グリークラブアルバムの研究 各曲編 25. 柳河


  本来は「グリークラブアルバムの研究 日本曲編」の最後だが,長文になったため別項目とする。


25. 柳河

作詩 北原白秋

作曲 多田武彦


 グリークラブアルバム日本語編のラストは,やはりこの曲。組曲「柳河風俗詩」の第一曲であり,多田武彦データベース*によれば「87年のご生涯で113作の組曲(うち95作が男声合唱組曲),単曲ベースのカウントで719曲の合唱曲を作曲」の第一曲でもある。個人的にも初めて聴いた多田武彦の曲だった。ビクターのLP**に吹き込まれた北村協一指揮の関西学院グリークラブの演奏は,合唱初心者の魂を引っこ抜いた。それ以来男声合唱の魅力にハマってしまい,いまだに抜け出せていない。

* https://seesaawiki.jp/w/chorus_mania/

** ビクター「現代合唱曲選5 多田武彦作品集」SJX-1017


 以下,①「柳河」が作曲されるまで ②「柳河」と組曲「柳河風俗詩」 ③組曲「柳河風俗詩」の出版 にわけ,時系列にみていく。

 まず初期年表は,「多田武彦が記した略歴*」と昭和30年代に多田が書いた記事を元に,適宜その他の資料で補足し作成した。年齢は多田の誕生日「昭和5年11月22日」を元に,ネットの年齢計算サイトで算出した。年月しかわからない年はその月の1日,年しかわからない場合は4月1日の年齢を記してある。東京コラリアーズの演奏記録を示している理由は後に述べる。重要なところは赤で示した。

* http://www.ric.hi-ho.ne.jp/neo-rkato/yaro/20140208tadatake_ryakureki.html

① 「柳河」が作曲されるまで

 作曲を志したのが昭和21年3月13日であることは,前述のビクターLPで多田が当時の日記を引用し述べている。琵琶湖の朝もやに感動し,幻想の少女が多田に一瞥し消えていく様をみた。

「この瞬間,私は,日本の伝統的な綾織の上にこうした幻想的な美しさがかもし出されるような音楽を心から書いてみたい,という希望が湧き上がってきた」

 翌年,中学4年終了時に旧制大阪高等学校に合格*,田中信昭氏らが作ったコーラス部に入部。旧制大阪高等学校の同窓会史を読むと,同校には戦前からグリークラブがあったが,コーラス部は昭和21年の記念祭を契機に設立されたもので,グリークラブとは別組織。詳しくは過去記事を参照ください**。

* 念のため,普通は中学5年終了で受験した。

** https://ameblo.jp/tonotono-57-oboegaki/entry-12402373203.html


 旧制大阪高等学校生の手記を集めた「八月十五日の青春」には多田も寄稿しており(「二六回文化丙類」とされている),一年早い入学のため学力不足に悩み,国文学担当の犬養孝教授(いうまでもなく著名な万葉文学者)に相談したところ,

「君は作曲の勉強を始めているようだから,日本の詩による歌曲を作ってみてはどうか」と励まされたことを記している。15歳で思ったことを実践していたわけだが,「コーラス部に入部,『ヨーロッパにそのルーツを持つ無伴奏男声四部合唱』に興味をいだき始めていたので,この助言を元に,本格的に和声学・対位法・楽式論などの作曲上の基礎的な技術装備を始めることにした」とあり,この時期に多田はその後の基礎を築いた。


 犬養から読むよう勧められた書物の中に,中原中也の詩集があった。

「詳しい理由は省略するが,少なくともその頃の私が中也の詩集を読んで元気を取り戻したことは事実である。そして,昭和25年に京都大学へ入学してから,中也の詩のいくつかを独唱曲として作曲し始めている」

「このレコード*に収録された合唱曲の中で,『早春の風』『閑寂』『また来ん春』『北の海』『汚れっちまった悲しみに』『雲雀』『六月の雨』『月の光』『冬の日の記憶』『冬の長門峡』がそれであり,後年,無伴奏男声合唱曲として日の目を見た」

