音楽書院版と違いがあるかもしれない。津川について丸山忠璋「津川主一の生涯と業績」が最近出たが,多数の合唱曲を翻訳し解説も加えて紹介した功績など、簡単には紹介しきれない。
*7 戦前の男声合唱曲集を探すのは結構大変で,見つかっていないだけかもしれない。他にもご存じの方がおられたら,ぜひご教示ください。
戦前に出版された最後の曲集は、1943年(昭和18年)に国民音楽協会から「国民男聲合唱曲集」として出された(*8)。当時の国民歌謡運動を踏まえた国策の曲集で,収録された曲は「愛國行進曲」「海ゆかば」「進め一億火の玉だ」というものが多く,さもありなんという感じだが,シューベルト「菩提樹」ウェルナー「野中の薔薇」グノー「兵士の合唱」などドイツ語圏の古典もおさめられている(当然英語の歌はない)。矢田部勁吉などが編者で,序文に合唱音楽は完全な協調融和のもとに成り立つものだから「今日の国民生活に肝要な團結・規律・協力の精神,および今日の國防上・産業上に映くべからざる鋭敏な聽覺は,合唱音樂の實践によつて必然的に錬成せられるのである。」と述べている。苦し紛れの言葉にも聞こえるが,このような言い方が奏功して,戦時下の合唱は案外と行われていたようだ。なんとなく,「この非常時に歌など歌ってけしからん!」と言われていたようなイメージがあるが,そうではなかった(*9)。このあたり,研究もたくさんあり,また面白い資料もいろいろあるのだけど話がそれすぎるので,ここではこの程度に留める。
*8 「国民女聲合唱曲集」「国民混聲合唱曲集」も出版された。
*9 実際,東西四大学の学校は昭和18年に演奏会を開いている。
関学は昭和19年にも開催している。
II.グリークラブアルバムが発行された頃の男声合唱界
男声合唱の楽譜があまり出版されないという状況は,戦後一変する。一言で言えば,伝統ある大学男声合唱団の復興と,戦後の開放的雰囲気の中で次々と新しい男声合唱団が設立され,各団の人数も文字通り「うなぎのぼり」であったため,男声合唱楽譜市場が一気に広がった。新しい団は楽譜のストックもなく,格好の売り込み先となる。
この点を,可能な限り定量的にみていく。まず,この図は何年にいくつの男声合唱団が創立されたか(左Y軸),その累積(右Y軸)をプロットしたものである。
1899年の関西学院グリークラブから始まり,戦前は年に1団程度の創立であったが,1945年の終戦後に多くの大学や一般の男声合唱団が設立されたことが分かる。当時の雑誌や新聞をみればこの時期に「うたごえ運動」を含め合唱が急速に盛んになっていることが伺える。高等学校でも合唱団が設立されただろうから,実数としてはもっと多い。
さて,グラフを先に出しておいて恐縮だが,こういうグラフを作るのは結構悩む。
まず,1つめの課題は「いつ設立されたか」の決定である。部によっては「設立集会」と「活動開始」の年が異なっている事がある。部史等に「何年設立」と明記されていればそれが採用できるが,そうでない場合もあり,その時は「活動開始」の年を設立年とした。具体的には,練習を始めた・演奏会を開いた等の記述がある年を採用した。
2つ目の課題は,ある大学で戦前にあった合唱団が消滅し,戦後に新しく設立された場合の扱い方である。大正時代にできた男声合唱団が戦前に解散し,新しい団が戦後にできた場合で,この場合は戦前はカウントせず設立は戦後とした。
これは男声合唱の活動度を評価するため,少なくとも昭和30年頃までは活動していた團を数えることとしたため(結果的にほとんどが現在も継続して活動している団になる)。そのため,戦前のみに存在した団は,オリオン・コールのように重要な男声合唱団であってもプロットしていない。
したがって明治大学グリークラブも団史にある通り1960年の成立とした。明治大学では1929年(昭和4年)に明大合唱団としてメンネル・コールが発足したが,翌年に女子部ができ,1932年(昭和7年)頃からは混声合唱団として活動し(合唱界vol.8 no.7),戦後に明治大学混声合唱団から別れる形でグリークラブが誕生した。戦前に男声のルーツがあるのは確かだが,一旦混声へと発展的解消しているので,1929年の発足はプロットしていない。
