合唱組曲の誕生と普及 (2)

Ⅱ 戦前の合唱組曲

 合唱組曲を「複数の合唱曲から構成され,作曲者がそれを組曲と名付けたもの」と定義した。これを用いて日本で合唱組曲が作られた経緯を探っていく。

 日本で最初の合唱組曲は,昭和24年(1949年)に清水脩が東京男声合唱団を指揮し演奏した「月光とピエロ」だと言われている。Wikiには「このとき連作歌曲様式を採用したことが、日本のみならず世界初の『合唱組曲』となった。」と記されている。

海外は,序でみたようにほとんど検索できず,1954年以前に存在したのかどうかはっきりしない。日本はどうか。

 調べてみると,戦前に「合唱曲を用いた組曲」がいくつか作られ,しかもそれらは「組曲」と名付けられていることが分かった。表にまとめたので順に見ていく。

 調査した範囲で,合唱に「組曲」が使われている日本最古の例は,山口隆俊が東京リーダー・ターフェル・フェラインのためにスッペ(フランツ・フォン・スッペ,Franz von Suppé)のオペレッタ「ボッカチオ」から3曲を選び編曲,組曲として構成したものである。演奏は昭和3年(1928年),編曲は山口のメモによれば昭和2年11月に行われた。

 オペレッタ「ボッカチオ」は,大正年間にブームとなった浅草オペラのレパートリーの一つで,山口によれば「田谷力三・安藤文子氏などの十八番だった」。浅草オペラとその影響について記述するのは私の力量を超えているが,そのころは出前持ちが浅草オペラのアリアを口ずさみながら町を走っているほど人気だったらしく,大衆に親しみある曲を合唱編曲し取り入れる試みだったのだろう。

 この組曲は幸い,「秋山日出夫男声合唱曲集2」に収録されており,楽譜が参照できる。無伴奏で「恋」「結婚」「争」の3曲からなり,Medley from “Boocaccio”の訳がついている。実は,この一連の曲は当初はメドレーと名付けられていた。おそらく,つなげて演奏されていたのだろう。昭和5年の演奏会以降は「組曲」と変更されている。メドレーから組曲へと変更されていることから,演奏スタイルも続けて歌うのではなく曲間をとるかたちに変わったことが想像される。スタイルの想像はともかく,山口は違いを意識し「組曲」と命名し(しなおし)ている。その意味で,日本最古の合唱組曲と位置づけられる。


 続いて,昭和10年代初期にJOBKから放送されたラジオ番組「民謡組曲」「抒情組曲」がある。JOBKは社団法人日本放送協会関西支部,大阪中央放送局。今で言うNHK大阪放送局のこと(東京はJOAK,名古屋はJOCK)。後述のように,合唱曲だけの組曲ではなさそうが,合唱を組曲の構成要素として捉えているという点で合唱組曲の先駆けの一つと言える。

 一連の番組は昭和10年(1935年)4月,内田元(うちだ はじめ)をJOBKの「大阪ラヂオオーケストラ」の指揮者に迎え始まった。内田は明治36年(1903年)生まれ,東京音楽学校を卒業し東京シンフォニーを主催した。合唱にも関心が高く,昭和17年(1932年)に東京音楽書院から合唱曲集を出し,また昭和22年(1947年)に大阪で「アイヴィーコーラス」を創立したが,翌年45歳の若さで亡くなった。

 組曲が作られた背景を知るため,当時のラジオと音楽の状況につき,西村理の「戦前・戦中におけるJOBKの放送オーケストラ -番組制作の観点から-」や,ネットの「大阪音楽大学百周年史 1931年~1945年」を元にまとめる*。

 昭和初期の庶民にとりラジオは最新のメディアであり,娯楽の中心だった。浪花節が大流行し,ピアノ伴奏の浪花節まで放送された。洋楽については,すでにSPは存在していたが一枚あたりの収録時間が短く,頻繁に盤を交換する煩雑なものだった。一方,ラジオでは長い音楽を中断なくそのままの形で聴くことができた。

 新しいメディアの常として,放送局側でもどのような番組を作ることが良いか様々に趣向を凝らした。JOBKの「ミユウジカル・ドラマ」はその一つで,「ラジオ・ドラマでは音楽が伴奏でしかなかったのに対して,『音楽と劇との対等な握手が行はれ,両者の関係は一層不可分なそして有機的なるもの』であり,この新種目は『ミュジカルものと称されてゐるトーキー映画の影響を多分に受けた産物』」だった。西村によれば,このドラマは西洋題材に限られたものではなく,滝廉太郎ややオリジナルな題材が選ばれ,後にJOAKも同様の番組を制作した。

* 西村理「戦前・戦中におけるJOBKの放送オーケストラ -番組制作の観点から-」

 大阪音楽大学 研究紀要第53号(https://www.daion.ac.jp/media/kenkyukiyo_2014_53.pdf)