と記している。他にもありそうだが,これらはファンに承知の曲である。多田はまた

「合唱曲の一部には,私の処女作『柳河風俗詩』以前の作風が残されており,私自身にとっても,あの昭和20年代の『戦後の混乱期ではあったが,何か新しい息吹が感じられた時代』への郷愁が感じられる」と,これらの曲の一部に「柳河風俗詩以前の作風が残されている」としているのは興味深い。確かに,いわゆる多田節と異なる印象の曲がある。

* 東芝LP「現代合唱曲シリーズ 中原中也の詩から 多田武彦作品集」TA-72091


 昭和25年京都大学に入学*,京都大学男声合唱団に入団した。京都大学男声合唱団は,混声合唱団である京大合唱団に内包される男声合唱団で,京大生で構成される。女声合唱団は京都フラウエンコールと呼ばれ,こちらは他大学の学生やOLも入団できた。現在ではよくある形態だが,昭和9年にはこの形で混声合唱団を組織し,シューマン「流浪の民」等を歌っている。混声の活動は昭和16年に休止したが,男声は昭和20年7月29日に発表会を行うなど活動を継続,昭和26年1月には混声合唱を再開した(「京大合唱団70年史」より)。

* 多田ら旧制高校26回(の生徒)は,「八月十五日の青春」によれば「昭和22年4月入学,昭和25年3月卒業」の3年間在学であり,19才の入学だが多田は「受験浪人」していない。学制の変わり目なのでややこしく,一期下の27回は「昭和23年4月入学,昭和24年3月終了」と2年間在学,26回生に先行し新制大学の1回生に編入された。


 指揮者は混声,男声,女声と別に置かれているようで,多田は1回生ながら10月に男声合唱団の指揮者に選任されたが,それは「京大合唱団70年史」よれば前任者をリコールする形で行われた。「70年史」には,その理由を前任者は京大オーケストラと兼任で合唱団の指揮に熱心ではなかった旨述べられており,「臨時総会におけるこの交代劇は,京大合唱団の性格(自主制・民主制・・)の延長線上に生まれ,その後この性格を一層強固にする契機となった」と位置づけられている。(自主制・民主制の制は原文ママ)

 メンネルコール広友会の楽譜「男声合唱組曲『樅の樹の歌』」に収録された文集では京大男声で多田と同期だった方が次のように述べておられる。

「多田氏が入団した夏,比叡山で合宿したところ,偶々ジェーン台風が来て正指揮者が入団できなかったので,急遽多田氏が指揮をすることになった。一風変わった多田氏の指揮を上級生の幹部たちが認め,秋の合唱コンクールの2週間前に多田氏を正指揮者に立てた。このとき京大男声は,関西合唱コンクールで初めて3位入賞を果たした」

 こちらは全体のトーンがもう少し「平和的」に思うが,いずれにせよ多田の力が既に認められていたからこその抜擢であろう。この「一風変わった」が何かは分からないが,俗に「タダメソッド」と呼ばれる指導の初期版だったのかもしれない*。

* 多田は昭和24年に関西学院グリークラブ50周年記念合唱音楽会を聴き「水墨画のようなア・カペラの男声合唱の美しさに感動し,人間の声だけでこんなに素晴らしい音楽が出来るのか,と驚嘆した」としている。関西学院グリークラブ100周年に寄せたメッセージ(http://www.kg-glee.gr.jp/dataroom/message.html)では「名演奏の極意」の研究は卒業後に本格化したと読めるが,初歩的なものはあったかもしれない。多田が自らの考えを「『合唱コンクールに入賞するための大事な方法 ー 音符の肉付けその他についてー』」と題し最初に発表したのは昭和34年のことである(https://twitter.com/mukashiongen/status/993391751581786112)。


(2019/9/12追記)

「多田武彦 公認サイト」にある「西洋音楽の指揮に関する提言*」には,このときの関西合唱コンクールについての多田の述懐があり,「一風変わった指揮」に関する言及がある。少し長いが引用する