消滅した合唱団を入れれば,戦前の合唱団数はもっと多くなる。取り扱いに悩むところだが,ここでは戦後を中心にみるため戦前の精度は犠牲にしているとご理解ください。
次の図は,男声合唱団の人数推移を示したもので,赤線はプロットをなだらかに結ぶ加重平均曲線である。1915年は20人程度だったが1940年頃に40人を越え戦前のピークとなるが戦時下は1945年に向けて減少,終戦後は急速に人数を増やし1955年で90人程度まで拡大している。100人を超える男声合唱団も幾つかみられ,興盛ぶりが伺われる。
ただし,盛んであったことは事実だが,特に男声合唱だけが盛んだったわけではない点に注意。混声や女声との比較や,「うたごえ」運動との比較も必要である。また,当時は戦後の「学園復興」の機運の中で他のクラブも人数を増やしている。「男声合唱が特に盛ん」というためにはそのような比較が必要だが,ここでは立ち入らない。
戦後の開放的な雰囲気の中,当時の娯楽として合唱の人気が高かった,ということであろうか。黒人霊歌などのモダンな曲がレパートリーとして取り入れられたことや,当時はある種の理想郷的な扱いであったソ連の曲やロシア民謡が盛んに紹介されたことも寄与したであろう。このあたりもっと分析が必要だが,数字のイメージを掴んだ上で先に進む。
なお,このグラフは理科系グラフのように厳密なものではないことをご理解頂きたい。ある年の団員数を正確に何人とすることが難しいのは御承知の通り。名簿上の人員,練習に来ている人員,オンステ人員が全て異なっているのが普通。そのためこのグラフでは細かいところは目をつぶり,
・部史に「何年度は何人」と明記されている場合はその人数
・明治・大正期の記事で演奏者の名前がでているものはその人数を数える
・定演のパンフ等に名簿が載っている場合はその人数を数える
・定演の写真があるばあいは,その人数を数える
・複数のデータがある場合は,その最大のもの
をプロットした。定量的には精度のある話ではないが(数え間違いも含めて),定性的な傾向を視覚化したものとご理解いただきたい。
なお,この2つの図の作成にあたり,以下の団体の団史やホームページを参照させていただきました。感謝申し上げます。なお,グリークラブ等の名称は混同が生じる恐れのない場合は省略させていただきました。
【年と発足団体数】
関西学院,慶應義塾,同志社グリー,同志社リーダークランツ,早稲田大グリー,早稲田大学コールフリューゲル,東京大学,明治大学, 法政大学,立教大学,関西大学,立命館大学,大阪大学,京都大学合唱団,甲南大学,北海道大学,東北大学,一橋大学,九州大学,名古屋大学,大阪市立大学,大阪外国語大学,横浜国立大学,東京工業大学,名古屋工業大学,上智大学,関東学院大学,東北学院大学,大阪経済大学,大谷大学,龍谷大学,東京リーダーターフェル,東海メール,HGメンネル,六甲男声,東京経済大学,西南学院,神戸男声,北海学園大学,中央大学,広島大学,広島オルフェオン,南山大学,京都男声,東京経済大学,新月会,クローバークラブ,稲門グリー,ワグネルOB
【年と団の平均人数数】
関西学院グリー,慶應ワグネル,同志社グリー,早稲田大グリー,神戸大学グリー,法政大学アリオン,大阪外国語大学グリー
お願い
ネットや国会図書館や合唱連盟資料室にある部史・団史を可能な限り参照しましたが,どうしても限界があります。「うちの団がプロットされていない」「人数のデータがある」などの情報がありましたら,ご教示ください。1980年頃までが考察の対象ですが,それ以降に創立された団でも情報をいただければありがたいです。
III.戦後の男声合唱曲集
急増する男声合唱人口に対応して,昭和20年台にはたくさんの男声合唱曲集が出版された。戦前の曲集と合わせて表にまとめる。
1948年(昭和23年)から,グリークラブアルバム初版が出た1959年(昭和34年)までの約10年間で15種類,40冊あまりの男声合唱曲集が出版された。明治から戦前までは国策の「国民男声合唱曲集」を入れて6種類9冊であることと比較すれば,「怒涛のごとく」出版されたと言える(*10)。分析結果は順に述べていくが,ここでは戦前まで多くの合唱譜を出していた共益商社と新響(シンキョウ)社が男声合唱曲集を出していない点に注目しておく。1931年(昭和6年)創立の全音楽譜出版,1941年(昭和16年)の音楽之友社,カワイ楽譜(*11)など「新興勢力」の出版が目立つ。
