第113回 同志社グリークラブ 定期演奏会

 2018/1/14京都コンサートホールで開催された同志社グリークラブの第113回定期演奏会を聴いた。会場予約の都合だろうか,1月に定期演奏会を開くのは数十年ぶりだとか。今年はコンクールの全国大会にも出場されたことだし(惜しくも銅賞),日程的には良かったかもしれない。

 名簿の人数は54名。オンステはだいたい48名ぐらいで去年とほぼ同程度。東西四大学ではベースが7名と,倍の人数がいる強力トップを支えるのはつらいものがあったが,4名の1回生を加えてバランスが改善された。個人的好みとしてベースがもっと厚いほうが好きだけど,最近そういう合唱はあまり聴けない。

エールの第一声,実にきれいな声で歌い出され,今年も気持ちのよいコーラスが聴けそうだ。昔のエールは,カミソリのようなトップがぐいぐい切り込んでくる「どんなもんだい」的な歌い方だったけど,近年はそういうこともなく,節度ある歌い方。発声が整っているからか,ハーモニーがざらつかず聴きやすい。


 第1ステージは,技術顧問である伊東恵司さんの指揮で「宗教曲ステージ 祈る~キリスト教音楽曲集~」。具体的にはJosquin Des PrezのMissa Mater PatrisからGloria,MendelssohnのBeati Mortui,Schbertのドイツミサ曲からHeilig,Frantz BieblのAve Mariaである。Josquinを除けば男声合唱でよく歌われる曲。どういう意図で選曲し並べたか,意図を推測はできるけど,何か書いておいてほしかった。

 Gloriaは昨年の定演,東西四大学,そして今回と3回目のオンステ。ポリフォニーを徹底的に勉強しようという意図だろうか。前述のパートバランスを除けば(これは練習でどうなるものではない),もっとも安心感ある演奏だった。来年以降にどう活かされるか。

 Beati Mortuiからは1回生(おそらく)も参加。ハーモニーが厚くなった分,ソリとの対比も効果的だった。Heiligは実に美しく歌われたが,Ave Mariaはややもたつき,自分達のものになりきれていなかった。最後の方は修正し倍音を鳴らして終わったのはさすが。

 ここで合唱史トリビアを書くと,記録されている限り,Beati Mortuiを日本で初演したのは同志社グリー。1929年(昭和4年)のこと。関西学院グリークラブは1935年(昭和10年)に演奏しているが,部史に「本邦初演」と載っている。同志社の方は修正を申し入れて下さい(笑)。


 第2ステージは学生の八木和貴さんの指揮で男声合唱組曲「五つのラメント」(草野心平作詩,廣瀬量平作曲)。決め所のハーモニーが鳴り,日本語の処理に違和感がなく(廣瀬氏の作曲に追う面もある),まずは良い演奏だった。ただ,この組曲はどの団の演奏で聴いても同じように聴こえるのが不思議。破綻する演奏もないが(腕におぼえがある団しか取り上げないからか),深い感動につつまれることもない。組曲をとおした演奏の設計がむつかしいのかも。

 このステージだけ,ステージコートの色が違うのは何か意味があるのだろうか?


 第3ステージは伊東恵司さんの指揮で「夏の最後の薔薇 ~日本語で歌うイギリスのうた~」(みなづきみのり作詩,山下祐加編曲)。最初に伊藤さんのMCがあり,主旨が説明された。明治期の音楽教育のために多数の海外の歌に日本語歌詞が付けられ,この日も歌われた「庭の千草」のように唱歌として広まっていった。しかし,それらの歌詞の中には歌いにくいものもあり,新しく歌詞をつけなおしてみた,とのこと。さすが詩を書かれる伊東先生だけに,この着眼点は面白い。