「 1951 年の関西合唱コンクールで、私の指揮する京都大学男声合唱団は関西学院グリークラブに次いで 2 位に入賞したが,林先生の評点は 6 位と厳しかった。その理由を聞きに行くには余りにも畏おそれ多いので,そのままにしていた。

 翌年には宗教曲に挑戦したものの 3 位に落ち,林先生の評点も 8 位と下がっていた。その日,会場のロビーで林先生にばったりお会いした時,先生の方からお声掛け戴いた。

『真の合唱音楽の構築を知らない一部の審査員は,君の演出過剰の演奏に気を取られていた。そんな審査結果を過信するな。昨年も今年も,あのようなアンサンブルの低劣な歌唱法での合唱音楽には,高得点を与えることは出来ない」』 と厳しい口調で仰ってから 『君も来春には卒業するのだから,次のことを後輩たちに伝えておけ』と、次のことをご教示戴いた。 」

 どうやら後年のタダメソッドというより「演出過剰」ということだったらしい。むしろこのとき林雄一郎からうけた薫陶がのちに生かされたことになる。薫陶の内容についてはリンク先を参照ください。

* http://www.ric.hi-ho.ne.jp/neo-rkato/yaro/seiyo_ongaku_no_shikini_kannsuru_teigen2013.pdf


 指揮者に就任した多田は組曲「月光とピエロ」をレパートリーとして採用する。楽譜が出版されたのは昭和28年だが,「音楽の友 昭和26年(1951年)7月号」に楽譜が清水自身の解説と共に収録されたため*,いち早く取り上げたのだろう。昭和26年11月23日の京大合唱団第22回演奏会で演奏したあと,12月9日に大阪で開かれた清水脩作品発表会に「前座として飛び込み出演」した。 再びメンネルコール交友会の文集を参照する。

「無謀にもMとT(注:多田ではない)が『この発表会の前座に,京大男声の”月光とピエロ”を演奏させていただきたい』と折衝した。清水脩先生はこれを快諾。発表会の後で,清水先生から,当夜の演奏の中では京大の”ピエロ”がいちばん良かった,とほめられる演奏をしたのであった」

 頼む方も大胆だが,清水も太っ腹だ。ちなみにこの日の発表会は「交響曲第一番(初演),近衛秀麿指揮 関西交響楽団」「インド旋律による四楽章,近衛秀麿指揮 関西交響楽団」「交声曲『平和』,朝比奈隆指揮 アサヒコーラス+関西交響楽団」というプログラムだった**ので,「前座」というのは言い得て妙。

 これを機会に多田は清水脩としりあう。先日の演奏会プログラムも渡されたようで,清水は「京都大学男声合唱団が,多田武彦くんの指揮でこの曲を演奏したときの解説は,これ以上にもっともらしい名文であったのを記憶している。(中略) 『青年の誰もが一度はいだく,一種の虚無感,現実に対する絶望感,やり場のない正義感を見つめる自嘲』という意味のことが書いてあった」としている(清水脩「合唱の素顔」カワイ楽譜)。

* https://ameblo.jp/tonotono-57-oboegaki/entry-12459371711.html

** 「清水脩データベース」http://coro-varon.mond.jp/os-performance.htm#others


 自分は運命論者ではないけど,多田は折々に運命に出会っている。台風が来ず多田が指揮することがなければ,どうなっていただろう。正指揮者に就任せず,清水脩との出会いもなかったかもしれない。多田の二人の弟が,それぞれ同志社と関西学院のグリークラブに入部,それを契機に曲を提供したことも飛躍のきっかけと言える。もちろん,多田の努力が引き寄せたことであろうけど,田中信昭や犬養孝らとの出会いも含め,折々にその後を決定する出来事にであっているのは不思議な気持ち。


② 「柳河」と組曲「柳河風俗詩」

 そしてついに「柳河」が作曲されるわけだが,中原中也の詩のいくつかに独唱曲をつけていた多田が,中原中也ではなく北原白秋の詩を選んだ理由は何だろうか?