*10 この他に戦前と同じく,同声合唱曲集や混声・男声・女声を一冊に集めた曲集が出版されていた。
*11 カワイ出版の前身である楽譜出版社で,昭和30年台から40年代半ばまで邦人合唱曲中心に組曲やピース譜を出版したが昭和47年か48年に倒産し,カワイ出版として再出発した。遅くとも1951年(昭和26年)には合唱楽譜出版を始めており,後に河合楽器製作所の社長になる河合滋が当初は社長を務め,1961年(昭和36年)から清水脩が社長となった。詳しいことが分からないので,ご存じの方は教えてください。
清水脩は古くからカワイ楽譜と交流があり(1951年に「150合唱名曲集」を出している),顧問的存在だったのかもしれない。「独唱の楽譜は一人にしか売れないが,合唱の楽譜は何十人に売れるから商売になる」という主旨の発言があるようだが,残念ながら一冊の楽譜をガリ版でプリントする合唱団の力技に屈した。時効だと思うので告白すると,私が最初に歌った「水のいのち」は全ページガリ版刷りの楽譜だった。清水もガリ版のことはもちろん知っていて,昭和19年に出した「合唱指導必携」では「プリント楽譜は不鮮明で誤写もあり,いちいち訂正するのは能率が悪い。(プリント)楽譜は鮮明に印刷してほしい」としている。戦後に豊かになったのでプリントはなくなる,と思っていたのだろうか。
次の図に,「男声合唱団人数推移」の加重平均曲線と曲集の出版年を重ねた。平均人員がピークに近づく1954年(昭和29年)頃から多数の出版がある。主役は,戦前に多くの合唱楽譜を出版した共益商社やシンキョウ社ではない。恐らく,彼らは戦前の学校ルートに強かったので,戦前に楽譜が売れなかった趣味的な男声合唱には手を出さなかったのだろう。新興の出版社は学校ルートがないので,成長市場と思われる分野に挑戦し,結果的にこの戦略の違いがその後の明暗を分けることになる。
IV.グリークラブアルバムの出版
例によって前置きが長くなったが,ここからグリークラブアルバムを中心にまとめていく。しかしその前に,福永が1957年(昭和32年)から出し始めた「東京コラリアーズ合唱曲集」についてまとめておく(*12)。グリークラブアルバムと同じカワイ楽譜の出版で,福永が「男声合唱曲集の混戦状態」に2種類の男声合唱曲集を出した理由を考えるヒントになる。
*12 東京コラリアーズの足跡と巨大な功績については,別項でまとめる。
「東京コラリアーズ合唱曲集1」の「出版に際して」に、福永の考え方が述べられている。
「東京コラリアーズで使用している楽譜を手に入れたい,という希望をいつも聞かされてきました。東京コラリアーズの方針の一つである,よい合唱曲の紹介という点からも,東コラの楽譜を公開したいとは,私も前々から考えていたことでした」
と,福永の立場からしごくもっともな考え方を述べている。「私も」という表現から,この出版はカワイ楽譜から持ちかけたことが伺われる。カワイ楽譜は,人気プロ合唱団東京コラリアーズの楽譜を出版することは,市場での差別化につながると考えたのだろう。
当時,東京コラリアーズは「合唱相談所」を開設しており,広告に「合唱に関するどんな相談でもしてください」とオープンな姿勢を出している。料金は書かれておらず有料だったのかもしれないが,福永たちは本当に合唱が好きだったのだろう。この曲集にも「使用してみての御質問には,出版社又は東京コラリアーズ合唱相談所あてにお寄せくだされで,いつでもお答えします」と実にフランクで親切。当時の男声合唱団はずいぶん助かったのではないか。福永たちからすれば,「ユーザーからのフィードバック」が得られ,選曲や編曲のヒントになったと思われる。
曲集の欄外に簡単な説明や演奏に関するアドバイスが記載するなど親切な姿勢で一貫している。この形式はグリークラブアルバムでも採用された。