 みなづきみのり氏の「訳詩」ではなく「作詩」であることに注意したい。比較はできていないけど,おそらく,メロディーに合うよう訳詩を元に,ある程度自由に歌詩を作られたということだろう。明治の最初の頃,メロディーに合う歌詞を原詩(訳詩)を無視して作る,一種の「メロ先」が行われた。例えば東京音楽学校教授だった鳥居忱は,シューマンの「Zigeunerleben」を「あわれあわれ正義の士」で始まる,「薩摩灘」という西郷隆盛を歌う曲にした。歌詞の力で曲を違うものにしてしまうからか,当時は作詩ではなく「作歌」と呼ばれた*。しかし,さすがに全く原詩と違うのはまずかろうと(思ったのかは分からないが),例えば石倉小三郎は「Zigeunerleben」に今なお使われる「ぶなの森の葉隠れに」で始まる訳詞をつけ始めた。原詩の意を組んだ日本語訳をつけることが始まったが,明治の文語は独自のリズムがあるため,逆に詩とメロディーが解離した感がある。


 * 鳥居は外国語がわからないから作歌したのではない。東京外国語学校でフランス語などを5年間学んだ人であり,当時の日本人には詩に興味を持ってもらい,そこから西洋音楽のメロディーやリズムに慣れてもらうことを目的としたから,訳詩ではなく作歌したのである。


 それから100年以上立つわけだから,そろそろ,現代の技術で(更に言うと現代のアクセントに基づいて),作詩する試みは面白い。「野薔薇」と言えばいつまでも近藤朔風でもないだろう(名訳だし,世代を超えて皆が歌える価値があるのも確かだけど)*。


 * メロディーパートは整合させても,それ以外のパートは不自然なリズムやイントネーションで歌わざるを得ないのは変わりない。


 とりあげられた曲は,原曲名と従来の日本名でいうと,「Tis The last Rose of Summer(庭の千草)」,「Loch Lomond (ロッホ・ロモンド)」,「Scarborough Fair (スカボロ・フェア)」,「Long Long Ago (久しき昔)」,「あなたのいる岸辺(原曲?)」,「Londonderry Air (ダニー・ボーイ)」。山下祐加さんの新しい編曲を得て,美しく歌われた。聴き慣れたメロディーだけど,合唱では今まで英語でしか聴いたことがなかったので,違和感もあったけど,それはこちらの問題。


 第4ステージは伊東恵司さんの指揮で男声合唱とピアノのための「シーラカンス日和」(水無田気流作詩,田中達也作曲)。ピアノ伴奏は水戸見弥子さん。日本語処理のうまさとざらつかないハーモニーのお陰で,終局のクライマックスに向け気持ちよく聴くことができた。

 この演奏を聴いていて,突然思ったのは(思っただけでなんの根拠もない),福永陽一郎や北村協一を男声合唱の指揮者として第一世代(秋山日出夫などが戦前から指揮していたことを承知で,ここは便宜上そう呼ぶ),伊東恵司さんや広瀬康夫さんらを第二世代として,第2世代の指揮にはある種の品の良さがある,ということ。第一世代は,東京コラリアーズというプロ団体を振り観客を喜ばせることを念頭に置いていた経験があるためか,聴きどころを強調した歌い方をさせていたように思う。音量を出すという意味ではなく,表現むつかしいけど,観客サービス的とでもいうか,やや過剰な表現と言うか,ある種の遊び心というか。時により,あくどさを感じる。対して,第ニ世代は非常にオーソドックスに,真正面から音楽と素直に向き合っている感じ。演出過剰と感じることは滅多にない。どちらが良いとかではなく,スタイルの基本が何となく違うように感じる。二度しか聴いたこと無いからはっきりしないけど,もしかすると清水敬一さんは第一世代的な指揮をされているかもしれない。ふと思っただけなので,的外れかもしれないけど。


 アンコールは信長貴富作曲「さらに高いみち」と,「詩篇98」。曲は最後で盛り上がったけど,演奏会はあっさりおわった印象。ストームがなかったこと(会場を借りられる時間の制約らしい)も関係するか。

 同志社グリー,ここ2年の定演は50名切るのが残念。多ければ良いというものではないけど,6-70名以上でこの気持ち良い合唱を聴けたら嬉しいなあ。

以上

日本男声合唱史研究室

日本における男声合唱史の研究 Study on male chorus history in Japan 主として明治期から1980年頃までの,日本の男声合唱について資料調査したことを中心にアップしていく予定です。いわば,私家版の「日本男声合唱史」を作る試みです。 タイトルは思い切り気張ってみました(笑)。 2024年4月15日から「無料プラン」の仕様が変わるため,構成を組み替えました。

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