 これについては,音楽之友社から楽譜「中原中也の詩から」(合唱名曲コレクションB16TTBB 昭和43年8月30日初版)を出した際,多田はあとがきに「先輩の諸先生方と同じように,私も中也の詩に惹かれ,作曲をしようと思い,いくつかの曲のモチーフだけは,随分前にできあがっていた。しかし,『心の中に,何かジーンとしたものを残していく中也の詩の深さ』を表現するには,当時の私の作曲技術はきわめて未熟であった」と記している。少なくとも多田の自己評価において,イメージするような曲を作れなかった,ということらしい。

 裏返すと,北原白秋の詩には曲をつける技術があった,と言っていることになる。白秋の詩について多田はこう述べている。

「多くの人の例に洩れず,私も北原白秋の詩が好きだった。恩師清水脩先生のアドヴァイス*もあって親しみ易く歌い易い日本の合唱曲を作曲しようと思い立ったとき,私はためらわず白秋の詩集を手にしていた。ところが,歌い易い詩は既にいろいろな先生方によって作曲されていた。まだ何か残っていはしないか,と探しているうちに,白秋がその生まれ故郷を綴った『柳河風俗詩』に出くわした。作曲したのは私が23才のときで,ただ無心の気持ちで書いたことだけを覚えている」(東芝LP「現代合唱曲シリーズ 柳河風俗詩 –多田武彦作品集ー」TA-8023)

 「出くわす」という表現に「たまたま感」が溢れているが,当時の多田の感性と技術が素直に共鳴する詩集だったらしい(「柳河風俗詩」は白秋の詩集「思ひ出」にある「章」の名前)。「いろいろな先生方」に作曲されていなかった詩と,多田の若さと感性と技術の奇跡的な出会いだったと言える。作曲技術については後述する。

*  多田の略歴にある「『就職先決定の報告と、それまでのご指導のお礼かたがた,卒業を期に,就職の報告かたがた,この機に音楽もやめる』意向を清水先生に伝えに参上した処,『日曜作家としてア・カペラの男声合唱曲を少しずつ書いていったらどうか』と勧められ,日曜作家としての作曲活動が始まった。」を指すものだろう。


 「柳河」は「昭和28年度合唱コンクール課題曲として応募」とあるが,ではいつ頃作曲したのだろうか?  多田は昭和28年3月に卒業しているので*,在学中の作曲か卒業後の作曲かを確認してみる。

* 多田の略歴に「私が大学を卒業する前年の1952年(昭和27年)」とあり,昭和28年(3月)に卒業している。すると在学期間が3年となるが,前述のように中学に4年在学しているので,中学から大学の在学期間は現在と同じ。入学時に学制的には2回生だったらしい。学制の変わり目でややこしい。


 多田は昭和35年に「雨の来る前」を応募し,「八年目にやっと入選できました」と記しているが,それは合唱界vol.4 no.7 (1960)の記事である。昭和35年の6月には結果がわかっていたことになる。同じ記事で「昨年(注:昭和34年)の秋頃から手掛けていましたが,なかなかまとまらなかったところ,今年に入って,漸く人まねをできるようになった一年十ヶ月になる長女が,私の傍らで『ナツノアメ,ナツノアメ,ナツノアメ』と繰り返している所からヒントを得て,それから一気に書き上げることができました」と述べている。

 作曲のスタイルや秘話も興味深いが,応募作を1月頃に作曲したことを示している。おそらく,「柳河」もその頃に書き上げていただろう。つまり,大学在学時の作曲の可能性が高く,この曲は22歳で書いたことになる。

 その時点で清水に見せたのかどうかは分からないが,福永陽一郎は後に「独唱の部分がなければ,当然入選していたはずの名曲だ。そのメロディの美しさは,選者たちの嫉妬心をかきたてるに充分だったと思われる」(合唱サークル vol.1 no.8 (1966))と記している。なお,この年に男声の課題曲になったのは清水脩の「海」だった*。

* 昭和35年は清水脩が応募曲の感想を述べており,この年初めて男声・混声・女声の全て入選作があったと記している。入選がないときは既存曲か,または作曲家に委託されている様子。「清水脩・合唱曲全集10」に「海」が収録されているが,他の曲と異なりこの曲は作られた経緯を記していない。