ただし,少し奇妙なことも書いている。長いので要約すると「合唱曲集には反対で,ピース譜が多数出版されメムバーが全部それを使うことが理想的だが,現状では理想論なので曲集にした」としている。曲集というのは合唱団がすべての曲を使えるように作るのは不可能で歌わない曲が入っている,すると全員が曲集を買うのは無駄だからと,一冊買って必要な曲だけプリント(ガリ版)で対応する悪習がなくならない,と述べている。
福永は1956年(昭和31年)に藤原歌劇団の公演のため渡米し(*13),米国の合唱事情や楽譜屋を調査したが,これがきっかけでこの考えに至ったと思われる。「合唱界 vol.1 no.3」に福永が寄稿した「アメリカ合唱界かけある記」の「男声合唱万能の編曲スタイル 附 楽譜出版のこと」から引用する。
「楽譜資料ですが,ピースでたくさん出ています。(中略)一つの曲でも何種類もあるから,自分の合唱団に合うのをえらべばよいのです。(中略) たとえばミュージカルの主題歌など,独唱用の楽譜より合唱に編曲した譜の方が四分の一も安い。何故かっていうとアメリカじゃプリントなんてしないでしよう。合唱団ぢや団員の数だけ出版されているものを買うわけです。だから部数がたくさん売れるんで,それだけ安くなる。日本でもそうならなきゃウソですよね。印刷して楽譜を使うのと使わないのとぢや練習の能率もウンと違うのですから。」
ピースにしたほうが編曲も各種あり自分の団にあったものを選ぶことができるし,値段が安ければコピーせずにオリジナルを買うから更に値段が下がり,鮮明な印刷で練習の能率も良い,と考えている。これは前述した清水脩の考え方と同じであり,当時の合唱指揮者に共通する考え方だったかもしれない(「団員の数だけ売れる」については,清水が福永に感化された可能性もある)。今でも欧米からの楽譜にはピース譜が多いが,これは恐らく欧米のコンサートスタイルに適しているからで,日本の演奏会スタイルには余り適していない。この点については,別にまとめる(こればっかりで申し訳ない)。
*13 余談だが,福永が渡米したため,この年11月の東京コラリアーズ京都公演は7月に入団したばかりの北村協一が指揮している。以前から指揮していた伊東栄一の都合がつかなかったのかもしれないが,大抜擢であり,入団早々にプロ合唱団の指揮を任された北村の非凡さがうかがえる。ちなみに,もう一人の指揮者である畑中良輔は独唱者として参加している。若い北村を精神的に支えたのだろうが,上司の鑑である。
(2017/1/29追記) 新しく入手した資料によると,北村が指揮するに至るまではもう少し複雑な様子。東京コラリアーズについてまとめる際に詳述する。
戦前にも多数のピース楽譜があったことからすると,「ピース楽譜を出すのは理想論」というのは不思議。戦前のピース譜は女学校等への一括大量納入の,いわば法人営業のルートが主流で,単価が安くても数をまとめることで商売を成り立たせていたのではないか。これに対し,男声譜は大学男声合唱団を主なユーザーに想定することになるから,法人ルートに期待できず,三木楽器店のような楽譜屋で個人に売ることになるため,出版社としてピース筆はなく単価の高い曲集を望んだのではないか(*14)。
福永はグリークラブアルバムを出した翌年の1960年(昭和35年),「東京コラリアーズ合唱曲集4」の「続刊の言葉」に,「合唱楽譜はピース楽譜であるべきだという私の理想は変わりませんが,現在の出版事情では曲集の形をとることは止むを得ない」とぶれないところを見せると同時に,曲集を出しているのは出版事情であると明記している。
なお,「東京コラリアーズ合唱曲集」は予告では第6集がでることになっているが,未見で本当に出たのか不明。
*14 後にカワイ楽譜はピース楽譜をたくさん出した。男声用も30冊程度でていて1972年(昭和47年)で一部30円~100円,高校生だった私にも買いやすかったけど事業的にはどうだったのだろう。
さて,1959年(昭和34年)にグリークラブアルバムの初版が登場する。最も正確にその意図を理解するためには初版の序文を参照すべきだが,残念ながら未入手のため,第3版の「版を改めるにあたって」「編集方針」を参照する。後述するように,初版から第3版までは毎版変更があったが,編集方針は変更されていないはずである。
