合唱組曲の誕生と普及 (5)

②合唱団の動機

 合唱団の演奏会,例えば大学合唱団の演奏会に行くと,全て同じテンプレートが適用されている。まず学歌やクラブソング,続いて前半に2つのステージ,休憩を挟んで後半も2つのステージ,最後にアンコール。稀に3ステージや5ステージの場合もあるが,基本この構成。ジョイントコンサートの場合は,学歌の交歓の後,前半各々1ステージ,休憩を挟んで各々1ステージ,もう一度休憩の後合同演奏,アンコール。こちらも様式として完成されている。各ステージは,組曲やオペラ合唱曲集,シューベルト合唱曲集のように,あるテーマでまとめられた曲で構成される。

 合唱団の演奏会はそんなものだと思っていると,海外合唱団の公演では構成が異なる。休憩を挟んで前半と後半の2部構成,各々の中で様々な曲が歌われる。一例として2017年1月に来日したHarvard Glee Clubの1ステージを示す。バレストリーナ,シューベルト,プーランクから現代曲や愛唱曲まで,一つのステージが「幕の内弁当」のような様々な曲で構成されている*。ミサ曲からGloriaやCredoが一曲だけ歌われる例もある(この例でも2曲め「アッシジの聖フランチェスコの4つの小さな祈り」は2から4の3曲が演奏されている)。プログラムビルが大変だと思うが,広い範囲からバラエティ豊かに選曲されている。これは日本公演向けにそのような構成にしたのではなく,私が海外で聴いた時も海外の合唱団はこのようなスタイルで演奏していた。このようなスタイルの違いはどこから生じたのだろうか?


* 愛唱曲ステージや「歌でつづる〇〇グリークラブの何十年」的な特別なステージではこのような構成のものもある。


 次の図は大正11年(1922年)の「関西学院グリークラブ音樂演奏會」のプログラムを,同クラブの40年史から引用したものである。2部構成の中に,合唱以外の演奏がいくつかある。


一つの演奏単位をステージと呼ぶことにすると,この演奏会では

 男声合唱 5ステージ

 男声四重唱 1ステージ

 ピアノ 4ステージ

 バイオリン 1ステージ

 その他 1ステージ

と12ステージからなっている。このような構成となる理由は,一つは当時は洋楽の演奏会が珍しく(東京以外では),多様な演奏を聴かせることがミッションの一つとなっていたため。いわば大学クラブの音楽演奏が洋楽教育の場となっていたことがある。男声合唱団のメンバーがマンドリンオーケストラの団員であるケースも少なくなく,マンドリン合奏を伴う場合も多い。

 もう一つの理由は,合唱団の人数が少なく練度もバラバラで,全員が多くの曲を一度に歌うことが難しかったため。メンバーによって歌える曲に違いがあり,このような構成をとらざるを得なかった。


 合唱演奏会(合唱団が主催する演奏会)のステージ構成,合唱以外にどのような演奏が行われたのかを年度ごとに調査した結果を示す。戦前・戦後に存在し多くの演奏会プログラムのデータが得られる「関西学院グリークラブ」「同志社グリークラブ」「慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団」「男声合唱団東京リーダーターフェルフェライン」の部史を元に,明治大正期についてはデータが少ないため「同志社音楽大会」「京都大学音楽大会」など大学が主催する音楽会のデータも加えまとめた。東西四大学,東京六大学のような連盟があるものは除外し,数値は平均値で表した。例えばその年に5団体の演奏がありカルテットのステージが一つあれば,数値は0.2となる。

 まず,戦前は合唱団主催の演奏会でも,楽器のステージが多い。しかし,次第に独唱を含む声楽のステージが増加してくる。言い換えると,合唱ステージの割合が増えてくる。合唱ステージ数が増えると言うより,総ステージ数が減少する中で比率が上がっていく。この理由は後に述べる。

 戦後も当初は戦前と同じ傾向だが,楽器演奏は急減,1950年代半ばには合唱およびカルテットで構成されるようになる。カルテットについて,その頃はダーク・ダックスやデューク・エイセスなどプロの男声四重唱団が一般にも人気があり,演奏旅行等では長くカルテットのステージがあった。合唱曲のステージ数が1960年頃から4から5となっており,現在の4ステージはこの頃に確立された事がわかる(1960年台は合唱団員数が多く,定演が5ステージある団もあったため平均値は高めである)


 この状況を演奏曲数の推移として示す。戦前の総演奏曲数(楽器と声楽の演奏曲数を合わせたもの)は多少増減するものの概ね15曲程度である。合唱の曲数は次第に増加し,当初3曲程度しかなかったものが終戦直前には10曲程度になっている。合唱団の人数が増え,また次第に力をつけ,披露できる曲の数が増えていったことが示されている。戦後は,合唱団の演奏会はほぼ全て合唱曲という,当然の状況になる。

 合唱曲数とステージ数,それらの比である「一ステージあたりの曲数」を示すと,5曲と一般的な組曲の曲数となっている。欧米と比べ実力的にもレパートリー的にも物足りなかった日本の男声合唱も,団員の増加・実力の向上・レパートリーの増加の中,「4-5ステージ,4-5曲程度」へと自然に収斂した。

 こうして,合唱団員の意識として,「演奏会は4ステージ」として考える中で,ステージに15-20分程度要する組曲は便利であった。団員数が増え,全員がオンステし全てのステージが合唱曲で埋める状況において,適当な長さがあり音楽的にも高度(と考えられる)組曲の使い勝手が良かったのであろう*。清水脩は「アイヌのウポポ」について,「立教大学グリークラブから,15分乃至20分の男声合唱曲の作曲を依頼されていた」と記しており,1961年頃には「1ステージは15-20分」の認識があった事が示されている。

 この「1ステージは15-20分」は時として奇妙なステージを生み出す。清水脩の「朔太郎の四つの詩」「大手拓次の三つの詩」はそれぞれ10分と7分程度と短く,単独ステージには物足りないため,一緒に演奏されている例が散見される。「黙示」「阿波祈禱文」も同様である。ある意味海外的とも言えるが。

 また,湯山昭「ゆうやけの歌」は全日本合唱コンクールの課題曲として作曲されたためこれも10分程度であるため,福永陽一郎は同志社グリークラブで演奏した際,湯山の女声合唱曲を男声編曲したものや他の男声合唱曲を合わせステージとした。福永はその理由を「演奏時間10分足らず。コンサートのひとステージとして,時間的にやや短いので」と記しており,音楽としての統一より時間を優先して考えている点が興味深い。余談だけど,晩年の多田武彦が過去の作品を改定し短い組曲では曲数を増やしていったのは,これからも歌い続けられるためには長さもポイントの一つと考えたのかもしれない。

 * 戦後は黒人霊歌やRobert Shawの合唱曲も輸入され,それらをまとめると一つのステージをつくることができた。また戦前から歌われていたシューベルトやメンデルスゾーンも数曲を集めステージとして演奏できるだけの力もついた。4ステージ構成が根付いていった背景には,こういったことも関係している。

(以上)


日本男声合唱史研究室

日本における男声合唱史の研究 Study on male chorus history in Japan 主として明治期から1980年頃までの,日本の男声合唱について資料調査したことを中心にアップしていく予定です。いわば,私家版の「日本男声合唱史」を作る試みです。 タイトルは思い切り気張ってみました(笑)。 2024年4月15日から「無料プラン」の仕様が変わるため,構成を組み替えました。

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