(2019年10月10日追記)

 当時の新聞記事によれば,この年の課題曲応募は3月26日に募集が始まり,締切は5月20日。選考結果の新聞発表は6月20日で,多田の「柳河」と磯部俶の「ねずみ」が佳作になっている。賞金は3千円。男声の入選作がないため,清水脩に新作依頼したことが記されている。

 その昭和28年11月29日,京大合唱団第24回演奏会で,「柳河」は清水の「海」,中田喜直の「焚火」と同じステージで演奏された。おそらくこれが公開の場での初演。

この頃から多田は清水に作曲を教えてもらうようになる*。清水はその頃,月に一度大阪に来ていたそうで,「京大合唱団70年史」では「卒業した年の暮から作曲を教えてもらうようになった」とあるが,これは昭和28年の11月のことで,翌年2月まで対位法を教わったとしている(東芝CD「合唱名曲コレクション42 富士山」所収の「組曲『柳河風俗詩』について」の「作曲者ノート」から)。

*2019年10月10日追記

 これが清水から多田への「特別なレクチャー」だったかどうかは,確定しない。下図のの例に示すとおり,清水はこのころ大阪で一般向けに「作曲教室」を開いていた。前述のように「日曜作家としてア・カペラの男声合唱曲を少しずつ書いていったらどうか」と言われた時,社会人生活に慣れたら参加するように紹介された可能性もある。

 合唱界の記事によれば,昭和29年の2月に組曲「柳河風俗詩」を作曲した。

 翌年の昭和29年に先生から『理論ばかりでは駄目だから,何か習作を作ってこい』と命じられ,組曲『柳河風俗詩』を提出した。先生は褒めることはされず,問題点だけを厳しく指摘された*。」(京大合唱団70年史)

「なるほど歌い易く美しい曲だが,男声合唱としてはちょっと優しすぎるし,もっと音域もたっぷり使い,壮大な曲想のものを書くべきだ」(東芝LP TA-8023「現代合唱曲シリーズ 柳河風俗詩 –多田武彦作品集-」)

 「合唱名曲コレクション42」の 「作曲者ノート」では「二回目のレッスンのとき『習作を作って来い』と言われた」とされているので,1月が2回めのレッスンだっことになり,そして3回目にして最後のレッスンで組曲「柳河風俗詩」を提出し講評をうけた。ちょっとペースが速いので,既に組曲にする構想をもっていたのかもしれない**。

* 清水は消沈する多田に「人間は兎角(とにかく)褒め言葉に弱い。しかし,褒め言葉に甘んじているようでは成長はない。逆に,助言・忠告・誹謗・罵詈雑言の中には真実が多い。他人に言われたからといって,君の信念を曲げる必要はないが,『助言・忠告・誹謗・罵詈雑言の奥にある相手の好意』を謙虚に受け止めろ。その中の必要なものを取捨選択するのは君の権利であり俺に強制する権利はない」と付け加えた。このとき清水は43歳。なかなか言えるものではない。


 多田が指導を受け修正したのかどうか,そして修正版を清水に(直接ではなくても)みてもらったかどうかは定かではないが,おそらく修正したことだろう。


** 2019/9/12追記

「多田武彦公認サイト」の「多田武彦メッセージ集」にある「第39回東西四大学合唱演奏会 男声合唱組曲「柳河風俗詩」について*」によれば,「ちょうど第一曲の『柳河』が昭和28年合唱コンクール課題曲募集の際の佳作に入選していたので,これを含めて,合唱組曲を書こうと思い,一ヶ月で完成した」と記しており,清水の指示が契機だったとしている。素人のサラリーマンに,一ヶ月で組曲を書いてこいと清水が本当に指示したのか,やや疑問は残る。なお,清水による修正箇所は三ヶ所ほどだったらしい。

* http://rkato.sakura.ne.jp/yaroukai/tadatake_messageshu/tadatake_message_PDF/tadatake_message-39.pdf