「版を改めるにあたって」で重要なことは,グリークラブアルバムの位置づけが語られていることである。
「新しい編曲を紹介した本とちがって,愛唱曲集ですから,この本によってレパートリーをふやす,というふうには,使っていただくことが少なかっただろうと思うのですが,それだけに,この本の中の曲がいつまでも人に愛されて,あきずに何度もくりかえして歌われる曲なのだろう,と思いかえしています」
まず,グリークラブアルバムとは愛唱曲集である,と明記されている。「新しい編曲を紹介した本」とは,「東京コラリアーズ合唱曲集」に相当する。福永の文章を書き直すと,「東京コラリアーズ合唱曲集」は新しい編曲を提供しレパートリーを増やす目的で編集され,グリークラブアルバムでは男声合唱団が従来から歌ってきた歌を収録(再録)してまとめ何度もくりかえして歌ってもらう愛唱曲集として編集された,となる。
レパートリーの意味がやや不明確だけど,文脈からすると「演奏会やステージにあげるための曲」とするのが妥当だろう。レパートリー(曲)と愛唱曲はすっぱりと分けられるものではないけれど,レパートリー(曲)とは音楽的に高度である程度の長さを持つ曲,という言い方をしても良いだろう。
この考えに立って,この時期の男声合唱曲集はどんな位置づけ(ポジショニング)にあったのかを分析する。曲集のなかに何曲収録されているかを1つのパラメータとし,もうひとつのパラメータは曲の長さ,つまり「曲集の中で一曲に当てられている平均ページ数」をとって相関をプロットしてみる(*15)。ページ数がどの曲集も同じならば両者は反比例関係になるが,今回分析した曲集のページ数は40ページから110ページとばらついており,同じシリーズ以外の曲集ではページ数は違うので,指標なりうる(ここで「ページ数」とは,楽譜が載っているページのことで,前書き・目次・歌詞のページ・奥付け等は含まない)。先の表にあげた曲集を対象に,曲数をX軸,曲の長さ(一曲あたりのページ数)をY軸にとったグラフを示す。
*15 正確には小節数や音符の数を示すべきだろうが煩雑すぎるので簡易な方法を使う。
「改訂合唱名曲選集」のように同タイトルでいくつか曲集がでているものは,その各々を同じタイトルでプロットした。また,グリークラブアルバムは後述するが,昭和30年代後半に曲目の入れ替えがあったため,初期版と改訂版の両方をプロットした。オレンジ色の点線は全プロットに対する2次近似曲線である。この図をみると,左上(曲数が少なく1曲あたりのページ数が多い)と右下(曲数が多く一曲あたりのページ数が少ない)の2群に分かれて分布している。前者を「コンサート志向(レパートリー志向)」,後者を「愛唱曲志向」とする。見やすくするため,データの平均値をグラフに重ねる。
平均値の視点から見ると「一冊あたりの曲数が24曲以上あり,一曲あたり平均2.7ページ以下の長さ」のドメイン(数学の第4象限)にある曲集が愛唱曲集,その逆のドメイン(第2象限)にある曲集がコンサート曲集となる。
まず,グリークラブアルバムは愛唱曲志向のドメインにあり,対して「東京コラリアーズ合唱曲集」は全てコンサート志向のドメインにあり,福永が記した位置づけのとおりである。概して言うと,コンサート志向の曲集が多く,愛唱曲ドメインでめぼしいものはグリークラブアルバムの他には,「合唱手帖」「ポピュラー男聲合唱曲集」ぐらいである。その他の「男声四重唱曲集」は1928年(昭和3年)の発行,「国民男聲合唱曲集」は軍歌中心,「男声合唱名曲集」は戦前の古い訳詩を集めており,昭和30年台の合唱団が実用に使うには耐えない。
この状況で,「編集方針」に述べられたように「著名な大学合唱団のレパートリーを集め,「ウ・ボイ」のような皆が歌いがっている曲も収録し,知られている曲でも原語を載せ,編曲も音の組み合わせが不自然でないように心を配った」グリークラブアルバムが,愛唱曲集として勝ち残ったのだ(*16)。改訂版では初期版より更に「愛唱曲集」度を高めている(短めの曲数を増やした)。
また,大学合唱団のレベルが上がり,演奏会のステージに「月光とピエロ」のような組曲,輸入ピース楽譜による黒人霊歌,シューベルトの男声合唱曲などのドイツ語ステージなどがあげられるようになり,コンサート向けに様々な曲を収める曲集はニーズを失い,消滅していった。結果,男声合唱曲集はグリークラブアルバムという愛唱曲集に収斂していった。