 「大阪音楽大学百周年史」https://www.daion.ac.jp/about/anniversary/1931-1945/


 内田がJOBKに入局した経緯や理由は定かではない。作曲をこなし管弦楽も合唱も指揮できる人材を獲得し,大阪ラヂオオーケストラを「再興」するとともに,ラジオ番組の新基軸を切り開こうとした,JOBK側からの働きかけだろうか。

 第1回「民謡組曲 鰹舟」の番組紹介で「『鰹舟』の出船から勝鬨までの,爽快奔放なる行事を数編の民謡を持って構成描写しこれを管弦楽化したるものである。即ちいま迄の民謡調を純粋芸術化するとともに,管弦伴奏による独唱と混声合唱をもって立体化した,おそらく山田耕筰氏の「黒船」以来の新国民音楽への一指標であるとBKで自慢してゐる」と,日本の民謡を西洋音楽の技法により「芸術化」し新しい国民音楽を作っていくという意気込みが述べられている。

 この「民謡組曲 鰹舟」は,混声合唱ということ以外わからない*。独唱が入っていることは明記されているが,これ以降の「民謡組曲」のように独唱者の名前が記載されていない。歌詞を見ると曲中に「言葉」と書かれたセリフが書かれており,もしかすると独唱とは「言葉」をしゃべることを意味するのかもしれない。オーケストラは「伴奏」の位置付け。

* 合唱は大阪放送合唱団とある。「合唱辞典」には「昭和13年発足の大阪放送合唱団(当時はJOBK唱歌隊)はNHK大阪で」と記述されている(p. 260)。また,先に引用した「大阪音楽大学百周年史」には昭和13年7月に「JOBK唱歌隊発足(大阪放送合唱団前身) 日本初の放送合唱団。メンバー募集時の条件は『容姿端麗にして時間に余裕のある美声の持主,しかも金銭的には頓着しない御婦人に限る』であったという。37名を採用(ソプラノ10名,メゾソプラノ18名,アルト9名)。大屋政子さんはJOBK唱歌隊の二期生らしい。昭和15年に男声部設置。同年4月に混声合唱団となり,『大阪放送合唱団』と改称」とある。しかし,この記事から大阪放送合唱団が昭和10年の9月に存在していたことは確実である。ここでwikiの国民歌謡(後述)の「放送曲リスト」を参照すると,大阪放送合唱団は

  昭和11年(1936年) 9月7日,11月16日

  昭和13年(1938年) 8月16日,10月18日,12月5日

JOBK唱歌隊は

  昭和14年(1939年) 4月10日 JOBK唱歌隊女声部

            5月8日,9月11日,10月24日,12月6日 JOBK唱歌隊男声部

  昭和15年(1940年) 1月22日,8月26日  JOBK唱歌隊女声部

            9月2日,10月14日,11月26日  JOBK唱歌隊男声部

  昭和16年(1941年) 1月13日  JOBK唱歌隊男声部

に演奏・放送している。

 これらを総合すると,まず昭和10年頃から昭和13年末まで混声の大阪放送合唱団があり,昭和14年からはJOBK唱歌隊女声部および JOBK唱歌隊男声部が少なくとも昭和16年まで活動した。「合唱辞典」等の記述と整合させると,JOBK唱歌隊(女声部)と大阪放送合唱団は昭和13年7月から12月末まで併存していたことになる。「国民歌謡」のリストによれば,JOBK唱歌隊(男声部)の発足は昭和15年ではなく遅くとも昭和14年。昭和15年4月に発足したという「大阪放送合唱団」の名前は,以後の演奏者のリストに見当たらない。

大阪放送合唱団については,「昭和13年まで存在」「昭和15年4月に発足?」「戦後」の3つを分けて考える必要があるようだが,現時点ではよくわからない。

(2019/6/28追記)

昭和10年2月11日,大阪放送合唱団はBKから混声合唱を放送している。番組紹介で「大阪放送合唱団はコーラ・ナニワを主体として今回新しく組織されたもの」とされている。コーラ・ナニワは「大阪音楽大学百周年史」に「1932年(昭和7年)11月21日『コーラ・ナニワ発会式』山田耕筰は東京音楽学校出身者を中心に合唱団を設立した。毎週三木ホールで練習が行われ,演奏会やラジオ放送で活躍した」とある。写真から40人程度の混声合唱団らしい。当初の「大阪放送合唱団」とはこちらが主体になっていたとあり,昭和15年にJOBK唱歌隊が改称したのとは別の合唱団らしい。この間の経緯は不明。


 この演奏会では合唱団を宮原禎次が指揮し,「建国歌」(北原白秋作詩,山田耕筰作曲)や「国民の歌」(北原白秋作詩,山田耕筰作曲)を合唱し,「常若の国」(花田比露思作詩, 宮原禎次作曲)が斉唱された。