 この組曲は,清水のおしえのうち,「起承転結」に関して言うと,詩を普通に並べると(起)柳河→(承)かきつばた→(転)紺屋のおろく→(結)梅雨の晴れ間

になる。もしかすると多田の当初の構想もそうだったかもしれない。しかし,曲をつけてみるとテンポ的には緩→緩→急→急となり,面白みにかける。そのため,現在の曲順にし緩→急→緩→急としたのではないか。

 私は音楽理論的にどうこう言うことはできないので,福永陽一郎のノートを引用する。

福永は「柳河風俗詩」を組曲としてのまとまりと起承転結の良さ,メロディーの美しさから,多田の代表作とみなされるとした上で,

「メロディーにも,ハーモニーの連結パターンにも,ユニゾンやポリフォニーの効果にも,意識的な作為がなく,音楽的に純粋であるということができる。同時に,処女作にはつきものの,技法的な未熟さは随所にあり,メロディー以外の声部は,なかなか唄いにくいところもある(『富士山』では,そうした”唄いにくさ”は姿を消している)」と評している。(東芝LP TA-8023 )


 組曲「柳河風俗詩」はその年,昭和29年に初演されるが,昭和33年の雑誌「合唱界」で多田は「6月初演」としている。一方,「京大合唱団70年史」では昭和29年12月5日の同合唱団第25回演奏会での初演としている。多田自身は後にLPの解説で「昭和30年12月,京都大学男声合唱団によって初演された」と年が違うが12月だと述べている。

どちらが正しいか?

 単純に考えると,初演に近い昭和33年の記述が信用できる。「京大合唱団70年史」では同団はこの年6月に3つの演奏会に出演している。6月12日の「4大学合同演奏会(名大男声・東大コール・横浜国大グリー・京大男声)」,6月13日の「紫明混声発表会に賛助出演」,6月26日の「アルマ・マータ演奏会に賛助出演」である。

 うちアルマ・マータ・クワイアについてはこの演奏会のプログラムが同団のホームページにあり*,京大男声の賛助も「柳河風俗詩」の演奏もなく,京大合唱団の有志が出演だったらしい。この会で多田は「日本民謡」「ドイツミサ」の2ステージでアルマ・マータ・クワイアを指揮している。

* http://alma-mater.jp/pastconcert/


 他の2つの演奏会については現時点で情報がなく,演奏された可能性を排除できない(2018年9月6日追記を参照)。

 「6月初演」とはステージでの演奏ではなく,多田の指導で京都大学男声合唱団が組曲「柳河風俗詩」を実際の音にしたことを意味する可能性もある。

 また,ミスプリの可能性もある。実際この記事では,「柳河」を「梁川」と誤植している。どちらも読みは「やながわ」なので,現在ならワープロの変換ミスであるが,当時は手書き原稿を読み活字を拾って版を組んだので,活字工が「柳河」→「やながわ」→「梁川」とミスしている(多田が書き間違えたとは考えにくい)。「一二月」を「六月」と組み間違うことはあるのか?


(2019年9月6日追加)

 古書店のカタログに 6月12日の「4大学合同演奏会*」のプログラムが載っているのを見つけ購入したところ,組曲「柳河風俗詩」が演奏曲として記載されており,「本邦では初めて公開される」と説明されている。つまり,昭和33年の雑誌「合唱界」で多田が述べたことが正しいことになる。

 資料的にはこれで決着だが,そうすると「京大合唱団70年史」や多田自身が後年の解説で「12月初演」を述べているのはなぜか,疑問は残る(多田がそう記したのは昭和45年頃,70年史は平成13年発行で,多田の記録のほうが早い)。演奏曲目が差し替えられ実際には演奏されなかった可能性は排除できない。しかし,当時演奏した人やこの演奏会を聴かれた人からの証言がない限り検証できない。現時点では,資料が存在する「6月初演」説を採用する。

* 名古屋大学男声合唱団の指揮者は藤井知昭とされており,年代的に音楽学者の藤井知昭氏のことだと思われる。


(2021/8/2追記)