*16 もちろん,福永・北村が男声合唱界で確固たる地位を固めていったことも「勝因」であろう
しかし,福永はもともと愛唱曲集に乗り気ではなかったように思う。さきほどの「版を改めるにあたって」の,「この本の中の曲がいつまでも人に愛されて,あきずに何度もくりかえして歌われる曲なのだろう,と思いかえしています」は,自分は出版に積極的ではなかったけど,これほど受け入れられたということはそういう意味なんだろうなあ,と読める。「東京コラリアーズ合唱曲集」と同様にカワイ楽譜からの依頼で刊行が決まったのかもしれない。
初期版で演奏会用の長めの曲が少し多かったのは,愛唱曲集としては中途半端と思えるが,これは福永の「抵抗」だったのではないか。編集方針に「宗教曲の中の数曲と,演奏会用の曲目の他は,平易な初心者にも唄いやすい曲ばかりです。」と演奏会用の曲を入れたことを記している。
その後,1965年頃に行われたと思われる「改訂」において,演奏会用と思われる長めの「冬のセレナード」「Die Beiden Serge」を含む3曲が削除され,新しく6曲を入れた。削除した理由は著作権の問題のようだが,演奏会用の曲と入れ替えずに短めの曲と入れ替えたのは「抵抗」を断念して愛唱曲化を受け入れたように見える。
改訂版の話がでたので,以降はグリークラブアルバムの改訂の歴史を表にまとめる。
初版はミスの多い本だったらしい。「種々の手違いのためミスの多い本になって,御迷惑をかけました」と第3版で謝罪している。広告によれば,「B5版 p.122」とあるが,第3版のグリークラブアルバムは楽譜は109ページまで(内扉・序文・目次を含む)。表紙・裏表紙・裏表紙・奥付けなどを足しても115ページにしかならない。広告を足してもせいぜいあと1-2ページ。曲数は同じだが(後述),初版はあと5ページほど多い。版の組み方(ページあたりの段数)が異なっていたのかもしれない。
* グリークラブアルバム初版をお持ちの方がおられたら,ぜひ拝見させて下さい。
昔音源@gmail.com 昔音源はmukashiongenに変えてください。
再版は気をつけてミスを修正し,表紙も青く変え(「グリークラブアルバム2」のような感じか?),「楽譜自体が見にくい版でした」とあるのでB6版に小型化したのかもしれない(「東京コラリアーズ合唱曲集」はB6版なので,「見にくい」と言うからには,もっと小さかった可能性もある)。
第3版ではB5サイズに戻り,再び赤い表紙となった(初版とまったく同じ表紙かどうかは分からない)。「すっかり改めて,新しい見やすい本にしました(*17)」とあり,実質的にグリークラブアルバムの基本形が固まった。「東京コラリアーズ合唱曲集1」にあった「曲の欄外に簡単な説明を付す」スタイルも一部の曲には残されている。
「ほんの少しですが中の曲をとりかえたのがあります」とあるのは,初版・再版に収録の「夕やけ小やけ」が「青蛙」に差し替えられたことを示す(広告に記載されている曲目を比較した)。恐らく版権の関係と思われるが,1958年(昭和33年)の「東京コラリアーズ合唱曲集3」に「版権の関係で,予定していた『夕やけ小やけ』『出船の港』がのせられません。大変残念ですが,諒承して下さい。」とあり,1959年のグリークラブアルバム出版前に著作権問題があることを理解していたのに載せられたことになる。一旦解決したが,再び不許可になったのだろうか。
「夕やけ小やけ」は1978年(昭和53年)の「グリークラブアルバム2」に福永の編曲が収録されたが,これが東京コラリアーズ時代の編曲と同じかどうか定かではない。現行版はテノールソロを伴う5段のもので,1ページと2/3を使っている。「青蛙」も5段だがソロがなく,1ページにおさめられている。入れ替えたとしたら元々1ページだったことになるが,無理がある。編曲が違っていたか,または,前述の初版・再版とのページ数ミスマッチとも関わる話なのかもしれない。
*17 とはいえ,まだまだミスが多い。
