Ⅳ 合唱組曲の普及
前節末に述べたように,合唱組曲の普及については作曲家,合唱団,楽譜出版社の各々に「動機」があったと考える。どれがどれの原因という関係ではなく,相互に関連しながら組曲が普及していった。以下,各々について述べていく。
①作曲家の動機
合唱辞典を元に,合唱組曲を作曲した初期の人を示す。赤字で示したのは,作曲者(編曲者)が自ら指揮する団体のために作曲した作品。混声表記以外は男声。初演時点で「組曲」と呼ばれたか定かではない作品もある*。初演当時から確実に「組曲」と呼ばれたものは,全て作曲家が自ら指揮する団体に作ったものである。
多田武彦は,自らの指揮で初演してはいないが,かって指揮した京大合唱団のために作曲したという意味で,強引ではあるけれど準じてここに含める。
* 石桁真礼生の作品については,合唱辞典で「組曲」とされているが,出版された楽譜には何も書かれておらず,また放送当時に組曲と呼ばれたのか不明。「月光に寄せる奇想曲」は月光をモチーフとした4つの詩に作曲された無伴奏混声四部の作品で,構成的に組曲と言えるが(作詩の冬木京介は「日本の作曲家」によれば石桁のペンネーム)。「こだま」は松本重真のこだまをテーマとする5つの詩に作曲されたバス独唱付きの無伴奏混声四部作品。
清水脩の「三つの俗謡」「三つの小笠原新調」についても,昭和28年(1953年)の「清水脩男声合唱曲集」では,清水は「この曲」と記しており,目次にも楽譜ページにも解説にも「組曲」と表記されていない。しかし,昭和39年(1964年)に出たカワイ合唱名曲選では「男声合唱組曲『三つの俗歌』」とされ,「三つの小笠原新調」も昭和44年に出た際に男声合唱組曲とされた。ところが,昭和50年(1975年)に音楽之友社から出た「清水脩・合唱曲全集1」では,「三つの俗歌」は組曲とされているが,「三つの小笠原新調」には何も記されていない。初演した京大合唱団の70年史では組曲とされているが,後年の編集であるため当初からの呼び方だったか分からない。
石井歓の「白い季節の歌」は昭和39年の出版時には混声合唱組曲とされているが「かって,季節の歌として連続して放送したものをまとめて,組曲に整えなおしたものであります」と記されており,放送当初は組曲ではなかった可能性が高い。
磯部や大中は自ら指揮する合唱団を持つがゆえに,「月光とピエロ」を聴き(知り),あるテーマのもとに複数の合唱曲を組み上げる組曲の可能性と応用の広さをいち早く理解したのだろう。「Ⅰ 合唱組曲の定義」で紹介した多田武彦が伝える清水脩の言葉は,組曲を作る際の注意事項だが,裏返せば注意深く作曲された組曲は単独曲にはない表現ができる。
私は作曲家ではなく,この点については想像の域を出ないが,資料を集め(できればこの頃の作曲家の発言として),仮説を裏付けていきたい。第68回東西四大学合唱演奏会の早稲田大学グリークラブの演奏曲「男声合唱とピアノのための『天使のいる構図』」の解説で,指揮者の清水敬一さんは作曲者の松本望さんの考えを紹介しているが,これは貴重な記述。
「松本さんは『組曲』として複数曲をまとめあげること」に意義を見出すことをテーマにしているそうですが,それに沿って作曲上の実験を繰り返しているそうです。そのテーマ(組曲としての構成感)を明確に意識して作曲した最初の作品がこの「天使のいる構図」です。」
この「組曲としての構成感」という表現,これがまさにここで述べたいことである。伝え聞いたところでは,松本さんは自身でこの曲を伴奏された際に曲と曲の間(ま)に拘りがある印象だったそうで,曲間も含め組曲として構成されているのだろう。指揮者は演奏中の間(ま)を自分の表現として取っているのだろうけど,作曲家がそこまで責任を持つことが本来の姿かもしれない。しかし,楽譜に指定することは難しいし,前後の曲の表現によっても変わってくるだろう。日本の組曲もすごいレベルになってきたものだ。
組曲を演奏するためには,およそ15-20分程度かかる(近年の組曲は,もっと演奏時間が長いけど)。これは合唱団のプログラムビルにおいて,誠に都合がよいものだった。次に合唱団の視点からみていく。
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