 次の民謡組曲「収穫」では,大阪桃谷演奏所*

から中継放送されたと記されている。独唱がクレジットされたので,何曲か独唱で歌われたのかもしれない。民謡組曲「春」も同様。伴奏の「大阪放送交響楽団」は,大阪ラヂオオーケストラが宝塚交響楽団と合同で演奏するときの名称。民謡組曲「ながれ」では, 大阪放送交響楽団は「伴奏」ではなく「管弦楽」と対等な位置づけになっている。

*(2019/6/28追記)

「 こちらJOBK -NHK大阪放送局七十年- 」の朝比奈隆の述懐によれば,桃谷演奏所とは「その頃のBKは上本町にあり,スタジオは狭いので,オーケストラ演奏の時は,環状線桃谷駅の外側にあった。レコード会社ポリドールの広いスタジオを借りて,生演奏していました」とある。


 純情組曲「河内物語」では,おのおの独唱曲か合唱曲かが示される。第一部6曲中に女声合唱1曲・混声合唱1曲,第二部4曲中の2曲が混声合唱。新聞には「『抒情組曲』はBK文芸課の創案である」とあり,「民謡組曲から一転して抒情詩中心としたところにその特色があり」としている。また「各編独立しても意味の纏まりを持つ抒情詩の幾篇かを連ねて,それ等を繋ぐ他の文一行も用いず」ともあり,合唱組曲を連想する記述。

「抒情組曲」はこれ以降も作られるとあるが,見つけられなかった。本当に作られたのか,はっきりしない*。

* JOBKでは昭和11年(1936年)以降,「家庭で歌える流行歌を独自に作ろう」の目的で「国民歌謡」という番組を始め,そちらに力を入れたふしがある。内田元も番組のため,彼の代表曲とされる「春の歌」「日の出島」を作曲している。なお,「春の歌」は現在では「春の唄」と表記されるが,前述の「内田元合唱曲集 創作篇」では「春の歌」と表記されている。この合唱曲集は「放送のため屡々(たびたび)使はれた歌を撰んで合唱とした」とあるとおり,国民歌謡で放送された歌の合唱編曲も何曲か収録されている。

 国民歌謡の演奏には合唱団も結構登場している。男声合唱ではJOBK唱歌男声部 ,オリオンコール,東京リーダー・ターフェル・フェラインなどが出演した。また,独唱者として,戦後大学男声合唱団を指導する木下保や菌田誠一がいた。出演者についてはwikiを参照した(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E6%AD%8C%E8%AC%A1)。


 以上,戦前にも合唱曲を用いた組曲があったことを述べた。清水脩も,昭和15年(1940年)に東京音楽学校教授の風巻景次郎と「初夏三題」という女声合唱曲を作曲した。「初夏の風」「リンゴの畑」「白樺」の3曲からなり,合唱組曲の形式をそなえている。実際,昭和39年(1964年)に3曲をカワイ楽譜から「カワイ合唱名曲選」F13-F15として出版した際,「初夏三題」を「組曲『高原の歌』」とタイトルを変え,位置付けも組曲に変更している*。

 清水脩も組曲の発想をもっていたか,または,JOBKの放送を聴き着想を得たのだろうか。いずれにせよ,組曲「月光とピエロ」を着想する下地は戦前にあったようだ。

* 清水の著書「合唱の素顔」(1960年)によれば,作曲は昭和12年(1937年)頃としている。「カワイ合唱名曲選」「合唱辞典」「日本の作曲20世紀」では昭和15年(1940年)。作曲のきっかけは,長坂好子が組織した「むらさき会」の演奏会のためで,「カワイ合唱名曲選」はこの演奏会を昭和16年(1941年)としているため,昭和15年説のほうが正しそうだが,その演奏会が本当に昭和16年だったのか確認できない。また,「合唱の素顔」では初演は「その年の秋」と作曲年と同じと記されている。

 組曲についても「カワイ合唱名曲選」では「初演は他の2曲と同時に組曲として」と書かれているが,「合唱の素顔」では女声合唱曲と書かれている。今のところ,裏が取れないので何が本当か分からない。

(2019年7月22日追記)

昭和31年(1956年)に音楽之友社から発行された「女声合唱曲集 清水脩作曲」にも「高原の歌」が収録されているが,「組曲」の冠はなく,清水はあとがきに「曲集出版にあたって」と記しており,この時点では「組曲」とみなしていない。


(続く)


日本男声合唱史研究室

日本における男声合唱史の研究 Study on male chorus history in Japan 主として明治期から1980年頃までの,日本の男声合唱について資料調査したことを中心にアップしていく予定です。いわば,私家版の「日本男声合唱史」を作る試みです。 タイトルは思い切り気張ってみました(笑)。 2024年4月15日から「無料プラン」の仕様が変わるため,構成を組み替えました。

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