第3版が1962年(昭和34年)に出て第7刷が1967年(昭和42年)にでるまでのどこかで,「改訂版」として曲をかなり変更した。具体的には,「Be Still my Soul (フィンランディア)」「冬のセレナード」「Die Beiden Serge」の3曲を削除,「Dixie」「砂山」「中国地方の子守歌」「この道」「あわて床屋」「Psalm 98」の6曲を入れた。削除の理由は著作権の問題らしい(*18)。また,「男声合唱曲「U Boj」の研究」で述べたように,ウ・ボイの歌詞を発音記号風に修正した。例えば「U Boj」を「U Boi」とし,綴りを発音に合わせて変えている。
この改訂で曲数が増え,愛唱曲集としての性格が強まった。
(2017/1/11 追記)
twitterで「安藤龍明/Tatsuaki Ando」さんから情報を頂いた。感謝します。
「私が持っている『グリークラブアルバム』は昭和39年4月20日の第4刷ですが、「冬のセレナーデ」「Die Beiden Serge」が掲載されている一方、「Be Still my Soul」は削除されていました。」
改訂版として一気に曲が換えられたと思っていたが,まず第4刷で Be Still My Soulが変更(Dixieに差し替え)られ,それから「冬のセレナード」「Die Beiden Serge」が第5~第7刷で変更され「改訂版」が表紙にクレジットされたことになる。
作曲年は,「Die Beiden Serge」は不明,「冬のセレナーデ」1867年,夕やけ小やけ1919年,フィンランディア讃歌1941年頃。作曲家の没年はサン・サーンス1921年,ヘーガー1927年,草川信1948年,シベリウス1957年。対応優先度の高いものから差し替えていったのだろうか。
*18 削除された3曲は1981年(昭和56年)の「グリークラブアルバム3」で復活。その旨の記載もある。「Be still my Soul」は「Fynlandia-hymni」としてフィンランド語で収録された。1976年にヘルシンキ大学が来日して原語でのフィンランディアを歌い感銘を与えたこともあるが,1971年には慶應ワグネルがコダーイをマジャール語で歌うなど,英語やドイツ語以外の曲も原語で歌うことが当然となってきて,再収録にあたっては訳詞ではなく原語にしたのだろう。一方で「グリークラブアルバム3」には古い訳詞の曲も収録されており,統一性に欠ける。
その後,カワイ楽譜の倒産(当時そう聞いた)により事業はカワイ楽譜に「移管」され,1974年9月にカワイ出版から「新第1刷」が発行される。内容は改訂版が引き継がれたもので出版社以外に大きな変更はない(しいて言えば,巻末にあった福永と北村の紹介が削除されている。知名度が高く言いまでもない,ということか)。
次の大きな変更は,1976年の春に「東西四大学合唱連盟25周年記念」としてグリークラブアルバムの全曲がLPとして発売された際,「あらためて,全ページにわたって改訂がほどこされました。『ウ・ボイ』の正確な歌詞による新版とともに,旧版の誤記を,このように訂正します」と内容の校正が行われた。
訂正箇所はたくさんあるので詳細は「グリークラブアルバムの研究 (各曲編) (仮題)」でまとめる。福永陽一郎編曲とされていた何曲かが別の(正しい)編曲者名に変更され,作曲者名も一部修正された。解説に手が入っていないため,何箇所かチグハグになっている。ウ・ボイについては別記事に記した。この項は2016年7月の新第61刷(通算第73刷)を参照して記述したので,これが最新の形である(*19)。
*19 第7刷で「Annie Laurie (白百合)」の歌詞が訂正された。誰かに指摘されたのだと思うが,なるほど,新旧の歌詞には何箇所か違いがある。しかし,「歌詞が間違っていた」とするのは,間違っている。詳細は「各曲編」で述べるが,この曲は山口隆俊の「The songs of the male」から採られており,こちらの英文歌詞がそのまま引き継がれている。山口が参照したであろうEmersonの「New Male Quartets」の歌詞も同じで,山口は正しく写している。グリークラブアルバムの現行版は部分的に修正されたためか,そのままの形で同じものは見つからない。
