合唱組曲の誕生と普及 (3)
Ⅲ 初期の合唱組曲
①「月光とピエロ」に付けられた名称
戦争中や戦後すぐの合唱活動の状況は,この項目のスコープから外れるので省略する。戦中のドキュメンタリーで,空襲やその後の瓦礫上の街や食糧難の話を見ると合唱どころではなかったように思うが,昭和19年頃まで演奏会も開催され,音楽教育が軍事活用できるという思いもあり案外盛んだったことと,戦後の回復も思ったより早いことを述べるに留める。
昭和23年(1948年)に始まった全日本合唱コンクールで,「秋のピエロ」が課題曲に選ばれ,それを契機に作曲された「月光とピエロ」は,昭和24年(1949年)清水脩が指揮する東京男声合唱団により初演された。まず「月光とピエロ」はなんと名付けられていたか,当時の資料により確認する。初演については「東京男声合唱団50年史*」に貴重資料の写真がある。
* そういう名前だったと思うが,表紙が見当たらない。東京男声合唱団については下記参照。http://tokyomalechorus.g1.xrea.com/
演奏会のちらしでは
「組曲 月光とピエロ」
であり,プログラムでは
「男声合唱のため ー 月光とピエロ」
とあり,統一されていない。推測だけれど,「アイヌのウポポ」につけられた「男声合唱のための」からすると,清水脩は「男声合唱のため」とつけていたのではないか。そして「組曲」は団員がつけたものかもしれない。
初演の後,「月光とピエロ」の楽譜は「音楽の友 昭和26年(1951年)7月号」に清水自身の解説とともに付録として収録され,また音楽之友社から昭和28(1953年)年3月に発行された「清水脩 男声合唱曲集」に収録された*。どちらも「男声合唱のための組曲」とされており,初演時の2つの表現を融合させている。
* 「清水脩 男声合唱曲集」の注釈に
「『秋のピエロ』は1949年第二回全日本合唱コンクール課題曲として作曲され」
「『男声合唱のための組曲』として,作曲者の主催する東京男声合唱団第一回演奏会(1950年12月16日東京読売ホール)」
と,1年ずつ後の年が誤って記されている。「音楽の友」の記事には正しく書いているし,課題曲の第一回と第二回を間違えるとは考えにくい。なぜ誤記されたのだろうか。この曲集は体裁を変え,少なくとも昭和36年12月発行の第7刷まで発行されたが,ミスは修正されなかった。
「音楽の友」は当時の「合唱ブーム」に応えるため,「合唱指導」を掲載しており,この号では清水が指名されたため自作の「月光とピエロ」を題材とした。この中で清水は「堀口大学の詩は,上の五つでまとまったものでなく,ピエロのいくつかの詩の中から,作曲者が自由に選んで,組曲にしたものである」と述べている。このあと,曲の緩急や調性の工夫について説明し,全曲演奏するときはこの順で演奏することがのぞましい,としている。ここではっきりと組曲であることを打ち出しているが,「合唱組曲」と表現していない。
この「男声合唱のための組曲」という言い方は作曲家の支持を得たようで,磯部俶は昭和27年(1952年)の演奏会で2つの「男声合唱のための組曲」を作曲・指揮している。また,多田武彦も「柳河風俗詩」を昭和32年(1957年)に出版した際,「男声合唱のための小組曲 」と名付けている*。
* 「雪と花火」も「男声合唱のための小組曲 」とされていたらしい。「小組曲」は,組曲として短めという意味か,清水脩にへりくだる意味で付けたのか。昭和34年に音楽之友社から「多田武彦合唱曲集」を出した際は,どちらも「合唱組曲」となっている。
それでは,「合唱組曲」または「男声合唱組曲」という表現はいつどこで使われたのだろうか。
