追悼 多田武彦先生・日下部吉彦先生

 2017年12月12日多田武彦先生が,2017年12月30日日下部吉彦先生が亡くなられた(以後,恐れ多いが敬称略)。多田は作曲,日下部は評論や指揮を中心に,日本の男声合唱史に,めまいがするほど巨大な功績を残された。ご冥福をお祈りいたします。

 このサイトにおいても,なにか追悼記事をあげたいところ。多田についてはTwitterで,作成途中の「組曲が合唱団のレパートリーとなった回数グラフ」を載せたが*,お二人の功績をブログの記事一つにまとめることは到底不可能。考えた末,約50年前の1967年,雑誌「合唱サークル」に掲載された,お二人の対談を紹介することにした。冒頭の写真はそのときのもので,多田の自宅で行われた。念のため,奥が多田で手前が日下部。

 * https://twitter.com/i/web/status/950614777130201088

  図面のみ下記に掲載。


 日下部は1927年,多田は1930年生まれ。福永陽一郎は「当時,松浦(周吉)の関西学院,日下部の同志社,多田の京大は,非常に高いレベルで男声合唱の粋を競ったものである」と記している。その一例が,下記に示す1951年の関西合唱コンクールの結果(同志社のキリエ・エレーソンはデュオパ作曲のもの)。


 多田は日下部と同志社について「私は日下部氏がまだ学生で同大グリークラブの指揮者であった頃,彼のひきいる同大グリーの名演奏に聞き惚れた。そして私は爾来同大グリーの音色を藍色として心の中に納めこんでいる。」と記している。組曲「雪と花火」は,多田の弟が同志社に在籍した頃の作品だが,終曲「花火」も「この藍色をずっと思い浮かべながら作曲」されている。

 さて,旧知の仲だった二人の対談,主題は多田の作曲手法や曲に対する考え方などであるけれども,それはVictorからでたLP「多田武彦作品集」で多田と日下部が,また,東芝から何枚か出た多田作品集のLPの福永陽一郎によるライナーズ・ノートで,語られている。LPもCDも絶版で入手困難ではあるけれども,オークションや中古販売サイトで手に入れることができる。したがって,それらは本質的なことではあるけれども省略し,ここでは今まであまりオープンでなかった2つの情報に言及する。日下部が聞き役なので,どうしても多田の記事になってしまうのは,申し訳ないところ。


 まずひとつ目は,多田がフォークソングを作曲していたこと。多田がポピュラーソングを作っていたことは,「グリークラブアルバム2」の「アカシアの径」の欄外に福永陽一郎が記しており,また,「多田武彦データベース」に「グリークラブのための「ポピュラー・ソング・アルバム1」」として詳細が載せられている*。同サイトには「鈴木薫とは多田武彦が作詞する際のペンネーム」であることも記されている。

*http://seesaawiki.jp/w/chorus_mania/d/%a5%dd%a5%d4%a5%e5%a5%e9%a1%b%a1%a6%a5%bd%a5%f3%a5%b0%a1%a6%a5%a2%a5%eb%a5%d0%a5%e0%a3%b1

 この対談では,それ以外に多田が「八重村とおる」のペンネームでダーク・ダックスやマイク真木(正式には眞木)に曲を提供したことが述べられている。


「八重村とおる」で検索すると,男声合唱団「アルマ・マータ・クワイア」が1966年の定期演奏会で歌った「君と行こう(八重村とおる作詞・作曲)」,「木島則夫モーニングショー」の今週のうた「れんぎょうの花と思い出(八重村とおる作詞・作曲)」の2曲がヒットする。

著作権データベースによると,「君と行こう」はダーク・ダックスが歌ったらしい。

マイク真木は分からなかったが,真木は「モーニングショー」のサブ司会をされていたそうなので,「れんぎょうの花と思い出」は彼が歌ったのかもしれません。詳しい方がおられたら,教えてください。また,他にも曲があったかもしれないが,活動期間は長くはなかった様子。


 二つ目は,多田の蔵書について。多田の組曲に採用されている詩は,実に広い範囲から探されており,全集にしか載っていない詩も珍しくない。中には「みどりの水母」のように,組曲のタイトルになっていながら全集にさえ載っていない詩まである。なぜそんな広範囲に詩を渉猟したか,そして,どのような視点で詩を選んでいたのかは,多田を語る際に別に論じるべき重要なテーマである。と同時に,選ばれた詩に原詩と異なる箇所が散見される。詩自身が改定されている場合や,音楽上の理由である場合(多田自身が言及している等)もあるが,単純ミスの場合もあり,後に原詩の形に修正されたものもいくつかある。

 幅広く詩を読み込む力の優れた多田が,なぜこのような「ミス」を犯すのか?

例えば,組曲「草野心平の詩から」の昔の楽譜(合唱名曲コレクション)に収録された詩は「ミス」が反映されており,作曲は当初この「ミス」に基いて行われた。その理由について,私はブログ*やホームページで「恐らく多田が作曲に用いるために書き抜いた詩が(そのまま)収録されているのであろう」とした。

 * https://ameblo.jp/tonotono-57-oboegaki/entry-11944759083.html

 この対談には,その点で興味深い記述がある。これだけ詩を読み込んでいるのだから,多田の蔵書はさぞ膨大だろうと思いきや,多田の自宅には書棚がなく「小さな本箱に,ほんの少し,雑誌や楽譜類があるだけ」とある。では,どうやってあれだけ広範囲から詩を探すのかと言えば,「銀行の図書室」でみつける,とのこと。そして,「必要なものは手帳に書き写します」と語っている。このことから,一部の詩については,どうやらこの時点で書き写しミスがあったと考えられる。

 銀行に通勤する列車の中で,たったまま思い浮かんだメロディーをスケッチするという,当時の多田が採用していた独特の作曲手法は,この抜書に支えられていた。それにしても富士銀行本店*(当時)の図書室は,「音楽書や詩集」まで,いろんな本を集めていたものだ。

 * 多田は当時,富士銀行本店の副審査役であり,本店の図書室であろう。


以上

 

 

日本男声合唱史研究室

日本における男声合唱史の研究 Study on male chorus history in Japan 主として明治期から1980年頃までの,日本の男声合唱について資料調査したことを中心にアップしていく予定です。いわば,私家版の「日本男声合唱史」を作る試みです。 タイトルは思い切り気張ってみました(笑)。 2024年4月15日から「無料プラン」の仕様が変わるため,構成を組み替えました。

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