2021年8月,安藤龍明様が京都大学文書館に寄贈された京大合唱団の資料を調査され,6月12日の「4大学合同演奏会」で確かに初演されたことを確認された*。のちに多田が「12月の定演が初演」に「転向」した理由ははっきりしない。

* http://nihonshijin.blog2.fc2.com/blog-entry-148.html


 さて,清水と多田の「師弟関係」について,多田はLPの解説で清水が作品発表会によせたメッセージを紹介している(東京コラリアーズの「多田作品の夕べ」か?)。

「ぼくは,多田君に数回しか教えていない。だから,多田君は断じてぼくの生徒ではない。誰か他の人に習ったという話もきかないので,おそらは,独学で勉強されたのだろう。だが同君の鋭い感受性は,男声合唱の秘密とでもいえるものを身につけてしまった」

 これに対し多田は「私は数少ない機会の中で,それも普通の対話の中で,清水先生から数多くの貴重な薫陶をうけた*」と記している。教えは3回だったらしいが,清水は普通の話に教えを入れ,多田はそれをしっかり受け止めた。達人同士のやりとりのようで,やはりこの二人はただ者ではない。

* この薫陶の例は「合唱組曲の誕生と普及 (2) 合唱組曲の定義」に引用した。

  https://ameblo.jp/tonotono-57-oboegaki/entry-12456992243.html



③ 組曲「柳河風俗詩」の出版

 ここから「柳河風俗詩」が出版された経緯を調べる。ビッグネームである多田も,昭和30年頃には一介のアマチュア作曲家であり,作品を演奏した団体も限られていた。知名度は全国的には皆無と言って良い。にもかかわらず,組曲「柳河風俗詩」の最初の出版は,昭和32年の「合唱文庫5」(全音楽譜出版社)と早い。清水脩の縁も考えられるけど,私は福永陽一郎が入れたのだろうと考えている。

 昭和20年代も後半になると,「グリークラブアルバムの研究(総論)」で述べたように,多数の男声合唱曲集が出版される。その多くはリーダーシャツの訳詞や新訳が中心だけど,この「合唱文庫」あたりから編曲を含む日本人作曲家の曲も収録されるようになった。

 「合唱文庫」は,2巻・5巻・8巻が男声合唱編で,2巻は全て外国の曲だが,5巻は全て日本の曲,8巻は7割程度が日本の曲。他社と差別化するためか,そんな要望も増え始めたためかは分からないが,多田にとってはタイミングが良かった。

* https://male-chorus-history.amebaownd.com/posts/1829688


 資料はないけど,この「合唱文庫」の編集人に福永が入っていたと思われる。「グリークラブアルバムの研究 各曲編 (21) からたちの花 (2)」で述べた特長があるからだ*。

そして福永は「私はこの第1曲を,出版されるずっと前から,自分のレパートリーに加えていた」としており(東芝LP TA-8023「現代合唱曲シリーズ 柳河風俗詩 –多田武彦作品集-」ライナーズ・ノート),入手経路は不明だが演奏していた。

 実際,東京コラリアーズの演奏会を探ってみると,遅くとも昭和31年には演奏している。これは「私が集められた資料の中では」ということで,もっと早くから演奏していた可能性が高い(実際,この時は福永が藤原歌劇団の渡米公演に同行していたため,指揮は北村協一である)**。

* https://ameblo.jp/tonotono-57-oboegaki/entry-12500268435.html

** この演奏会のアンケート結果に「会場に『リュウガてなんやろ』という声もあり心配されたが,好評でした」とあり,例がいくつか紹介されている。


 福永がどのように楽譜を入手したのか定かでない。もしかすると,課題曲の審査員だったのかもしれない*。また,関西の大学では,まず昭和30年に同志社グリー,昭和31年に同志社グリーと関西学院グリーが演奏しており,出版前に楽譜が流通していた。関西は戦前から「関西学生合唱連盟」を通じて技術とレパートリーの交流が盛んだったので,そういうルートで楽譜が交換されたのか,または,多田の弟たちを通じて渡ったのかもしれない。福永も関西の大学を通じ入手したのかもしれない。