以上まとめると,当時の合唱曲集の多くがコンサートで歌われる曲集を志向したが,グリークラブアルバムは愛唱曲集として企画され編集された。著作権の問題を処理しつつ愛唱曲集の性格を強めたが,結果それが奏功して,他の要素もあるものの,1970年代以降にはオンリーワンの位置をしめることになった。
総論としては以上。続いて収録曲と以前の男声合唱曲集の関係を考察する「レパートリー編」,各曲の解題を載せる「各曲編」に進む予定。「なぜグリークラブアルバムと名づけられたか」の考察は,「レパートリー編」で行う。
(2018年8月日補足)
グリークラブアルバムについては,「総論」「レパートリー編」と研究を続けてきたが,新しい発見があったので追記する。
この写真は雑誌「合唱界」vol.2-11(1958)に掲載された,グリークラブアルバムの発売予告である。注目すべき点は
・当初は2分冊として計画されていたこと
・発売予定が1958年12月とされていること
・発売元が「株式会社合唱界(出版社)」とされている
ことである。
承知のように,グリークラブアルバムは,株式会社カワイ楽譜から1959年4月に1冊で発売された。既に福永陽一郎の監修になる「東京コラリアーズ合唱曲集」を刊行しているカワイ楽譜から別の男声合唱曲集が出るのは少し奇異に思っていたけど,この広告により謎が解けた気がする。
当初刊行予定の「株式会社合唱界出版社」は,雑誌「合唱界」の発行主体であるけれども,このあとvol.3からは株式会社全音楽譜出版社が発行する*。発行元が移った事情は分からないけれど,合唱界出版での発行ができなくなったため,福永と懇意だったカワイ楽譜が引き取ったものと思われる。そのため出版は4ヶ月遅れることとなった。
* のちに,全音楽譜出版から独立した内藤克洋が設立した東京音楽社に譲渡されるが,全音楽譜出版には「一銭も支払うこともなく」だったらしい。
http://www.chopin.co.jp/column.html
グリークラブアルバムはおよそ110ページあるので,合唱界出版での企画2分冊なら1冊あたり55ページ,これは「東京コラリアーズ合唱曲集」とほぼ同じ。もしかすると版型も同じくB6サイズを想定していたかもしれない。カワイ楽譜では,それでは見かけが似すぎてしまうため,1冊の分厚い曲集とし,判型もB5と大きくしたのだろう(第2刷の「青本」はB6の可能性あり)。
曲の構成は,「グリークラブアルバムの研究 レパートリー編」で行ったものとほぼ同じである。この広告に合わせて書き直し,曲数をカウントすると「諧謔曲」が1曲少なく,「黒人霊歌」が1曲増えている。「諧謔曲」は大正期から歌われている曲がほとんどのため,当時盛んに歌われ始めた「黒人霊歌」の割合を増やしたのかもしれない(2018-8-03追記を参照)。
(2018-8-03 追記)
昨日上げた記事の曲数比較について,「シェナンドアは黒人霊歌ではない」とご指摘頂いた。まことそのとおり,グリークラブアルバムでも「シーシャンティー」と注釈が入ってる。いいわけだけど,「グリークラブアルバムの研究 レパートリー編」では「黒人霊歌等」と記していたところ,広告に合わせて機械的に書き換えたもので,申し訳なかった。
同時に 「外国愛唱曲では」とのご指摘もいただいたが,編集方針が「分類順に曲を並べる」のようなので,この位置からすると「演奏会用」が良さそう。実際,1960年に出版された「東京コラリアーズ合唱曲集4」にも収録されているので,それで良さそうだがもう少し考えたいので,下図のように「保留」とする。
「シェナンドア」については「曲編」でまとめるが,アメリカでは19世紀初頭から歌われ,Yale大学グリークラブの指揮者を務めたMarshall Bartholomewが20世紀初頭に男声四部合唱に編曲して以来,愛唱されるようになった。
日本では,1954年に封切られた映画「ブラボー砦の脱出」,1962年の「西部開拓史」,1965年の「シェナンドー河」で一般に知られるようになったらしい。
(総論,以上)
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