まず「月光とピエロ」について調べていくと,昭和31年(1956年)の「月光とピエロ」混声編曲版にはタイトルが付けられていない(「清水脩 データベース」を参照すると作曲は1955年)。シンプルには単なる付け忘れだけど,原曲が「男声合唱のための組曲」だから,正確に表現すると「『男声合唱のための組曲 月光とピエロ』混声合唱編曲版」となり冗長かつ奇妙なため,省略したのかもしれない。かと言って「混声合唱のための組曲」も原曲が男声合唱だから不適切である。この問題は,昭和39年(1964年)に「カワイ合唱名曲選」から楽譜が出版された際,それぞれ「男声合唱組曲」「混声合唱組曲」とされることで解消された。「のための」を消すことにより,男声と混声の間を編曲で繋ぐバリアがなくなったのである。
次に「月光とピエロ」を「合唱組曲」と名付けた最初の例は,私が見つけた限りでは昭和30年(1955年)の東京コラリアーズ京都労音例会である。東京コラリアーズの設立は昭和27年(1952年)だから,それ以前の演奏会で使用している可能性もある。
「月光とピエロ」に限らず,「合唱組曲」または「男声合唱組曲」を探してみると,「序」で参照した昭和29年(1954年)に来日したデ・ポーア合唱団(de PAUR’s INFANTRY CHORUS)のユリシス・ケイ(Ulysses Kay)による「男声合唱組曲『三部曲』」が最も早い。改めてこの資料を眺めると,タイトルのSuit for Male Voicesは直訳すれば「男声合唱のための組曲」であり清水の命名と同じである。これを「男声合唱組曲」と短縮して記載した理由はわからないが,「のための(for)」を外し汎用性が広がったことは前述の通り。
なお,「合唱組曲」については,大中恩の「私の動物園」は昭和34年(1959年)に出版された際,合唱組曲と名付けられた。「定義」で述べたように「全曲演奏する場合は演奏順を守るよう」指示されている。この組曲は昭和28年(1953年)に作曲・初演されており,もし初演時も「合唱組曲」とされていたなら,最も早い使用例になるが,それは確認できていないので,ここでは参考に留める。
大中恩の合唱曲について,「メグめぐコール」のホームページにある作品リストに,昭和23-24年(1948-49年)の作として組曲「子供部屋」という女声合唱組曲が記載されている。これは「月光とピエロ」より早く作曲された「組曲」の可能性があるものの,他に参照できる資料がないため,これも参考に留める。
ここまでを表にまとめる*。「合唱組曲」という名前に結実するまで多くの取り組みがあり,「月光とピエロ」は日本の合唱界に突然現れた組曲ではないし,その名称も。清水脩自身も「自分が初めて合唱組曲を考案した」とは述べていない。しかし,組曲の完成度の高さと,15分程度という演奏時間がその後の日本の邦人合唱曲に与えた影響の大きさは計り知れない。「日本の合唱組曲は『月光とピエロ』から始まった」という言い方は決して言い過ぎではない。次は,影響の大きさをみていく。
* このまとめは「私が現時点で見出した範囲で」ということで,先行資料があれば書き換えるべきものである。
② 「月光とピエロ」が与えた影響
「月光とピエロ」は男声合唱史の金字塔であり,戦後の「組曲ブーム」のきっかけとなるにふさわしい組曲であると述べたわけだが,さて,若い世代にもその認識は共有されているだろうか?
私は1970年代後半に大学で男声合唱に浸かっていたが,高校合唱部の時に先輩から「月光とピエロ」の素晴らしさを繰り返し語られた。また部室にあった雑誌「合唱サークル」のバックナンバーで(雑誌は既に廃刊だった),宇野功芳が福永陽一郎指揮の同志社グリークラブによる「秋のピエロ」を「この曲の持つあらゆる意味を,さらには人生のすべての感情をここに描きつくし出した。ぼくはこれをこそ芸術と呼びたいのである」と絶賛されているのを読み,また日下部吉彦が別の段の演奏を「この組曲が持つ悲しみのみを強調しすぎ,コミカルな面が表現されていない」と酷評しているのを読み,名曲かもしれないが近寄りがたい恐ろしさも感じた。生半可な心がけでは取り組めない。そんな思いもあり,実はこの組曲をステージで歌ったことがない。今の大学生はどうだろう?