* 2019年10月10日追記
 コンクール課題曲の資料に審査員が記されており,福永の名前はない。当時は東京コラリアーズの立ち上げを決めた頃で,合唱界では無名だった。東京コラリアーズは昭和29年の5月に関西で同志社・関学の主催で演奏会を開いてもらっており,この時に(おそらく同志社から)入手したのではないかと思う。


 そして,「柳河」を元に組曲「柳河風俗詩」が作られたことを知り楽譜を入手,「合唱文庫 5」に載せたのではないか。この巻は全て日本人作曲家の男声合唱曲を収録しており,菅野浩和・林雄一郎・大中恩・橋本國彦・貴志康一・石井歓・磯部俶・中田喜直・清水脩・森脇健三(編曲)の錚々たるメンバーの曲が2-3曲であるなか,多田はアマチュアの新人にも関わらず組曲として4曲,約60ページ中15ページ(歌詞2ページ含む)と1/4に渡って掲載された。それだけ評価が高かったと言える。


 昭和34年に音楽之友社から「多田武彦合唱曲集」が出版された。合唱センターにある楽譜は清水脩が寄贈したもので,多田の贈呈署名があり,日付は「昭和34年8月13日」となっている。収録組曲は「富士山」「月夜孟宗の図」「柳河風俗詩」「雪と花火」で,多田が作った組曲の1曲めから4曲目が収録されている。昭和45年に版型を現在のものに改めた際,「月夜孟宗の図」は評判が良かった「中勘助の詩から」と差し替えられた。

 楽譜を並べると,歌詞の書き方に漢字を混ぜる違いはあるが,音は変えられておらず,多田武彦合唱曲集では速度記号「4分音符=126」が打たれている点が異なる。これはどうも,多田が福永と東京コラリアーズの演奏を気に入らなかったことが原因らしい。

 福永は先程のLPで「その大上段をかぶったスケールの大きすぎた演奏に,当時作曲者はヘキエキしていたらしい」と記している。実際,多田は合唱界vol2の記事で「『やや速く優美に』と書いてあるのに冒頭の『もうしもうし』を大上段ふりかぶってfで演奏されてはこまりもの」と書いており,これが福永の演奏をさすのだろう。他に「ねぎのはたけのたまりみづ」で「なにもかいていないのにrit.されても困る」と記しているが,北村・関学のLPや演奏を聴かれた方は「ははあ」と思い至るであろう。 多田は合唱界vol.8の記事で自作を解題し,「4分音符=126の速さで優美な肉づけではじめるべき」としている。多田武彦合唱曲集で速度記号を入れたのは,少しでも自分のイメージに近い演奏をしてほしい,という意図があるようだ。

 この記事に北村協一は,指揮者の立場から「音楽は生きものだから,126とあっても終始126では決してない」とテンポを揺らすことについて説明を加えている。

 柳河は「グリークラブアルバム CLASSIC」にも収録されているが,速度記号がなく歌詞の書き方は「グリークラブアルバム」の楽譜が用いられている。著作権は「©1959, ONGAKU NO TOMO SHA Corp,」とあり,著作権者は全音楽譜出版社から音楽之友社に移っているらしい。著作権はよく知らないが,了解あれば少々違う楽譜を出しても良い,ということだろうか。

 その後の多田の話は,「グリークラブアルバムの研究」のスコープを超えるので,省略する。

以上

日本男声合唱史研究室

日本における男声合唱史の研究 Study on male chorus history in Japan 主として明治期から1980年頃までの,日本の男声合唱について資料調査したことを中心にアップしていく予定です。いわば,私家版の「日本男声合唱史」を作る試みです。 タイトルは思い切り気張ってみました(笑)。 2024年4月15日から「無料プラン」の仕様が変わるため,構成を組み替えました。

1コメント

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  • sifuso

    2019.12.07 22:46

    多田武彦さんのことを調べていてこのサイトを見つけました。私は半世紀前に大学の男声合唱団で多田武彦さんや清水脩さんの作品を歌いました。「雨」と「智恵子抄巻末の歌六首」は忘れられない曲ですね。