この疑問を,この組曲を年間のレパートリーとする団の数を調べてみる。参照したのは,ネットの「清水脩データベース」「邦人男声合唱曲演奏データ」を始め,いくつかの合唱団の部史,そして私が70年代後半から80年代前半に通った演奏会のプログラム。この中から,「月光とピエロ」が歌われた記録を集めた。データカウントの粗密を調整するため,「演奏回数」ではなく「その年にレパートリーとした団の数」を数えた。演奏記録にあれば,回数によらず1回と数える。ある年に3回演奏した団も,1回だけの団も共に1回と数える。しかし,12月の定期演奏会で演奏,翌年3月の演奏旅行で演奏した場合は,各々の年に1回をカウントした。組曲として全曲演奏した場合のみを対象とし,合同演奏は除外した。また混声版はカウントしない。
下図に示すとおり,レパートリーとする団は減っておらず,安定した人気が伺え,「月光とピエロ」のレパートリーとしての重要性は衰えていないと言える。
ただし,この図を学生団体と一般団体(OB会合唱団を含む)で塗り分けると,少し違う様子が見える。1970年代後半頃まで演奏の主体は学生団体だったが,1990年代以降は一般合唱団が主体となっている。60-70年台に学生だった人々が現在の演奏の担い手である可能性を示している。
ともあれ,これだけ男声合唱の邦人作品が増えた現状でも,「月光とピエロ」は特別な組曲ではなく普通にレパートリーの一つと捉えられているようだが,現在の学生たちにも忘れられていないことはオールドファンとして嬉しい。
次に同じ手法で清水脩の男声合唱作品がどれぐらいレパートリーになったかを調べてみる。結果が下図で,横軸はその作品が初演された年を示す。レパートリー団体の数の視点から視て,「月光とピエロ」が圧倒的に多く,「朔太郎の四つの詩」「大手拓次の三つの詩」「アイヌのウポポ」*が次点。一昔前は邦人男声合唱曲といえば「清水脩と多田武彦」だったが,この組曲が群を抜いている。
* 「朔太郎」「大手拓次」は共に演奏時間が短く,この2つの作品は1ステージで同時に歌われることが多い。このことは次の考察でもう一度取り上げる。
「月光とピエロ」がなぜここまで取り上げられたか,ここは清水脩の作品論を語る場ではないが,まず内面的には,終戦後の虚脱感・絶望感と未来への希望を併せ持つ合唱曲として当時の世相とよく合ったからだろう。清水は初演時の団員の手になる曲目解説「哀愁,悲劇的な情熱,自棄的な冷笑,そして感傷とアラベスクというように,各曲は互いに対比しているが,全曲を通じて,都会人のペーソスとメランコリーを歌っている」を引用し「作曲者のぼくが感心するほど,この曲の内容を端的に説明している」としている(清水脩「合唱の素顔」の「曲目解説」)。
外面的には,雑誌「音楽の友」の付録として楽譜が全国に行き渡ったことと,福永陽一郎指揮の東京コラリアーズが各地の演奏会で実際の音にして回ったことが影響したと考えられる。当時急速に人数を増やしていた合唱団にとって,楽譜があり,詩と組曲の構成に共感し,実際の音として聴くことができたのだから,自分たちでも歌いたくなる。レパートリーの少ない当時,「月光とピエロ」は貴重な存在であり,だから成功し,のちの「組曲流行り」を生み出した。
* 福永は「『労音』の活動がもっとも隆盛をきわめた頃,私は,日本全国のほとんどの都市でこの曲を指揮演奏した。かぞえてみたことはないが,本番ステージだけで,三百回はとっくに越しているはずである」としている(東芝LP TA-8034 現代合唱曲シリーズ「月光とピエロ」解説)。この数字は決して大げさではなく,例えば先に引用した1955年5月の京都労音演奏会では,この組曲を約10日間で7回演奏している。
先のグラフには東京コラリアーズのデータは含まれていないが,10周年で活動休止した合唱団なので,カウント基準では多くても10増やすことしかできない。しかし,実際にはその「+10」を遥かに上回る影響を与えていると考える。
では多田武彦を加えたらどうだろう。ここで同じ基準で数えた多田武彦のデータをみてみよう。「柳河風俗詩」「富士山」「雨」「草野心平の詩から」「雪明かりの路」が上位であり,男声合唱愛好家は納得の結果だろう。
これに,更に男声合唱の主要レパートリーを重ねる。次点の「柳河風俗詩」でも200団体に届いておらず,300団体以上に歌われた「月光とピエロ」の大きさが分かる*。この組曲の成功が「柳河風俗詩」を生み,更にのちの流れを生み出したと言える。そのための動機は,作曲家,合唱団,楽譜出版社の各々にあったという仮説を以下展開していく。
* これらのグラフで全ての演奏団体が数えられていないことは,言うまでもない。しかし,傾向は十分表されていると考える。
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